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紙の本
学校の階段 10 (ファミ通文庫)
著者 櫂末 高彰 (著)
「勝ちたい。勝たねばならない」刈谷との階段レースに敗れるも、再戦を渇望する幸宏。来るべきそれを確信しつつ、すべての始まりである「あの日」に想いを馳せる刈谷。勝負にこだわる...
学校の階段 10 (ファミ通文庫)
学校の階段10
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商品説明
「勝ちたい。勝たねばならない」刈谷との階段レースに敗れるも、再戦を渇望する幸宏。来るべきそれを確信しつつ、すべての始まりである「あの日」に想いを馳せる刈谷。勝負にこだわるあまり周囲から孤立していく幸宏を気にかける階段部の面々—。しかし、彼等は知らなかった。二人の決戦に呼応するかのごとく創設以来最大の危機が階段部に迫っていることを…!ビバ青春の無駄足!すべての『疾走る者たち』に贈る学園グラフィティ、堂々完結。【「BOOK」データベースの商品解説】
ラスト ラン、そして「その先」へ――!【商品解説】
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紙の本
若さゆえの葛藤、そして完結
2009/07/30 16:42
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:DSK - この投稿者のレビュー一覧を見る
【一段目 終わりは着実に】(始まりは強引に)
【二段目 不可解な渇望】(非公認な日常)
【三段目 進む道は二通りあるらしい】(踏みつけられたときの反応には二種類あるらしい)
刈谷に負けてもなお勝ちたい思いに苛まれつつ、見えてしまった「先」なるものの正体不明への困惑、説明できないもどかしさ、理解して貰えない苛立ちから孤立する幸宏。また、過去に感じた、変わらぬ日常、普通に過ぎていく毎日への絶望的な喪失感に焦燥、その答えを階段に求めた「あの日」の刈谷。そして、同じ境地にいることを、言葉交わず察していく幸宏と刈谷の心情が吐露されながら再度の決戦へと向かっていく。
【四段目 わりと危機かもしれない】(わりと天邪鬼かもしれない)
【五段目 階段部包囲網って何だよっ?】(保育部って何だよっ?)
【六段目 浮かび上がった、はた迷惑な真実】(叩き付けられた、はた迷惑な挑戦状)
ここで突然訪れる、階段部大ピンチな校内イベント。素直に決戦に向かわせてくれない横槍感少しアリ。ただ、何気にこれまでの登場人物が総出演で華を添える。この後、このイベントの真意と、友人達の思いにより幸宏の心が氷解、重苦しい雰囲気が一掃される。
【七段目 決戦は今】(決戦は土曜日)
ようやく訪れる決戦は少し意外な流れに。最早この2人にとっては「先」を見つけることの方が大事なようである。
【最終段 僕らは】(多分恐らく僕らはみんな)
では、その「先」とは何か。それはおそらく希望だったり夢や目標といったもので、十人十色だからこそ具体的な提示がないのだろうが、要はそれに向かってアツくなれ、真っ直ぐ進め、その求める行為こそが人として真に美しい姿だということであろう。その意味では、刈谷が第1巻からずっと言い続けてきた「先」を模索するシリーズだったとも言えよう。階段はあくまで手段なのである。完結らしく、章題や結びの文が第1巻に呼応した秀逸な構成である。
紙の本
先の先にあるもの
2009/08/01 22:38
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:くまくま - この投稿者のレビュー一覧を見る
とりあえず、神庭幸宏がどれだけみんなに愛されているのか、という事は良く分かりました。あと、渡辺と吉田の名前がこれまで全く出てこなかった理由も。でも、なぜ走るのか、という問いに対する答えは明示的には書かれていない。
社会不適合者の時代を経ながらも曲がりなりにも社会人になって数年が経つが、乏しいとは言えいくらか経験を積んでくると、全く新しい仕事に対しても何んとなく見切りが出来るようになる。別に武道の達人の話ではなく、新人の頃はどんなつまらない仕事にも真正面から全力で取り組んでいかないといけない様な気がするのだけれど、そのうち、要所要所をきっちり締めさえすれば所々手を抜いたとしても無難に仕上げられる、という事が理解できるようになり、さらには事前にどこが要所なのかを知る事が出来るようになる、ということだ。これが悪い方に進むとお役所仕事になるのだけれど、全くできないと、どこかでボキッと折れるという事態になりかねない。
この、見切りを会得できた(気分でいる)のは、初めの頃、死ぬ気で仕事に取り組んだおかげだと思う。今から見れば無駄のように思えることでも当時は無駄ではなかったし、現在を築くための礎になったのだと思えばやはり無駄ではなかったのだろう。一方で、初めの頃に手を抜いて生きていたとしても、今でも適当に生きていられるような気もする。結局どちらが正解なのかは未だに分からない。
刈谷圭吾はどうやら彼自身の答えにたどり着いたようだ。そしていずれは神庭幸宏も答えにたどり着く。果たして読者は自身の答えにたどり着く日が来るのだろうか。