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紙の本
広重の富士 完全版 (集英社新書 ヴィジュアル版)
著者 赤坂 治績 (著)
歌川広重の「富士三十六景」「不二三十六景」「富士見百図」の図版全点を完全収録。さらに「名所江戸百景」「東海道五拾三次」に描かれた富士などの図版も交え、江戸の習俗を紹介しな...
広重の富士 完全版 (集英社新書 ヴィジュアル版)
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商品説明
歌川広重の「富士三十六景」「不二三十六景」「富士見百図」の図版全点を完全収録。さらに「名所江戸百景」「東海道五拾三次」に描かれた富士などの図版も交え、江戸の習俗を紹介しながら広重の富士の魅力を紹介する。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
赤坂 治績
- 略歴
- 〈赤坂治績〉1944年山梨県生まれ。江戸文化研究家、演劇評論家。劇団前進座、『演劇界』編集部を経て独立。著書に「江戸の歌舞伎スキャンダル」「江戸っ子と助六」など。
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これは内容がどうとかいう以前に、画家として広重ってたいしたことないなって思わせてしまう。だから本の内容云々じゃなくて、広重と北斎の比較になってしまって、そう割り切ると正直★三つだろうって。もう本の問題じゃあなくなる。やはり誰を論じるかっていうのは大問題なんですね・・・
2012/01/13 20:36
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ほぼ同時期に他の出版社から内田千鶴子が『宇宙をめざした北斎』という本を出しました。版型はともに新書で、広重267頁に対し後者が237頁、紙質も小型本ながら図版の良さを意識したかなりしっかりしたもので、カラーの図版などは小さいながらも一時代前の類似本とは一線を画すものといえます。たまたまこうなってしまったのか、じゃあ、国立博物館でやっている写楽に対するこういう企画はないのか、などと色々考えてしまいますが、それはそれ、ともかく書店でも並んでおかれたりしていますし、カバーは全面的に作品を使用した美しいものなので、買う側としてもまとめて、あるいは一冊を読み終えてから買う、そんなことになるのかと思います。私はこの二冊もですが、その前に浅野秀剛監修『別冊太陽 北斎決定版』、別冊太陽『北斎冨嶽三十六景の旅 』、狩野博幸『江戸絵画の不都合な真実』と立て続けに読んでいるので、どうしてもそれらとの比較になってしまいます。ていうか、編著者は全く関係なくて、北斎 VS. 広重という見方にならざるをえません。そうするとなんとも歴然たる差が出てしまう。そんなことを確認させられた読書だった、ということになるのでしょう。
さて、気になるのはカバー図版です。歌川広重『名所江戸百景・するがてふ』、タイトルはなんの変哲もないつまらないものですが、実際は正面中央に富士が白い姿を見せる構図的にはしっかりしたもの。ただし、その肝心の富士の山頂を隠すかのようにタイトル文字を縦に並べたのはカバーデザイン担当の伊藤明彦のどのような判断とセンスによるものか、全く疑問、興ざめものではあります。対する『宇宙をめざした北斎』のカバーは『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』、モナリザと並んで世界で最も知名度が高いとされる傑作中の傑作、これはもう比べること自体意味がないだろうといいたくなるほどの差で、広重くん、完敗です。それにしても『名所江戸百景・するがてふ』、私は構図的にはしっかりした、とは書いたものの絵画的には全く凡庸、というか素人だろ、これは、というレベルの凡作で、これなら、つげ義春の単行本『ネジ式』収録の「長八の宿」だったと思うけれど、あのなかに登場する富士のほうがはるかに重く美しい気がします。
そういう意味では、なぜカバーに他の作品、『名所江戸百景・市中繁栄七夕祭』『名所江戸百景・目黒新富士』『富士三十六景・東海道左り不二』、いやほかにもあるでしょうが、そうしたものを使わなかったのか不思議でなりません。ま、今まで浮世絵に殆ど興味を抱いてこなかった人間が言うことですから、たとえば『名所江戸百景・するがてふ』は広重の代表作の一つである、といわれれば、ああそうですか、と引き下がるしかないのですが、その一方で、これが代表作なら北斎の爪の垢でも舐めてな、なんて言いたくもなる。じつは、この本を読む、というか頁を繰りながら「あ、この作品、好き!」と思ってタイトルを確認するたびに、それが参考に掲載いされた北斎作品であることを知って、愕然とするわけです。例えば、この本に収められた作品のなかで気に入ったものを広重、北斎にわけてあげると広重17点、北斎15点となります。
点数的にはほぼ互角。ただし、巻末の図版索引によれば、広重104点(数え間違いがあったらご容赦)、北斎18点。つまり広重作品のうち、甘めに採点していいかな、といえるものが二割に満たないのに対し、北斎は9割以上が傑作といいたくなる。無論、いい作品だから参考に出されているので、それと広重作品を比べること自体がおかしい、という人もいるでしょう。でもです、『宇宙をめざした北斎』に眼を通せばわかりますが、掲載作品の7割くらいは「欲しい!」と思うはずです。こうなると、私などは〈巨匠・広重〉という言葉にも疑問を抱きます。たとえば赤坂は「ドビュッシーは北斎の『富嶽三十六景・神奈川沖浪裏』をイメージして交響曲『海』を作曲したという。また、ゴッホも弟への手紙の中でこの絵を絶賛している」と書き、北斎作品がヨーロッパでいかに人々に感銘を与えたかに触れます。そして
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北斎・広重などの浮世絵は西洋画家に大きな影響を与えた。ゴッホがとくに好んだのは広重の絵である。オランダのゴッホ美術館にゴッホの集めた浮世絵が収められているが、その中に『富士三十六景』も含まれている。
ゴッホは『名所江戸百景』の「亀戸梅屋敷」「大はしあたけの夕立」を模写し、『タンギー爺さん』の背景に「さがみ川」ほか数点、自画像の背景に「亀戸梅屋敷」を使っている。
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と書きます。ゴッホが広重の絵を模写したことなどは事実で否定のしようがありませんが、「亀戸梅屋敷」「大はしあたけの夕立」は、広重作品のなかでも構図に特徴がある北斎的な作品といえるものです。「さがみ川」は、いかにも広重らしい作品ですが、果たしてそれほどすぐれた作品かどうか、私に言わせれば「亀戸梅屋敷」「大はしあたけの夕立」に遠く及ばないレベルのものとしかいいようがありません。他にも、はじめに、で「当時の広重は名所絵の第一人者だった。また、メインモチーフである富士山は庶民の信仰の対象だった。広重が富士のシリーズものを描けば売れたと思われる」と書かれると、事実はともかくとして、その意味はちょっと違うのではないか、と思うのです。それは芸術的な観点からの評価の問題です。赤坂はあくまで名所絵として広重の絵に人気があったことはよく理解していて、それについて
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前に述べたように、名所絵を買った人は地方から江戸へ出てきた人が多かった。土産として買ったのである。それらの人たちは決まりきった定型を好んだ。定型を好むことは現代も同じで、映画の『男はつらいよ』シリーズ、テレビドラマの『水戸黄門』など、その例はたくさんある。日本人の特質の一つといえよう。
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といい、ある意味マンネリズムの良さとして広重作品を理解し、一つ所にとどまろうとしなかった北斎の人気がいま一つであったことをうまく説明しています。ただし、ここにも赤坂の都合にいい解釈があって、『男はつらいよ』シリーズ、テレビドラマの『水戸黄門』を支持しているのは、現代日本の平均的な人ではなく、現代日本に暮らす地方在住の老人たちであることに目をつぶっています。観光地の絵葉書がどれだけ売れようと、それがその作品の芸術性を表すことはなく、そこに見えてくるのはあくまで大衆性です。無論、多くの人に受け入れられる、ということを新しい時代の芸術評価の要素とすることに異論はありません。しかし、大衆性という定規で芸術性を測ることには無理があります。大衆作家・広重、芸術家・北斎として別の土俵で語られるべきでしょう。無論、浮世絵の本質に大衆性があったことは事実で、そういう意味で広重を巨匠ということは間違いではないのですが・・・