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第1章の「ある母娘の物語」を読んでいるとき、動悸が激しくて苦しかった。怖いのと腹立たしいのと気持ち悪いのともどかしいのと、さまざまな感情がミックスされて、とても冷静には読んでいられないくらい。そのくらい、母であるノリコさんの行動は恐ろしかった。
理解できないというのではない。彼女の行動の論理はわかりすぎるくらいわかるし、実際に彼女のような思考経路を持つ人はたくさんいる。彼女が自分でいうとおり、「みんなそうしている」のだ。
「子供の為に自分を犠牲にするのは母親として当然のこと、なぜなら私は子供を愛しているから」
この理屈に大きな間違いはない。どの母親だって、出発点はここである。
子供を大事に思うから、よかれと思うから、あれこれ手を出す。生物学的に母親の手助けなしに生きていけない時代は、むしろそうでなくてはならない。母に見つめられ、母に気にかけてもらい、母に認めてもらうことが、人間としてまっとうに育つ基盤になるのだから。
しかし、人間は成長する。いつまでも赤ん坊のままではないのだ。なのに母親だけはそれに気づかないふりをする。成長の度合いに合わない世話焼きをいつまでも続けてしまうのだ。
人は、たとえそれが自分の愛する子供のためだとしても、見返りのない犠牲には耐えられないものだ。
しかし、あからさまに見返りを求めることはみっともなくてできない。だから巧妙なすり替えが起きる。
「こんなに自分を犠牲にしているのだから、この愛情を子供が受け止めて感謝するのが当然。そして、私を喜ばせてくれるのが当然」と思ってしまう。でも、ここまで明確に意識されることはまずない。
子供が感謝しなかったり、自分の意に反した行動をとったときに、初めて表面化するのだ。
「どうして、こんな悪い子になってしまったんだろう」と。悪い子というのは、表面的には問題行動とされるようなものだが、本質は「私を困らせるようなこと」である。
母親本人が自立できていなかったり、夫との関係が貧弱だと、母親は子供を代理人にして自分の人生を完成させようとする。そこでしか評価されないことを知っているのだ。
建前としては「ちゃんとした人間に育て上げる」ことを目標とする。だから勉強にしろしつけにしろ、非常に熱心に、緻密に行なう。あくまでも「子供のため」と称して。
しかし、本当の意味で「子供のため」ではないことは、子供が自分の意志を持って行動し始めたときにすぐにバレてしまう。子供が母親の意に沿わないことをすると、「子供が悪くなってしまった」と思ってしまうのだ。本心から子供の人生によかれと思うなら、子供の歩みを邪魔しないことが最善の方法なのであるが、偽りの目標であるために、子供が自立して自分から離れていくことに耐えられないのである。
娘の方は、自分の人生を侵食されているのだからずっと生きづらい思いを抱えていて、苦しくてたまらないのだが、その一方で世間的なものの見方からも逃れられない。「私のために自分を犠牲にしてきた母親を捨てるなんて、そんなひどいことはできない」と悩むのだ。
世の中には、こういう粘着とは無縁の人も��るから、理解できない人もたくさんいるだろうと思う。そういう幸せな人は、しごく簡単に「親の好意をありがたく受け止めないと」などと言う。ありがたく受け止めた結果、自分の人生が潰されてしまうという事実はなかなか受け入れられないのだろう。
今の日本で「母」である、ということは、とんでもなく重く難しい仕事なのである。
それに比べて、夫や父のなんとお気軽であることよ。それに対する怒りも、動悸の中には含まれていたと思う。
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読了:2012/1/14
p.172 「PCのキーボードを打ちながら「私の手は今どんな風に感じているだろう」などと想像する人はいないだろう。「疲れたと言ってるから、そろそろ休んであげよう」と判断することもないだろう。手は自分の一部だからだ。だからこそ、手の気持ちになる必要はない。自分の好きなように扱い、手のことは自分が一番よく知っていると思う。これは手の所有である。妻は夫に、娘は母にとってまるで体の一部であるかのように感じられているのだろう。」
『定年退職の日、妻が出て行きました。』というタイトルの小町トピがあった。
長年妻を服従させ、生活費やローンを出させ、逆らえば恫喝、愛人に一千万つぎ込み(妻親の遺産)、妻の愛猫を手違いで死なせたのに抗議すると逆切れして怒鳴り、定年後は親の介護を妻にさせる腹積もりだった男が定年の日に机に離婚届を置かれた状態で妻に出て行かれた、というトピ。
その男が「妻の身体は私の「一部」だと思っていました。」「今までは、妻を「手足」だと思ってきました。でも今は違います。妻は私の「心臓」だった。」(←なんかイイこと言ったつもりらしい)と書き込んでいて、釣りだとしてもモラハラ男の性質をよく言い当てているなぁと思った。
ついでにこの人は「勝手に出て行ったことは責めません」とも書いている。おいおい。こういう人にとっては、妻はどこまでも「自分の人生のための道具」でしかないんだなぁ…。
p. 180「母親に対して、はっきりと「会いたくない」「おつきあいできない」「以後は携帯でも手紙でも連絡を取りたくない」と宣言してしまうこと。これは合意の上ではなく一方的なものである。合意は望むべくもないのだから、それでいいと考えよう。その揺らぎのなさと強度が大切である。
長年夫との力関係、母親同士の上下関係をくぐり抜けた母親は、自分より強い力で迫られることに対して、一見従順である。そして相手の自信が少しでも揺らぐ瞬間を鋭敏に察知する。墓守娘はそこを突かれないよう、一点突破されないようにしなければならない」
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共依存 過剰な世話焼きを通して相手をコントロールすること
良い母親とは「誰にとってか」を問わなくてはならない。肝心の娘にとってよい母親でなかった
多くの母親にとって、子どもを産んで育てたことだけで十分よい母親だと考えている。特に子どもに対しては口にださずとも、「私が生んだからあなたが存在しているのよ」という途方もない自信を抱いているものだ。子どもになにか起きた時には「私の育て方が悪かった」「私は子育てに失敗した悪い母」というセリフを連発して反省したかのように身振りをするが、内心の根源的自信はすこしも崩壊していない。外向きに「わたしなって母親失格で」などと語るのをきいてそれを信じてはいけない。ところが、自信にみちているくせに、ひとの評価が気になるというのが多くのパターンである。外部評価に左右されないのが根源的自信のはずなのに、そうではないのだ
過剰な一般化や、選択肢を狭めることによって迷いを断ち切っていくのだ。
DV夫 妻がどんなふうに感じているか考えたこともない
電話やメールにとどまらない。母親たちが善意と愛情と信じて疑わない行為のひとつに宅配便でものを届ける行為がある。それに対するお礼の電話が遅れると、逆に叱責の電話がかかる。母からの宅配便が怖くてたまらないという女性は驚くほど多い。いき過ぎた好意、押し付けられた善意、感謝の強制は次第に娘を恐怖で支配するようになる
勝手な思い込みを娘にうけいれてもらいたいのだ。あなたこそ、娘に依存しているのだ。それなのに、娘のために、などといってそれを正当化していないだろうか
世間さま、常識、ふつうといったあなたの思考を正当化している根拠をいったんすべてとりはらってほしい
母親が子どもをうんだだけで自信をもつように、父親たちは社会的地位と経済力を得ただけで役割を果たしたと勘違いする。自信をえるということは恐ろしい。その自信を脅かす言説すべてを否定するようになるからだ。
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母親、娘 だけではないのだろう。
母親と息子、上司と部下、先輩と後輩。 要は絶対的優位に立てる状態にあり相手のためだからと言って自分の利益・思想・嗜好を押し付ける人たちとそれに苦しむ人たち。 問題は「結局は自分のため」なのだ、ということを理解できない人たち。
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読みやすく、引き込まれる。前著「母が重くてたまらない-墓守娘の嘆き」も、しんどかったけど、母の立ち位置も理解できてしまい、辛かった。ただのモンスターであって欲しかった。購入しておきたい。
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「母が重くてたまらないー墓守娘の嘆き」の続編。3.11震災後にまとめられた本で、『家族の絆』に鞭打つものがしばらく書けなかった、というのに共感。あのACのCMといい、仮にもアダルトチルドレンと同じ略語だというのに、主張は正反対だよね。震災の映像だけじゃなく、あのACのCMにやられた人も結構いたんじゃないか。これほど酷い母親ではないと思うけど、私も長子・長女の足枷はつけられてると思う。あの転職・一人暮らしとなったときの「一人暮らしをしたくて仕事をやめたのか」と言う母の言葉は忘れない。そして今回の島への異動でも同様の言葉があったこと。やっぱり父親と一緒にいるのが嫌なんだろうな。今は弟がいるからいいんだろうけど。奴が家を出る時は反対するだろうか。今のミライースのCMも頑固な父親が娘に「俺たちを見捨てるのか」という言葉は世間になんの疑問もなく受け入れられているのだ。
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私の母はこれほどではありませんが、自分の思いをかなり当たり前に押しつけて来る人です。80歳を過ぎた今も、若い頃よりその影響力は弱まったとはいえ、「自分の常識は世間の常識」的に言葉を発します。
そして、私はそのからめとるような言葉と態度に恐ろしさを感じてきた一人です。
きっとこの本は、時々読み返すといいのです。
母に支配・抑圧されてきた娘達は、断ち切ろうとしてもがき、知らず知らず自責の念にさいなまれてしまうのです。
「さよならお母さん」を読むことで、一人の人間として自立心を持ち、強く生きることで自尊心と自信を取り戻して行くことが可能になるように感じました
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「女の敵は女」っていうのがここ(母娘関係)からはじまってるのね。
そして、不幸の根源は、自分のことを自分で決められなかった不幸だと思う。
時代も変わっているので、女性が、少しずつでも、自分で決めていると思える範囲が増えていっていることを願う。
そして、私自身もそうありたい。
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前著を更に精製した印象。様々な事例を元に具体的かつ実際的?現実的なストーリーが描かれている。あーあるあるとつい笑ってしまう。
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事例が前作よりコンパクトになっていて読みやすくなっている。
世間の「絆」と言う言葉が一人歩きして墓守娘達がこれ以上苦しまない事を祈りたい。
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もう、しみじみ「ウチの母がここにいる…」と思いながら読んだ。きっと母が読んでも判らないとも、手に取るように判ってしまう。母親と言う人種は何故かくもこうなのか。根が深い問題である。
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『母が重くてたまらない-墓守娘の嘆き』の続編のような対策編のような内容でした。
まずプロローグから3・11が取り上げられ、筆者の体験や震災後の想いが細かく綴られていたのが印象的でした。
大震災を経て「家族」の大切さが声高に叫ばれる風潮の中で敢えて問題提起し、今こそなんとしても「重くてたまらない母」に変わってもらわねばならない……という著者の姿勢に非常に好感を持ちました。
1点だけ、「重くてたまらない」母親が変わるわけがないという考え方に対して、
> 絶望しあきらめることは簡単だが、いっぽうでそれは、彼女たちを貶めることにもなる。彼女たちは変わるはずがないと判断するのは、傲慢以外の何ものでもないだろう。(本文より引用)
と著者は述べていますが、この意見には賛同しかねます。
娘が手を変え品を変えして自分を苦しめ傷つけてきた母親に意識を変えてもらおうとアプローチしても、期待を裏切り続けてきたのは母親の方です。
信頼を失った相手にはもう、「絶望しあきらめる」しかないんですよ。
しかし、終盤にまとめられた「墓守娘の母」に向ける言葉が、このような本をまず手に取りそうにない母親たちの心に届いたらどんなに良いだろうかと思いました。
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過干渉の母親と娘、子供から成人・就職に至る典型的なストーリー。娘たち、あなたは悪くない。逃げなさい。
父源病、ガンバレ墓守娘!
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「ガジュマルとヤドリギ、いずれも植物だが、拘束する母娘の関係を如実に象徴するようだ」(本文)墓守娘たちが「母」を徹底的に解析する目的で著された本書は偶妄を「像を撫で」ることで「世間」と「ふつう」の黄金律を背骨に日本中の空気に瀰漫する言語化できない息苦しさにからめとられる。当事者である母親は自らの加害性に無自覚なのだから正解はない。一個の自由意思を持った人間として生きることが母娘関係の前ではとてつもなく困難な道のりである。
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母・娘・娘の夫、それぞれの視点から過干渉な母親の行動がじっくりと描かれているのが小説のようで読みやすかった。
最後の方で、母親の過干渉にさらされている娘に、母親との関係の持ち方についていくつかの方法を上げている。
結局のところ、親との距離を置くしかないのかと思う。親離れ子離れはごく当たり前のことなんだから。
途中、娘の夫視点で語られる中に、娘が夫の実家で「いつも、あんなふうに笑いながら食事をしているの?」というシーンがある。このシーンで泣いてしまった。自分の記憶の中にも家族が笑いながら食事をした記憶が残っていなかったから。亡き母は過干渉では無かったと思うのだけれど、自分で自分の感情に蓋をしていることもあるのだと認識した。