紙の本
推理ものかドキュメントか?
2016/01/04 23:25
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投稿者:栗太郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ロバートキャパが撮影した世紀の一枚はやらせだった…という推理したてのドキュメンタリーです。昔から「崩れ落ちる兵士」は恋人のゲルダタローが撮影したものではないかという説をさらにやらせだったという推理のもと、ひとつひとつ事実を積み上げていく。淡々と事実を積み上げながら定説を実証していくところがとても面白いと思う。
紙の本
ノンフィクションに収まらない筆力
2015/03/26 15:54
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投稿者:september - この投稿者のレビュー一覧を見る
一切キャパのことも写真のことも知らなかったけれどやはり沢木さんのノンフィクションに収まらない筆力でしっかり読まされました。「崩れ落ちる兵士」に囚われていたキャパがあの写真の十字架からようやく解放されたときの安堵感はとても大きかったと思う。しかし沢木さんの老いを感じさせない行動力には本当に唖然とするばかりです。
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インパクトのある写真が,撮られた状況を離れて独り歩きしてしまう。それを押しとどめようとする力は,どうしてもうまく働かない。なるほど,ありそうな話だ。政治的意図をもって流布される写真の真贋論争というのは珍しくもないだろう。
本書では,20世紀報道写真の傑作ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の謎を解いていく。写真に遺されたわずかな手掛かりをもとに,専門家の知見や現地での検証を加えて進んでいく推理もエキサイティングだし,単なる写真の真贋を超えてキャパという人間そのものに迫っていくのもスリリングだ。
社会というものが,キャパ本人の意図を超える形で「崩れ落ちる兵士」に注目し,キャパに惜しみない賞賛を送ったことで,その後のキャパを戦場へと駆り立てたのではないか。著者がたどり着いたこの結論は,決定的というほどではないが,可能性としては非常に面白い。著者はカメラや歴史に素人とはいえ,よく勉強し足と時間を使って確かな推論を積み上げていく。この写真をめぐる論争がどのような形で決着するのかは別として,読んで損はないノンフィクション。
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“ここに一枚の写真がある。”そんな静かな書き出しに誘われてこの写真を目にした時には、この構図、この画角、太陽の位置、山の稜線、銃の角度、兵士の影に、ここまで深い意味が含まれているとは想像できなかった。ましてや一人の男の生きた軌跡が、陰影まで刻みこまれているとは…
「崩れ落ちる兵士」 ー それは写真機というものが発明されて以来、最も有名になった写真の一枚である。中でも、写真が報道の主要な手段となって発達したフォト・ジャーナリズムの分野においては、これ以上繰り返し印刷された写真はないとも言われてきた。
スペイン戦争時に共和国軍兵士が敵である反乱軍の銃弾に当たって倒れるところを撮ったとされるこの写真は、雄弁であった。やがて崩壊するスペイン共和国の運命を予告するものとなり、実際に崩壊してからは、そのために戦った兵士たちの栄光と悲惨を象徴する写真となって世界中に広く流布されることになるのだ。
だが、この写真を撮ったとされるロバート・キャパは、「崩れ落ちる兵士」について、どこまでも寡黙であった。キャパ自身の手でキャプションをつけなかっただけではなく、この写真についてオフィシャルにはほとんど何も語っていないのだ。それゆえに「崩れ落ちる兵士」は、本来の文脈を離れて別の意味を付与されるようになってしまった作品とも言える。
この写真に関しては、いくつもの謎が残されていた。だが、この写真の持つ衝撃力によって、その謎が謎として真正面から取り上げられることもなかった。その結果、キャパの「崩れ落ちる兵士」の写真は以下のように定義されることとなったのである。
1936年9月5日前後、セロ・ムリアーノで、共和国軍兵士フェデリコ・ボレルが反乱軍の銃弾を受けて倒れるところを撮った写真である。
ところが1970年代に入ると、その真贋がはっきりとした形で、問題として表面化してくる。あの写真は本当に撃たれたところを撮ったものなのか?かりに「真」だとしても、あのように見事に撃たれた瞬間を撮れるものだろうか。同時に、もし「贋」だとするなら、あのように見事に倒れることができるだろうか、と。
キャパの沈黙が生み出したミステリー。そこに挑むのはノンフィクション界の巨匠、沢木 耕太郎だ。
「崩れ落ちる兵士」が撮影された、スペインに赴くこと三度。沢木が行くたびに「崩れ落ちる兵士」の定説は「崩れ落ちる」ことになる。一度目の訪問では地元での先行研究などにより、写真が撮られた場所がセロ・ムリアーノではなくエスペホであったこと、また使用されたカメラがキャパ愛用のライカではなくローライフレックスであったことの可能性が示唆される。
そこで俄然、注目を浴びてくるのが、キャパの運命を劇的に変えたゲルダ・タローという女性についてである。そもそもロバート=キャパという名前は彼の本名ではなく、その名をアンドレ・フリードマンという。
このアンドレ・フリードマンとゲルダの二人は、架空の人物である「ロバート・キャパ」をプロジェクト的に作り出し、アメリカの著名なカメラマンを装っていたのだ。その際にゲルダが頻繁に使用していたカメラこそが、ローライフレックスであったのだという。はたして「崩れて落ちる兵士」を撮ったのは、どちらであったのか?
日本に戻ってきてからも、沢木は同じ時に撮られた一群の43枚の写真をつぶさに眺め、新たなる新説に思いを巡らせる。そんなスペインと日本の度重なる往復により、少しづつ明らかになっていく真実。どのステージにおいても、同じ濃度の驚きがあり、最後まで飽きさせない。
沢木の推理は全て、「崩れ落ちる兵士」の写真が戦闘中に撃たれたところを撮ったものではないという方向へ集約されていく。彼の出した結論は、「真」にして「贋」。あのように倒れたことは「真」であるが、撃たれたことは「贋」である、というものであった。
さらに謎解き以上に興味深いのは、その写真に付与された文脈によって、キャパ自身の運命がどのように変わっていったのかということである。キャパはこの「崩れ落ちる兵士」の一枚で、無名のアンドレ・フリードマンから、世界的に有名なロバート・キャパになることを運命づけられた。
もし彼自身がその写真を撮ったのではないとすると、その出来事をきっかけに彼が大きな十字架を背負ってしまったということは想像に難くない。図らずもフォト・ジャーナリズムの伝説の中に生きることになったキャパは、心中ひそかに、少なくともこの「崩れ落ちる兵士」に匹敵するものを、自分自身の手で一度は撮らなくてはならないと考えるようになったに違いないからである。
このような「崩れ落ちる兵士」の真実を、執拗に追求する沢木の行動は、ある意味において残酷だと思う。だが、ロバート・キャパの虚像を白日の下に晒したにもかかわらず、不思議なくらいに爽やかな読後感があった。
それは、虚像を真実の対極として描くのではなく、虚像もまた真実の一部であると描いた点によるところが大きい。そこには「視るだけのもの」としての哀しみ、「人の痛苦しか記録できない」辛さ、そんな思いを味わったもの同士にしか分かりえない、心優しき目線と、深い共感が存在しているのだ。
沢木が唱えた新説が、正しいのかどうかは分からない。ただ、真実を追求することによって、全く新しいロバート・キャパ像を鮮やかに描き出したという点に、本書の本質があるものと考える。
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世界的に有名な1枚の報道写真、「崩れ落ちる兵士」の真贋を探るノンフィクション作品。
この写真はスペイン内戦中の1937年に、報道写真家ロバート・キャパによって撮られたものである。ただ、この写真には不自然な点が多く、以前から真贋をめぐる議論が起きていたようだ。
そう言われれば確かに、撃たれているのに出血の痕跡が見られない。だいたい撃たれている兵士を正面側から捉えることなど可能なのだろうか、と素人目にも感じた。
著者の沢木氏によって詳細な検証が行われ、ついにはモデルとなった兵士の素性、撮影された場所、撮影に使用したカメラの機種、そして本当は誰が撮ったのか、という真実に肉薄する事となる。
しかし、沢木氏の推理が進展するのとは反比例し、いまさら真相を究明する事に何の意味があるのか、と感じるようになった。モデルとなった兵士は祖国のために戦死し、キャパの恋人だったゲルダも、このスペイン内戦で悲運の死を遂げている。キャパ自身もすでに1954年、北ベトナムの戦場で亡くなっているのだ。
沢木氏は実際に撮影されたと思われるポイントを見つけているが、かつて激しい戦闘が行われていたその場所と、戦争が終結し70年も経った平和な今、物理的には同一でも同じ場所と言えるのだろうか。
実際に戦争は起こり、祖国のために戦死した兵士がいて、それを世界中に伝えようとした報道写真家がいた。
たとえ一枚の写真に何らかの演出があったとしても、この事実は決して揺るぎようがないのだ。
その点については、おそらく沢木氏も同じ考えのはずである、であればなぜ執拗に真実を晒す必要があるのか。死者の尊厳を冒してまで、掘り起こす価値のある墓など在りえないのでは。
読了後、そんな違和感を覚えたのは自分だけだろうか。
否定的な意見ばかりを並べてしまったが、この件に対する沢木氏の丁寧な取材活動や、鋭い観察眼に対しては敬意を表したいと思う。
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戦争写真家ロバート・キャパが撮影した「崩れ落ちる兵士」という一枚の写真を巡るノンフィクション。従軍中に撃たれて崩れ落ちようとする1人の兵士を写したとされるその写真は、果たして本当に撃たれた場面を写したものだったのか?その写真を撮影したのは本当にロバート・キャパだったのか?
そうした疑問に答えるために、それまでの先行研究を踏まえ、二年半に渡り取材を行った成果がまとめられている。
巷では、既にこの写真の真贋についての大凡のコンセンサスはあるのに、NHKの特番や写真展とのメディアミックスの効果最大化を狙った売名なんて批判もあるようだけど、実際に読んでみれば、きちんと先行研究を意識して、その上で自身の分析に基づく結果を提示しているだけであり、そうした批判には当たらないと思う。ここで沢木耕太郎が描こうとしたのは、この写真の真贋という狭いレベルの論争への決着なのではなく、ロバート・キャパという1人の写真家にとって、この写真が生涯に渡り影響を与えてしまった悲しさではないか。そう考えれば、一級のノンフィクションとしての本書の価値は十分にあるものと僕は考える。
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「崩れ落ちる兵士」を巡る一冊。
キャパの写真を余り見たことがない。
この本をきっかけに見たいと思った。
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寝不足になること“うけあい”の本である。
スペイン内戦(1936~39)のさなかの1936年9月にロバート・キャパが撮影し、翌年、雑誌「ライフ」の7月12日号に掲載されたことで世界的に有名になった「崩れ落ちる兵士」の写真は真贋論争が絶えない「謎の一枚」でもあった。
ここで言う「真贋論争」とは、「この写真が本当に死の瞬間を撮影したものなのか」と論争である。つまり、兵士にポーズを取らせた、所謂“やらせ”写真ではないかというものである。
本書は沢木耕太郎氏がこの写真を見たときに抱いた疑問や違和感から出発している。
もちろん、このような研究は沢木耕太郎氏だけが行ってきたわけではなく、伝記作家や郷土史家など、多くの人がこの問題を研究し、様々な形で発表しており、この間、“ロバート・キャパ”が撮影した新たな写真も発見されてる。
氏は、これらをパズルのピースを組み立てるように検証し、疑問を一つずつ解いていくのだが、その過程はまるで推理小説のようにスリリングで、じっくり読みたいのに早く先を読みたいという欲求に駆られ、結局半ば徹夜をして一気に読んでしまった。
なお、この本を読もうかどうしようかと考えている方のために書くと、調査のキーとなる写真や地形図等はキャパが創設したマグナムフォト社等の協力を得て全て掲載されている。
ところで、取材対象の中に、印象的なエピソードを持つ人物が登場する。2009年に『崩れ落ちる兵士』が『やらせ』だと報じるスペイン紙の情報源となったJ.M..ススペレギ教授だ。
教授がこの写真の真贋を研究するきっかけとなったのは、曾祖母がスペイン内戦から避難する際にカメラマンに撮られた写真だという。この写真はグラフ誌「VU」に掲載されたが、オリジナルの写真を見ると、曾祖母は確かに疲弊しきったようなポーズで座り込んでいるが、その横にはまるで近所の公園でひと休みしているかのような日常的で緊迫感のない母子が映っている。しかし、その部分はトリミングされ、老女の姿だけが悲劇を象徴する写真として扱われていたのだという。
“写真は嘘をつく”のだ。
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沢木耕太郎にとって、ロバート・キャパが特別な1人であることは間違いない。
自分と似ていると感じ、折りに触れ、20年以上かけて追い続けることになった写真家であり、「崩れ落ちる兵士」は本当に撃たれているのかという謎を、いつか決着をつけねばならないと感じるほどに。
しかしこれを読み終えた今、兵士は本当に撃たれているのかという謎は、私にとっては最早瑣末と言ってもいいくらいのことになってしまった。キャパが背負った十字架はそんなもの(と敢えて言う)ではなく、もっとずっとずっと重たいものなのだった。
高村光太郎と智恵子、スコット・フィッツジェラルドとゼルダ、というように、夫に勝るとも劣らない溢れる才能と意欲と野心もありながら、それを押さえて、影とも言える位置を時には選び、時には選ばざるを得なかった妻は、実はかなり多いのではないか。
「一家に芸術家は2人はいらない」という言い方があるけれど、才能溢れる2人は、その才能が故に惹かれ合いもするけれど、その才能が故にどちらかが我慢も強いられ、そしてそれが妻のほうであることは決して珍しくないのではないか、と思う。
切磋琢磨し合って創作活動に励んでも、お腹が空いた時にその手を止めてご飯を作らなくちゃならなかったり、赤ん坊が泣いた時に面倒を見に立ったりするのも、果たして同じ回数だろうか。同じだけの負担だろうか。
たぶん妻のほうに、より負担がかかりより我慢を強いられることが多いであろうことは、想像に難くない。
結婚こそしていなかったが、キャパとゲルダにも、どこかそのような傾向がありはしなかったか。
少しずつ認められていくと共に、ゲルダの野心が膨らんでいくのは当然のことであり、キャパは望むと望まないとに関わらず、ゲルダにとっての枷になっていきはしなかったか。
112ページの、同じシチュエーションをキャパとゼルダが撮った2枚の「共和国軍兵士の二人」の写真を見て、私は身震いする。
たまたまの偶然なのか、見ている私の勘違いなのか、全く自信はないけれど、ゲルダの撮った写真のほうが「いい」と感るのだ。もしかしたらゲルダのほうが才能豊かだったのではないか。
キャパは「波の中の兵士」を撮ることで、かつての「崩れ落ちる兵士」に決着はつけただろうと思うが、ゲルダに対しての決着はつかないままだったのではないかと思う。
1936年、ハンス・ナムートが撮った写真に写り込んだキャパとゲルダの後ろ姿に、胸を突かれるような思いがする。
逃げている村人と逆方向に向かって(つまり戦場に向かって)歩いて行く、20代前半のまだ若い2人。
肩を並べて、危険へ向かって歩いて行く。
後ろ姿のゲルダは、キャパよりもむしろ昂然と胸を張って、運命に向かって行っているように見える。
“写真は嘘をつく”が、また、写真には力がある。
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ロバート・キャパのことはよくわからなくても、スペイン内戦の象徴とされている「崩れ落ちる兵士」や第二次世界大戦の連合国軍ノルマンディー上陸作戦の最前線を撮った「波の中の兵士」(私はこの写真のタイトルは「ノルマンディー上陸」だと思っていたのだが、どうやらこっちが本当のタイトルらしい)の写真なら、見たことがある!と思う人も多いのではないだろうか。
以前から「崩れ落ちる兵士」について、その真贋が取りざたされていたのは聞いたことがある。著者自身も、かねてより(著者本人によれは20年以上も前から)疑問に思っていたその真実をなんとか知りたいと、多くの時間と労力をかけ、丁寧にひとつひとつ取材を重ね、著者なりの結論を導き出したのが本書である。
いやはや何しろ、どんなに小さな事実も見逃すまいと、考えられる可能性のすべてを調べつくす、自分の手で目で足でできる限りのことを確かめる、その著者の真摯な取材姿勢には感服である。
しかもその途方もない労力をして調べ上げたはずの取材結果を、ここまでコンパクトにかつ分かりやすく、さらにはある劇的さをも持ったルポとしてまとめあげるそのうまさにも、脱帽するのみだ。
ドラマチックな小説を読むように、むさぼり読むようにして読了した。
実は、著者が出した結論はあくまでも著者の見解であって、それが真実であるというわけでは全くない。キャパの背負ったであろう「十字架」(これを「十字架」と呼んだのもあくまでも著者の想像。別の見方をする向きももちろんあるだろう)を断罪するのではなく、純粋に秘められた謎として知りたい、運と才能に恵まれた時代の寵児としてのロバート・キャパという人物を知りたいという著者の熱意に満ちた作品であった。
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いつもながら沢木耕太郎の文体は、簡潔でいて読み易くドンドンと読んでいける。
内容的には、キャパがスペイン内線の際に撮ったとされるフォト・ジャーナリズムにおいて最も有名な写真「崩れ落ちる写真」の様々な疑惑を沢木が解き明かそうとするもの。ある意味で、推理小説を読んでいるようなドラマチックな展開でもあり、あるいはキャパとゲルダ(キャパと内線当時に行動を共にしていた女性写真家で最重要人物)との悲恋/悲哀に満ちた話としても読めるが、秀逸なのが「イメージ論」としても読めることだと思う。ある一枚の「写真」が、どのように意味付けられ流布していくのか。撮られた「写真」だけの提示では、そこに様々な意味が読み込めてしまうが故に写真家が意味を限定化させるために統制をかける必要があるのだが、それがキャプションであったりその「写真」について「言葉」で説明することである。こういったインターテクスチュアリティ的な様相を経て初めて「写真」というものが説明するんだろうな・・・みたいなことをツラツラと読みながら考えていた。このイメージ論の主題は、クリント・イーストウッドまぎれもない傑作『父親たちの星条旗』と共通するテーマでもあると思う。
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戦争写真家ロバート・キャパの名を一躍有名にした写真、「崩れ落ちる兵士」。
1936年、スペイン内戦で取られたこの写真に対しては、ずっとその真贋を疑う声がありました。1996年には兵士の「身元」が判明し、その兵士が確かにセロ・ムリアーノで戦死していることから、いったんは「本物」説が有力に。しかし2009年に「撮影場所はセロ・ムリアーノではなくエスペホである」という新説が浮上して、再び「やらせ」説が盛り返します。キャパが滞在していた頃、エスペホで戦闘は行われていないので、本当にエスペホで撮ったのであれば、96年の説は間違いで、被写体は戦死した兵士ではないことになります。
沢木氏は現地に赴き、「エスペホ撮影説」を唱えたススペレギ教授にインタビューし、その他さまざまな写真や資料を検討してひとつの結論に至ります。その大きなきっかけになったのは、キャパが撮影した別の写真「突撃する兵士」――正確にいうと、突撃する兵士の背後に写っている人物でした。
残念ながら、掲載されている写真は小さくて、じっと目をこらして見ても、突撃する兵士の後にいるのが本当にその人なのか、その人がアレした瞬間なのかは、よくわかりません。「特徴的な茎」も小さすぎてどこにあるのかよくわかりませんでした。また、最後の最後になって「撮影場所がエスペホの丘の『どの地点なのか』」という検証がありますが、最終的な「撮影地点」で撮影者と被写体の位置関係は整合するのか――特に、キャパとゲルダと、銃口だけが写っている「第三の兵士」の位置関係はどうなるのか。その点がちょっと消化不良な感があります。
(以下、本書の後半で述べられる仮説の具体的な点にも言及します)
しかし、これが本当にそうなら大発見ですよね。そして写真を撮影したタイミングもものすごい偶然の産物だったということになります。撮影者がローライフレックスの扱いに慣れていれば、またはシャッターを押すのが一瞬早ければ、本来の被写体だった兵士が写っていたはずですし、もう一瞬遅ければ「尻餅をつく兵士」の写真になったはず。
本書の結論は、写真を撮ったのはゲルダで、被写体になった兵士は撃たれたわけではなく、演習中に転倒しただけだというものです。ヤラセではなく偶然に撮影できたものだとしても、「崩れ落ちる兵士」はその歴史的な意味を失うことになります。しかし、そうだとしても、キャパが優れた戦争写真家であることは変わりません。1枚の写真が思いがけず有名になったことで背負ってしまった「十字架」とその後のキャパの人生をたどる章では、キャパに対する深い敬意が感じられました。
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沢木耕太郎は好きなライターの一人だ。キャパの有名な写真の謎を追いかけていくという、これもまたミステリーになっている。写真の説明でわかりにくい点はあるものの、見事な推理である。
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ローバート・キャパの代表作「崩れ落ちる兵士」の真贋に迫るノンフィクション。
沢木耕太郎の取材力と文章力。
今回も引き込まれました。
さすがです!
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1枚の写真の真贋が長く問題とされているのは、知っていた。
でもここに着地することになるとは。
沢木耕太郎の探究には脱帽。
しかしその仕事のもとにはキャパに対する親愛がある。
短い人生を駆け抜けたキャパの十字架。
ますますキャパというカメラマンをいとおしく感じるようになった。