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投稿者:ぽぽ - この投稿者のレビュー一覧を見る
年齢を重ねれば、重ねるほど教養の大切さを身にしみて感じることが多くなります。教養は、本当に重要なもの。
紙の本
人間の根幹となる教養知について考えた一冊です!
2019/01/15 08:42
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、現代社会が専門知及び実践知が益々重視される時代となってきているのに対して、その流れに逆らうかのように、人間の根幹、本質を形成すると言われる教養知について考察した貴重な書です。著者は東京大学の教養学部で長らく教鞭をとられた専門家で、その長年の経験と研究から教養知の素晴らしさ、重要性について語られます!
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日本における教養、リベラルアーツの明治以降の変遷と、今改めての可能性について示唆を得られる。英語も単なる道具としてではなく今日滋養に資するという視点は面白いと思った。
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英文学者による教養論。P.99で著者がいうように「一般書・新書文体を使」って書かれたものである。著者自身の経験から得られた知見が述べられている。
逆に、先行研究のレビューが少なく、巻末の参考文献を見る限り、猪木武徳、村上陽一郎、西山雄二のそれぞれの論には触れられていない。ちなみに、この中には駒場関係者も含まれる。サブタイトルに「東大駒場」という言葉が使用されたり、黄色い帯に「東大には、なぜ「教養」学部が残ったのか?」といった、個人的に購買意欲がそそられる表示・体裁となっている。こうしたことから、ある程度組織的コンセンサスが織り込まれているのではと思い込んで読み進めた。だが、新書・啓蒙書の部類だからか、最初にいったとおり、ある「一事例の紹介」という印象が強く残った。
とはいえ、大学教育における「教養」の概念を考えていく上で、必要な視座を再確認できた。例えば、①主な日英の辞書からの教養の定義を列挙、②修養、教養主義のレビュー③教養教育の成否≒基礎知識・学力の定着度という点である。
また新時代の教養の柱、すなわち「知的技術」「センス・オブ・プロポーション」「人格」の提示にも共感できた。これらについても、多くの場面で論じられる機会が多いが、コンパクトに著者なりの整理がなされている。
本書の最後で、「全人教育としての教養教育が充実し、より多くの教養人が生まれれば、それだけ社会の秩序は整っていくはずである。」(P.171)という言説で結論づけている。全く否定のしようがない意見だ。現在、多くの国公私立大学・中高で教育理念の中で全人教育を標榜していることからも明らかである。個人的には、全人教育の概念の出自を意識しつつ、その用例が一般化・普遍化した現状を素直に受け入れたい。
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私が修論で書こうとしていることは、古くからある仮説を新しいデータで実証することでもあると気づいた。
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学は深まるけど教養は高まるっていうのはいいですね。学はあるはずの学者でも教養のない奴はいこのごろは「パンキョー」って言わないんですかね?本書でも紹介されているとおり、旧制一高の生徒が愛読した書の一冊に倉田百三『愛と認識の出発』がありますが、その角川文庫版の解説は紅野敏郎先生なんですね。四半世紀前、紅野先生に教わった「パンキョー」としての大正時代の文学についての講義は楽しかったな。本書は、それこそ教養として読むにはいいけど、「教養の意味を問い直し・・・」というのは集英社編集部の宣伝が行き過ぎのような感もあり。結論的には、情報リテラシーを授けるとともに古典を読む能力を高めることが大事だって。
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「精神」と「人格」を養うためには教養は必要。教養人になることが、いい男、いい女になることである。知識と教養は違い、知識を得るだけでは教養は高まらない。迷ったら「古典」にふれることで教養は磨かれる。
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読書をしたくなる、実学でなく難解な文章に取り組みたくなる、そんな気持ちにさせてくれる1冊。
日本では武道、西洋では哲学が教養の入口だったのではないかと自身の狭い経験から考えている。
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「第一章」をチラチラ見ただけですが、
17ページの「英米の文化的支配を離れた
『国際語(あるいは世界共通語)としての英語』などと言ってはみても」
の段落を読むだけでも、この本は、価値あり、と思えます。
ちゃんと読むのが、非常に楽しみです。
(2013年6月14日)
この本に書いてあることは、「当たり前のこと」です。
「当たり前のこと」を、きちんと書くのが「教養の力」と
感じました。
【夏目漱石と英文学】(47ページから50ページ)
(2013年7月17日)
英語で読まなければ意味がない(160~161ページ)
新渡戸稲造の Bushido, the Soul of Japan
岡倉天心の The Book of Tea
鈴木大拙の Zen and Japanese Culture
日本人の手になる三大英文著作
(2013年7月18日)
読み終えました。この本を、お薦めします。
(2013年7月18日)
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教養は高まり、学は備わる。
教養:学問や知識を身につけることで備わる「心の豊かさ」「理解力」「人間の品格」
情報伝達技術の発展と記憶力の価値の低下
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リベラル・アーツという言葉が、復権している!。きっとそうなのだろう。現代においては文学、言語、哲学、歴史、数学、科学などが含まれるというが、そのような学びをする大学が今どれだけ残っているのだろうか?
東大・教養で英語を教える著者が、英語偏重を憂う一文を書いていることが信頼できる。教養の三つの側面として①学問や知識の面、②「身につける」「修得する」という精神的な成長の面、③心の豊かさ、理解力、人間的品格を挙げているが、私自身も読書を重ね、単に知っているだけでどこまで自分の言葉に置き換え、自らのモノとしているかを考えるとき忸怩たるものを感じさせられた。教養教育は「そもそも施す側に知識・学問としての教養ばかりでなく、それを伝えるための高度な言語能力と論理的思考力が備わっていないと成立しない営み」ということは、今では強い皮肉のように思われる。
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斜め読み。第五章の推薦図書、もしくは参考文献に手をつけていきたくなる、読書ガイドのような本。第一章、教養と修養の定義のくだりで「修養とは修身養心」(新渡戸稲造『修養』)を見て、自分の名前にもその字が入っていることに偶然以上のものを感じた。
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学問や知識を身に着けることによって備わる心の豊かさ、理解力、あるいは人間的品格。人の立ち振る舞いに現れる。
知識は教養を獲得するうえでの必要最低条件であるが、知識だけではダメ。
文学でも単なる知識や娯楽として受け入れるだけでは、それ以上のものに昇華することができない。知識を教養とするには、また別の技術が必要。
自分が学んできたものを糧として、なんとか人としてより善くなりたいという意思を失ってはいけない。日々少しでも成長して、知情意の充実した全人になちたいと願う。
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教養の意義、効用、そして必要性を説く。東大駒場はさておき、ぼんやりとした概念にすぎないと思われた教養の持つ重要性が記されている。あとがきにある2011年の震災発生後のエピソードが教養とは品格に通ずるものだと雄弁に語る。
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[ 内容 ]
一九九〇年代、大学から「教養」の名を冠した学部が次々に姿を消した。
それに呼応する形で専門知・実用知の優位性が喧伝されると、いまや「教養」はかつてのエリート達による懐古趣味のようなカビ臭い存在になってしまった感がある。
しかし、本来の教養は、行き過ぎた専門知の追究に対して物事を多角的に捉える視点を与えるものでもあった。
本書では、そうした意義に加え、人格的な豊かさを体現するためにも不可欠な教養の意味を問い直し、今の時代にも活きる新しい形を提示する。
東大教養学部で長年教えた著者が授ける教養の力。
[ 目次 ]
第1章 「教養」は変質しているか(教養人をイメージしてみる;「なんとか教養」の謎 ほか)
第2章 学問/知識としての教養(ヨーロッパにおけるリベラル・アーツの起源;中国から輸入した教養 ほか)
第3章 教え授ける/修得する行為としての教養(教養は誰がどのように授けるものか;高校の授業の余談における教養教育 ほか)
第4章 身につくものとしての教養(知識;知的技術 ほか)
第5章 新時代の教養(情報処理の今、昔;情報選別の基準その一―情報提供源の信頼性 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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斎藤兆史氏による教養論.
読みながら「東大云々」というタイトルは要らないんじゃないかなと思ったが,「新時代の教養」での提言を読むと,このレベルを要求出来るのは東大とその他一握りの大学でしかないなと感じるようになった.
本音をいえば,いいたいことには共感はするが,教養の復権と言うのはなかなか難しいだろうなと思う.もはや教養は趣味の問題でしかなくなっているような気もする.