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投稿者:きよし - この投稿者のレビュー一覧を見る
僕は鷲田さんが好きである。今の日本で率先して哲学の有用性を提唱してくださっている方だと感じている。
今回の『哲学の使い方』の主題となっているのは、「これからの時代、これからの日本においての哲学の在り方」ではないだろうか。
僕たちの日常から、哲学はどんどん馴染みのないものになろうとしているような気がする。例えば、大学で哲学を専攻していても就活で何の役に立つのかと問われる時代になってきた。
しかし、鷲田さんが一貫して主張していることのひとつに、哲学は今の時代においても必要とされているのだ、ということがあるとおもわれる。
具体的な話をしよう。メルロ=ポンティの言葉に「哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されてゆく経験である」というものがある。それがこの本の冒頭で紹介されている。
僕なりの解釈だと、「僕たち人間は年齢を重ねるにしたがって、考え方やものの見方が変わっていくものだ。そして、それを学ぶには哲学に価値がある」という意味だとかんがえる。
僕たちは生きている限り、就職したり失業したり、結婚したり離婚したり、誰かが産まれたり誰かを見送ったり、数々の出来事に遭遇する。
そして、なかには、今までの考え方や自分のものさしでは対処できない出来事がある。そういう場合、勇気の要ることだが、今までの自分の一部とは訣別して、新たな価値観を形成しなおす必要がある。
そうなると、「自分とは何か」「人生とは何か」という本質的な問いに行き着く。それこそが、哲学が二千年以上問うてきたことである。
したがって、哲学するというのは特別なことではなく、僕たちが節目節目に自然と行うべきことなのだ。
哲学書は時代や国をこえて残されているものであり、それはやはり大勢が腑におちる論述がなされているからに他ならない。
ときには哲学書を片手に、人生という難問にじっくり取り組んでみるのも良いのではないだろうか。
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投稿者:ロンリーハート - この投稿者のレビュー一覧を見る
「哲学の使い方」という、正に今ある自己の生のための方法論を求めて、鷲田さんの本を手に取り、結局得たものは方法論というより、概念的なものだった。
「哲学」は、哲学を学び探求する者の「哲学」ではなく、深く考えることこそ「哲学」であるとの見方を得た。
肺活量のいる思考、ずーっと深く深く考え抜くだけの知的耐性を備えた市民になろうとすることの意義を見出すところに、答えのない出口の内容な印象の今に光が見出せる。しかし、実践の伴わない、肌感覚の反省もできないような思考は避けなければならない。
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受験生にはぴったりの本です。タームが少し高校生には難しいですが。鷲田エッセイの組み立て方などを書いてあるので、哲学的思考のエッセイを読む上では、役に立ちます。
特に実社会と孤立しがちな哲学について、社会との対話を重視するスタンスはおもしろいです。一枚剥ぐと、通俗になりそうなところが、うまく締めていると思い、すごいです。
西洋哲学の人にこういうことを言っても、無駄とは思うのですが、現代哲学をやると二項対立はだいたいメルロ・ポンティか、その辺り。これにはいつも東洋人の私には違和感を覚えます。おまえだって使っているではないかと言われそうですが、漢文の「対」の概念の方がしっくりきます。「対」については西洋哲学どころか、昨今の日本文学でさえスルーなので、仕方ないか。
臨床哲学はおもしろかったです。これもキリスト教で行われている「分かち合い」に似ています。むしろ西洋人には、こちらのベースがあると思います。
いや、こういうベースをとやかくいうと、新書では説明しきれないのは確かですが
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哲学に対して抱かれている世間の認識が、哲学かを敬遠するものになってしまっていて、しかし人が活動するうえで哲学は欠かすことが出来ないものでもあります。その哲学というものに対してどのように接していけばよいのか。そもそも哲学とは何なのか。そういう疑問に対して、哲学の正体、使い方、付き合い方、という語り口で書かれています。
哲学の難解な書き方や言葉にはそれなりの理由があるし、またそれと対局に位置する対話などの方法も必須だということを、その全てに丁寧に説明をされていて、本書を読むと、自然と哲学するようになるのではないかと思えてしまいました。
哲学を勉強できる(そういう意味で入門書)という内容ではありません。哲学を使えるようにするための本です。そういう意味で非常に重要な本だと思います。
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哲学は他人の役にたつために存在しているものではない。
人が哲学に焦がれるのは、今の自分の道具立てでは自分が今直面している問題がうまく解けないとき。
博士号とは本来、この分野に限ってはなんでも知り尽くしているということに対してではなく、いかなる未知の問題に対してもそれにふさわしい科学の方法を用いて確かな探究ができるという一般的能力に対して賦与される称号である。
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日本人の書く哲学入門書というのは、とかく、西洋の哲学のおおざっぱな解説に終わりがち。
本書は哲学は学問のみに終わらず、人間や世界のあらゆる問いを立てるという活動すべてが哲学になる、その対象領域は科学,倫理、芸術、政治、経済さまざまに及ぶ。哲学が近寄りがたいのは、ときに一般人をけむに巻く難解な言術のせいであるが、社会生活を営むうえで欠かせないものである。
臨床哲学者というだけであって、社会のさまざまな身近な事象やときには村上龍のようなエンタメ文学からも素材をとり、哲学への入口へと誘う。
すべてをまったく理解するのは難しいが、この著者には読者を難解な用語で遠ざけるよな俯瞰的な思考が感じられず、読みあたりがよい。こんな哲学書に出会いたかった。
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臨床哲学と名付けられた哲学を知る必要はある。
哲学とはモノローグではなく、ダイアローグなんですね。
哲学をわかりやすく解説してくれる鷲田清一。それほどに哲学を愛されている雰囲気が伝わってきます。
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今年度最後に取り上げるのは鷲田先生の「哲学の使い方」である。「使い方」である。「哲学入門」ではいけなかったのだろうか。そのヒントが「はじめに」にある。公立高校で講演会をされたあと(ちなみに堀川高校でも何度か講演されています)、女子生徒が書いた感想が紹介されている。「哲学は、人間の本質について深く疑問に思ったときや、そのことによって悩んだり傷ついたりしたときに、それを解決する手がかりをつかむための一つの手段なのではないか、と思いました。」そう「手がかり」である。哲学の本にはあらかじめ答えが準備されているわけではない。自分がいろいろな問題に直面し深く深く思い悩んでいるとき、哲学を学ぶことで、そこから解決の手がかりが見つかるのではないか。哲学や哲学の歴史を学ぶことが目的ではなく、哲学を使っていまかかえている問題の解決の糸口を見つけていく。しかし、気をつけなければいけない。問いを発して、学んでいく中で、その問いが解消するどころか、逆に増殖していくこともありうる。哲学はとりあえずの解答を得るためのマニュアルではありえないのだ。さあ、これから3ヶ月で読み返していく。どんな困難が待ち受けているのだろうか。
鷲田先生は、若いころはファッションなどをテーマに考えていたこともあり、先輩諸氏から批判されることもあったようだ。その後、臨床哲学を打ち立てて「聴くこと」に注力されたり、哲学カフェにも積極的に関わってこられたりしている。そして、阪大総長から現在は京都市立芸大の学長を務められている。
それでは本文に入ろう。第1章は「哲学の入り口」である。最初に興味深い例があがっているので紹介しよう。「フランスでは上級公務員を目指す学生が行政大学院で学び、終了するときに、哲学論文の執筆を義務づけられているという。・・・見識のない人に行政を任せることほど危ういことはない。だからそういう公務に就こうという人には哲学の学修を課す。・・・模擬試験の成績が良い者には、医師をめざせ、上級公務員をめざせと説得するこの国の受験教育との落差は、あまりに大きい。」我々もそこに加担している恐れがある。気をつけなければいけない。中等教育でもまた哲学は重要視されている。フランスのリセ(高校)では最終学年に文系では週8時間、理系でも週3時間の哲学の授業が課せられる。そして、バカロレア(大学入学資格試験)では、初日に4時間かけて哲学の試験がある。もちろん論述式である。2012年のテーマは「働くことで得られるものは何か」(京進二条駅前校のホームページにシミセンの「働くことの意味」を掲載しています。ご覧ください。)「信仰はことごとく理性と対立するのか」この2つのうち1つを選んで論じる。日本でも大学入試を大きく変えようとしている。簡単なことではないが、今後、上記のようなテーマが出題されることもありうるだろう。しかしである、ここで注意すべき点がある。「とはいえ、先に述べたリセにおける哲学教育にも問題がないわけではない。とくにバカロレアで重視されている科目であるからには、受験教育という趣が強く、解答のツボと引用すべき哲学者の著述の一部のアンソロジーと例題集とからなる参考書の類も多種刊行されている。そして何よりも採点にあたっては、『哲学という領域の枠組みの中で、哲学固有の問題の扱い方を遵守しつつ議論を展開すること』、そして『参照すべき著作を正確に引用すること』が決定的に重視され、したがって試験で評価される思考力は『独創性や創造性』ではなく、『型の習得と反復によって獲得されるもの』とみなされている。・・・ある意味、暗記科目になっている」というのである。入試というものの難しさであろう。
また、今度はドイツのギムナジウムでの英語の期末試験の出題例をとりあげたあと次のように哲学を規定している。「哲学は、日常生活から離れ、時代の困難からも隔たった場所でなされる知のいとなみではない。むしろ時代の問題こそ、哲学的な相貌をとるようになっている。環境危機、生命操作、先進国における人口減少、介護・年金問題、食品の安全、グローバル経済、教育崩壊、家族とコミュニティの空洞化、性差別、マイノリティの権利、民族対立、宗教的狂信、公共性の再構築・・・。・・・これらの問題は小手先の制度改革で解決できるものではなく、環境、生命、病、老い、食、教育、家族、性、障碍、民族についてのわたしたちのこれまでの考え方そのもの(philosophy)をその根もとから洗いなおすことを迫るものである。いいかえると、わたしたちの社会と文化のもっとも基本的な形、それがいまあらためて問いただされているということである。」哲学を学ばなければいけいない。
哲学を学びたいと思い、何度かその原著にあたろうとした経験は私にもある。しかし「その第一行目からしてそこに書いてあることがいったいじぶんの問いと何の関係があるのかさっぱりわからない・・・」「古典的な書物は一度読み通しても1,2割しか理解できないといったことが多い。が、それでもふとまた頁を開いてしまうのは読む者の胸をぐさっと刺す、“殺し文句”がいろんなところに挟まれているからである。」私にはまだそんな経験はないのだが、極めつけとしてあげられている一文を紹介しよう。
自己とは何であるのか? 自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。
キェルケゴールの「死に至る病」の冒頭である。うちにも確か岩波文庫があるはずだ。最後まで読んだかどうかの記憶すらない。この一文、何を意味するのか。翻訳が悪いのか、何かの間違いではないのかとさえ思えてしまう。読んで理解できる人はどれくらいいるのだろう。しかし、10回くらい読んでいるとなんとなくわかったような気がしてくる・・・というのはウソです。ふと思ったのは学生時代、山本信先生の科学哲学の授業で聴いた次のようなたとえ話である。「黒板に黒板の絵を描く。すると、描かれた黒板の中にも黒板を描く必要が出てくる・・・以下同じ。」この問題はとりあえず棚上げして、次に進もう。
「哲学は、どんなに幼稚に見える問い、どんなに不条理に見える問いも、そして答えがあるはずのない問いすらも、けっしてはじかれることのない、そういう談論の場を人びとのあいだに開いてゆくはずのものである。それなのにひとは哲学書を手にするやいなや、じぶんが拒まれているかのように感じる。・・・」
「いっ���いどこから手をつけたらいいのか…」まだ1章の半ば。けれど紙面はつきそうだ。最後に、身体について深く考えるとどういうことになるのかを引用して、初回をとりあえず終えることにしよう。
「じぶんの身体というものは、だれもがじぶんのもっとも近くにあるものだとおもっている。たとえば包丁で切った傷の痛みはわたしだけが感じるもので、他人は頭でわかっても、わたしの代わりに痛んでくれるわけではない。その意味で、わたしとはわたしの身体であるといいうるほどに、わたしはまちがいなくわたしの身体の近くにありそうである。ところが、よく考えると、わたしがじぶんの身体についてもっている情報は、ふつう想像しているよりもはるかに貧弱なものだ。身体の全表面のうちじぶんで見える部分というのは、ごく限られている。だれもじぶんの身体の内部はもちろん、背中や後頭部でさえじかに見たことがない。ましてや他人がこのわたしをわたしとして認知してくれるその顔は、終生見ることができない。そして、難儀なことにこの顔に、じぶんではコントロール不可能なじぶんの感情や気分が露出してしまう。いってみれば、ひとはじぶんの身体を、いわば目隠ししたまま経験するほかないのであって、危ういばかりに無防備なのである。」鏡で見る自分は、他人が見る自分とはちょっと違う。そういえば、トットちゃんは録音された自分の声を聴いて、これは自分ではないといいはっていた。自分は自分のことをよく分かっているのだろうか?(先日、はじめて胃カメラで自分の体の中を見た。涙をためて苦しみながらリアルタイムで。)
次回もまだ入り口のままである。まず「いる」と「ある」の違いについて考える。ふだんの会話の中でどう使い分けているかを考えてみよう。
哲学は何から始めるべきか。何の前提もなく始めるとするなら、とりあえずそこに始点があるとするしかない。始点は有る(有)。しかし、内容は何もない(無)。何もないものがある。あるけれどそこには何もない。真理はむしろ有から無へ、無から有へと移り変わる運動、すなわち成ることにある。「存在」(有)、「無」、「生成」(成)。英語でいうと、being,nothing,becomingというありふれたことばになる。日本語なら「あること」「ないこと」「なること」といえばわかりやすかった。しかし、明治に入って、日本語で哲学を考えるとき、「存在」と翻訳してしまった。ここで、このbeing、日本語でいうと「ある」「いる」「おる」などいくつかのいい方ができてしまう。それで、あいまいさをなくすために「存在」ということばがつかわれるようになったと思われる。さて、この「ある」と「いる」、どういうわけか、我々はそれを上手に使い分けている。少し考えてみよう。「今日はテストがある」「我が家には掃除機が3台ある」「実家には犬がいる」「家に帰ると妹がいる」などなど。無生物には「ある」、生物には「いる」を使う? 「私には妻子がある」「隣の家にはミカンの木がある」ともいう。生物・無生物の違いでもなさそうだ。駅に向かいながら「まだ終電あるかな?」と思う。駅に着くと「まだ終電いるかな?」と思う(いるって言う?)。「ある」は動かないでずっとそこにあるもの。「いる」には動いてきてそこに���る、そしてまたどこかへ動いて行く、というイメージがある。何かが「いる」というとき、そこには時間の流れが関係していそうだ。ところで、その「時間の流れ」はどのようにして感じられるのか。私たちはつねにその「時間の流れ」の中に身を任せている。すべてのものが同時に動いていれば自分が動いていることには気が付かない。いま現在はここにある。しかし、過去はすでにない。そして、未来もまだない。ところが、あると思った現在は、次の瞬間にはもう過去に、つまりないものになってしまっている。さあ、我々は哲学の入り口に入り始めた。少しここでわかりやすい例に移っていこう。電話での会話。「いま何してる?」「ユーチューブ見てる」。もし、ここで「いま電話であなたと話している」と答えたら相手はどう思うだろう。「変なヤツ」「空気が読めない人」・・・。待ち合わせ場所に着いたとき相手が先に来ていたとする。「ごめん、待った?」「う~うん、僕もいま着いたところ」。いやいや、いまではないでしょ。あなたはもう少し前に来ていたはずでしょ。なんて突っ込んだらどう思われる? どうやら「いま」ということばはある特定の時間をさすのではなく、いくらかの幅を持った時間を表しているようだ。ここでは、日常使うことばをもとにいろいろと考えてみた。こんな中からも哲学へ入っていくことができる。
さらに読み進めると「思考の肺活量」ということばに出会う(P.63)。この1節を読むだけでも本書を購入する値打ちがあると思える。少し長くなるが引用しよう。「ひとが哲学に焦(こ)がれるのは、いまのじぶんの道具立てではじぶんがいま直面している問題がうまく解けないときである。なにかこれまでとは違う問い方をしなければ、それももっと包括的(ほうかつてき)な問いのなかに座を移さないと、らちがあかないと感じるときである。そのためには、哲学の書き物を手引きに、レーヴィットもいうように『すべてのものを取って抑えて質問し、懐疑し、探究』しようとする。けれどもこのような思考には、いってみれば大きな肺活量が要(い)る。じぶんにとってあたりまえのことに疑いを向け、他者の意見によって自らのそれを揉(も)みながら、ああでもない、こうでもないと、あくまで論理的に問いを問いつづけるそのプロセスを歩み抜くには、ちょうど無呼吸のまま潜水をしつづけるときのような肺活量が要るのである。あるいは思考のためといってもいい。さらにそれは、すぐにはわからないことにわからないままつきあう思考の体力といいかえてもいいし、すぐには解消されない葛藤(かっとう)の前でその葛藤に晒(さら)され続ける耐性(たいせい)といってもいい。というのも、個人生活にあっても社会生活にあっても、大事なことほどすぐには答えが出ないからである。いやそもそも答えが出ないことだってある。だから、人生の、あるいは社会の複雑な現実を前にしてわたしたちが紡(つむ)ぐべき思考というのは、わからないけれどもこれは大事ということを見いだし、そしてそのことに、わからないまま正確に対処することだといってもいい。・・・」この後、具体例が挙げられて1章は終わる。
2章でさらに哲学の中に入っていく。哲学は何もどうでもいいようなことば遊びをしているわけではない。環境問題や生命操作、介護や年金問題、食品の安全、民族紛争、教育崩壊、マイノリティの権利などなど、現実の問題にも向き合っていく。「もっとも基盤的な次元で、解決の道筋がすぐには見えないような難問を突きつけられているといってよい。<わたし>とはだれか。正義とは、倫理とは何か。国家とは、民族とは何か。貨幣とは何か。性とは、老いとは、死とは何か。これらの哲学的ともいえる問いに正面から向きあわずには済まされぬようなさまざまな困難が、社会の根に深く食い込んでいる。いま、哲学に久しぶりに出番が回ってきたかのような印象があるのも、時代の困難じたいが哲学的な相貌(そうぼう)を呈(てい)しだしたからであろう。ここで哲学はまさに時代を後追いしている。」このあと、教養について、専門家と非専門家との関係についてなどが語られる。ここでは、博士号について書かれた件を紹介しておこう。「博士号は、ふつうそう考えられているように、限られたある専門分野において精緻(せいち)な研究をなしとげたことに対して授与されるものではない。それはある仮説を一定の科学研究の方法に則(のっと)って推論・実証したことによって、以後いかなる主題においても同様の精緻な推論・実証ができるという、そのような技倆(ぎりょう)の認定として授与されるものである。だから専門分野以外の領域を「専門ではありませんので」と言って斥(しりぞ)けるのは博士として失格である。博士号というのは本来、この分野に限ってなら何でも知り尽(つ)くしているということに対してではなく、いかなる未知の分野においてもそれに相応しい科学の方法を用いて確かな探究ができるという一般的能力に対して賦与(ふよ)される称号なのである。」将来、大学院に行って研究しようという人には覚えておいてほしい文章だ。
「哲学に専門領域がないのは、哲学がつねに『全体に気をくばる』ものだからであり、相互の分断がますます加速されてゆく科学の知を、≪客観性≫とか≪普遍性≫といった抽象的(無内容)な統一理念によってかろうじてまとめるためではなく、それらを真の意味で協働させようとはたらくものだからである。哲学的探究とは、その意味で、知の多様な視点のあいだの対話、ないしは摺(す)りあわせでもある。」「ある分野の専門研究者が真のプロフェッショナルでありうるためには、つねに同時に『教養人』でなければならないということであろう。『教養』とは、一つの問題に対して必要ないくつもの思考の補助線を立てることができるということである。いいかえると、問題を複眼で見ること、いくつもの異なる視点から問題を照射することができるということである。このことによって人の知性はより客観的なものになる。そのためには常日頃から、じぶんの関心とはさしあたって接点のない思考や表現にふれるよう心(こころ)懸(が)けていなければならない。じぶんの専門外のことがらに対してもいつも感度のいいアンテナを張っていること、そう、専門外のことがらに対して狩猟民族がもっているような感度の高いアンテナを、いつもじぶんのまわりに張りめぐらせていなければならない。」これらは大学教育のトップに立つ哲学者のことばである。私たちはそれをしっかりと受け止めておかなければいけないと思う。
最終回では哲学の臨床、実際の「現場」に入っていきます。
「哲学もまた時代のただなかにあって、その時代を視ること、診ること、看ることに従事する。しかしアカデミズム内部での『哲学探究』に身を縮めていったこの国の哲学は、文献を『読む』ことに傾注し、時代を「みる」(視・診・看)ことをなかば放棄してきた。哲学に≪臨床≫という名を冠した取り組みがいまもし意味をもつとすれば、この、時代を「みる」わざを磨きなおすということを措いてはありえないはずである。」ということで、哲学の「現場」における取り組み、臨床哲学について語られていく。
哲学のセンスについてふれられていく中で、わかりやすいたとえが使われている。さらに日本の中等教育にまで話は及ぶ。「『現場』の、一点からは見通しえない動的な全体にたえずまなざしを漂わせていること、これは台所に立ったときの感覚に似ている。ありあわせの材料で献立を考えること、料理が冷めないようにどう工夫するか、片付けを調理のあいだにどううまく嵌(は)め込むか、洗い物はいつするか、食器をどう収納するか、それに要不要の判断、材料費のやりくり、そしてその間も家族の様子をそれとなく窺(うかが)うこと。そういうふうにまわりに眼をくばり、勘所を外すことなく、不定形にうごめく全体をケアしつづけること、そしてそこから考えるべきこと、直すべきことを取り出すこと。哲学でいえば、フィールドワークのさなかで問題を析出すること、そしてそれに応じうる概念を創造すること。じつに哲学は台所仕事に通じている。こうしたまなざしのくばり方を、≪哲学のセンス≫と呼んでみたい。『現場』に『哲学を発見する』こうしたセンス、なんなら視力ないし技法と呼んでもいいが、それをしかし、日本のこれまでの哲学教育は開発しようとはしてこなかった。いうまでもなく、こういうセンスを磨いておかなければ、中等教育、なかでも高等学校での公民科の『倫理』や『現代社会』の授業で、具体的な事例に当たって『考える練習をさせる』ことなど、できない相談であるのに、である。そしてこの背景には、日本の哲学研究が中等教育での哲学教育の必要を課題としてまともに受けとめてこなかったということがある。」さらに次のようなたとえもある。「哲学の思考においてこそ、そう、狩猟民族が数キロメートル離れた地点での自然環境の微細な変化に的確に感応するのとおなじような仕方で、同時代の社会の、微細だけれども根底的な変化を感知するセンスをもつということがきわめて重要である。」
「哲学の臨床は『哲学を汲(く)みとる』ことであるから、『現場』をあらかじめ限定することはしない。医療や介護の現場、職人仕事の現場、アートやデザインの現場、ジャーナリズムや教育の現場など、予測不能なことが起こる現場での臨機応変の対応、あるいはそこでおのずと生起する『天然の是正』(檀一雄)を詳しく書きとめること、そしてそこで、長年痛い経験をくり返すなかで身についたメチエ(表現技法)というかたちでとくに意識もされずに駆動している生きられた知を探りあてること。それが≪哲学の臨床≫のなかで試みられることである。(どなたかこの「天然の是正」ということばの出典をご存じであればご教示ください。)
次にエッセイについての説明がつづく。「随筆や試論から批評的断片までをも含むエッセ���(試み)の精神こそ、いま哲学がとり戻さなければならない視線であり、息づかいなのではないかとおもう。そのうえで、エッセイを書くということについては、それを紡(つむ)ぎだす文体というものについても鋭敏であることが重要になる。エッセイを書くにあたって重要なことは、見なれたものをまるではじめて見るかのように見ること、あの『ヴュジャデ』(『デジャヴュ』の逆)の眼を備えることだ。そしてその眼にはそれにふさわしい文体があるはずだろう。」
さあ、いよいよ「哲学カフェ」の実践についての具体的な話となっていく。「よく見るためには多くの眼をもつことが必要だ。他の視線との摺(す)りあわせをするなかで、複数の眼でものを見られるようになること、そのことでまなざしを立体化し、押し拡げることが重要だ。ハンナ・アーレントが『人間の条件』(1958年)のなかで公共的なものの成立要件としたあの『立ち位置(ポジション)の多数性』、『視点(パースペクティヴ)の多様性』、つまりは『複数性』である。そういう複数性の場を市民のあいだに切り拓く試みの一つに、≪哲学カフェ≫がある。」この哲学カフェ、私も非常に興味があるが残念ながら参加する機会がいまのところない。岡田節人先生(生命科学)を囲んでのサイエンスカフェには一度参加したことがあるが、残念ながらここで語られるような、突き動かされるような印象は持てなかった。そもそもソクラテスは路上や集会で、論理のキャッチボールをくり返すばかりで、みずからは1冊も本を書いていない。ここで、「哲学の再生を対話というかたちで試みるのは、いってみれば哲学の先祖返りだともいえる。」より具体的に。「哲学カフェに定型はない。何について議論するかも、集まった顔ぶれでその場で決める。そしてテーマに即して、だれかがまずじぶんの経験を、そしてその解釈を語りだしたあとは、それを糸口に延々2時間から5時間くらい、あれこれ話し合う。ルールはいたってシンプルで、たがいに名を名乗るだけで所属も居住地も明らかにしない、人の話は最初から最後まできちんと聴く、他人の著書や意見を引き合いに出して長々と演説をしない、この三つだけである。」深夜の討論番組とは大きな違いだ。「哲学カフェは、ものごとについて同意や、問題の解決ではなく、問いの発見、問いの更新を試みるものである。じっさい、哲学カフェでは、それぞれの参加者はみずからが立てた問いを、対話のなかで少しずつ、ときには劇的に、書き換えてゆく。その問いの書き換えのプロセスをシェアするというところに、哲学カフェの意味の大半があるといってもよい。」「いきなり本題に入れるような、そしてそのことを怖れないでいいような、そういう場をつくることが、哲学カフェではめざされる。」「・・・人を苛(いら)つかせるどんな発言をしても、あるいはうまく表現できなくてぼそぼそつぶやくだけでもかならず応答があることが重要だ。議論の応酬よりもまずは他の声に耳を傾けること。小さい声、くぐもった声、いつどこで話に入ればいいのかわからないといった及び腰の人に、上手く発言のチャンスを与えること。」どこかの夜中の討論番組とは大違いだ。「言葉のテクスチュア(肌理(きめ))を外さない。言葉をテクスチュアごと受け取ったうえで、さらにテクスト(意味)へ��揉(も)み上げてゆく。そうしてそれぞれがそれぞれに、じぶんをより俯瞰的(ふかんてき)に眺められるようになることをめざす。だから、議論の終盤にさしかかってある考えに収斂(しゅうれん)しかかったとき、『それ、だれが最初に言ったんだっけ』とふと誰彼なくつぶやくようなときには、セッションは成功したといえる。」うらやましい、私もそういう場に居合わせたい。先にあげたアーレントは公共的な世界の成立には、「ポジションの差異」から生じる「視点の多様性」が保証されており、なおかつ「対象の同一性」が成り立っている(問題のシェア)ことが不可欠であると書いている。「この二つをデモクラシーの基本とするならば、哲学カフェはデモクラシーのレッスンでもあることになる。」
さあ、いよいよ最終章。問いは「哲学とは何か?」ではなく「思考はいつ哲学なのか?」である。「哲学の議論においては、どんな不条理な問いも、どんな子どもじみた問いも、どんな反人間的、反社会的な問いも、その入り口で跳ねつけられることはない。そこでは何を言っても圧力を加えられたり攻撃されたりすることもなく、安心してじぶんの疑問をそのまま口にできる。哲学はほんらいそういう、塀の低い、開かれたものなのである。」私は会議などで、そもそもの前提を覆(くつがえ)すような質問をする癖がある。これはけっこう嫌がられる。クラスにもいないだろうか。何かで盛り上がっているとき、そもそもなぜそんなことをする必要があるのかと問い、場をしらけさせる人。けれど、そこから哲学が始まる可能性がある。疑問に思ったことは口に出してよい。1つの耳の痛い例をあげよう。「なぜ学校では、知らない人ではなく知っている人(教師)が知らない人(生徒)に質問するのか。」いろいろと理屈をつけること(生徒に考えさせるためとか、眠そうな人の目を覚ますためとか)はできるだろうが、私は、授業中の質問を減らさざるを得ない。「現実の問題の多くは、重要なものにかぎって答えがすぐには出ない・・・問題は複雑になる・・・」「ああでもない、こうでもない」と考え続けるためには「思考の肺活量」が必要なのだ。「じゃあ、そうした肺活量を鍛えるにはどうしたらいいんですか?」とすぐに答えを求める人がいる。そこが問題なのだ。ぐずぐずと思い迷う時間が大切なのだ。(同じようなことを、森毅先生や、養老孟子先生の本で何度も読んだ。)そういう時間こそが人生そのものなのだ。(そう思えば、最近あることがらに思考が占領されており、その時間を無駄と考えていたが、実はそうでもないのかもしれない。ここは熟成期間と考えてぐずぐずしておこう。)「哲学の可能性を、ジョン・レノンの曲Power to the Peopleをもじって、Philosophy to the Peopleと呼んでみたい。」最高の曲が頭に流れたところで、本書を閉じることにしよう。
さあ、みんなも哲学してみませんか? いっしょにカフェしてみませんか? テーマは何がいいかなあ・・・
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鷲田さん、書下ろしなんて久しぶりじゃないのか。
大好きな著者なので、読んでみた。でも、ちょっと読んでみてこれはむずかしそうだと思ったので、それから少し間を空けての再チャレンジ。
結果、わかったりわからなかったりの部分があって、理解できたのはたぶん全体の二割くらい。
でも、それでも、このひとにくらいついていけば何かが見えてくるんじゃないか、と、そんなふうに思える数少ないひとです。
いつかまた読みます。すばらしい文章を、ありがとうございます。
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自分の中に準備がないと、読んでも読めない本というのはあるのだ。
この本は今の私にはおおいに「刺さる」内容で、反芻しなくてはと思わされるものだった。
にもかかわらず、そういう言い方になるのは、私にはとても滑らかに、そうだそうだと読めてしまうこの文章が、読めない人にはまるで具体的なイメージがわかないであろうこともまた鮮明に想像できてしまうからなのだ。
私は私の分野において、その知識の「使い方」を考えなくてはならないのだろう。
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非常に難解。特に中盤あたりはとりわけ難解で
理解するのが一苦労でした。まだ全部がわかったわけ
ではないと思いますが。また哲学の本質的な書物を
読みたいと思います。
”答えがすぐにでない、あるいは答えが複数ありうる、
いや答えがあるかどうかもよくわからない、
そんな問題群が私たちの人生や社会生活を
取り巻いている。そんなとき大切なのことは、答えが
まだ出ていないという無呼吸の状態にできるだけ
長く持ち耐えられるような知的耐久性を身につけること”
このことは非常にいい文章だと思います。が。。
本の中で哲学的殺し文句として紹介されている文書
『自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係する
ところの関係である、すなわち関係ということには関係
が自己自身に関係するものなることが
含まれている。』(キュルケゴール『死に至る病』)
最初に読んだ時はさっぱり何のことやらでしたが。
最後にもう一度読むと少し(少しだけ)わかる気が
きがしました。
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響く言葉がたくさんあり、かなりメモを取ったのだが、即実用的かは分からない。でも考えるためのヒント、鷲田さんが本書で哲学することについて語る時に言ってた“補助線”のようなものを、与えてくれる本だった。よく引用されるアドルノやメルロポンティの原書を読みたくなる。よくわからん部分もあったので、図書館で借りたけど、買っておいて時々読み返すのもいいと思った。後半になればなるほど、それまで読み進めてきた事柄が繋がっていく感覚を得られておもしろい。
鷲田さんの言葉じゃないけど引用されてて気に入った部分。元気が出た。
C・カストリアディス「思考することは、洞窟から出ることでも、影の不確かさをもの自体の際立った輪郭で、また炎のゆらめく明りを本物の太陽の光で置き換えることでもない。それは、「空を向いて、花のなかに横たわって」(リルケ)いられる時に、迷宮に入ること、もっと正確には、ある迷宮を存在させ、かつ現出させることである。また、我々がたゆまず奥へ進むからこそ存在する回廊をさまようことであり、我々が入るとまた入口が閉まる袋小路の奥でぐるぐる回ることであるーーこの堂々めぐりが、説明不能なままに、仕切り壁に通り抜けられる亀裂を生じさせるまで。」
「哲学カフェ」には非常に興味が湧いた。生き方に迷っているとか、進路に迷っているとか、そういう大きなことがらに直面してうろたえているときだけではなく、ちょっとした人間関係、仕事のミスで打ちひしがれているときでも、そっと手にとって心の穏やかさを取り戻させてくれそうな本でした。
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読むのに凄く時間がかかりました。内容を飲み込めた自信は全くないですが、エッセンスはなんとなくわかったかなぁと…。
忙しい暮らしをしていると早急に結論を求めがちというか、結論がなきゃダメという雰囲気に流されてしまいがちですが、問いを考えて考え抜くことで問題を解体するということも大切だと再認識させられました。本当の意味で「聴く」というのとも、やっぱり大事。
哲学は学者や大学のものではなくて、みんなのものです。
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「ほしいものが、ほしいわ」。糸井重里が西武百貨店のために制作した広告コピー、哲学者の鷲田清一さんによると、時代の根源語と云う点で哲学と相通じるものがあるのだと云う。時代の大きな変容、しかし感触としてはあっても何なのか判らない、そのもやもやを一瞬にして結晶させるもの、それが哲学の言葉であり、広告のコピーと云えるのだ、と。
確かに、この「ほしいものが、ほしいわ」のコピー、これは単純に「欲しいものが欲しい」というただの反復語ではない。今、この刹那に欲しいと思うものが欲しいのであって、翌日にはもう欲しいと思っているとは限らない。例えば、女子学生がルイヴィトンのバッグを欲しいと思うその瞬間が欲しいときであって、では六ヶ月アルバイトをして買うかと云えば、まずNoに違いあるまい。モノが飽和状態にあるこの現代で、目まぐるしく刺激を受けながら人間の欲望自体もその刹那に変化するという事実。これらの根源はいったい何なのか。
鷲田清一「哲学の使い方」。現代の哲学の恐るべき閉鎖性の反省に立ち、哲学はどうあるべきなのかを優しく説く。とかく難解な言葉を駆使してメタフィジカルの壁の中の世界だけに停滞する今の哲学の世界だが、実際にはこの世の本当の真実とは何なのか、世の中の現場に降りて時代の中で哲学するとはどういうことなのか。提唱されている「哲学カフェ」とは・・・!? 哲学を哲学する学問に閉じ込めず、世間のフィールドで生じている出来事を一歩振り返って本当の意味を問う、曖昧に流されがちな意味の根源の真実を問う。そうすることで人間として本当のあるべき姿が見えてくるのではないか、との強い思い。日本の哲学者にもこんな人がいるのかというなかなかに興味深い本。勿論、難しい言葉も多く、やや四苦八苦しながらではあったが、哲学の何たるかを示す覚醒の本と云えるのではなかろうか。
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哲学界のたこ八郎、鷲田先生による言葉の拾遺集が朝日新聞の連載で始まったのは、この春の喜びである。まだ一週間ほどだけど、八面六臂の参照先は、先生らしくもあり、意外にも感じられたり、とにかく行く末が楽しみです。
確か東北震災後のことだったと思うが、あるシンポジウムで科学者が集まるなか、鷲田先生ひとり人文系として出席されていて、議論が科学者の専門家としてのありかたというようなあたりに及んださい、先生が発言されたことがいまでも強く印象にのこる。
「何でも答えてくれる人というのはあまり信用がおけないわけです。自分の持ってる知識の範囲内で言ってるだけだろうと思うから。思考の限界まで考えに考えてる人は、あっさりと、わからないことはわからないと言う。こういう人は信用できる」
この言葉はそのまま本書のエッセンスである。哲学者も全く同じである。先生が長く取り組まれている、一般市民による哲学カフェに至る道は、臨床というキーワードの周辺にいるあらゆる人びとに参照してもらいたいものだ。
パスカルの系列は現代にこのように生きている。