紙の本
反知性主義の原稿を内田氏に頼まれたら、貴方ならどう仕上げるだろうか
2015/10/31 22:32
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:どや - この投稿者のレビュー一覧を見る
内田樹氏が各界の親交ある方々に反知性主義の原稿を依頼
回答を一冊の本にまとめた
藁にもすがる思いでペンを進めた苦悩や
考察し新事実を発見した興奮を私は本の端々に感じた
想田和弘氏の原稿が腑に落ちた
予定調和を避け、生の現実と向き合う
作品が完成しても、その作品に固執しては予定調和となりうる
絶えず問い続けること、探求し続けること
この態度こそが知性であると、
私は解釈した
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投稿者:グランドマスター - この投稿者のレビュー一覧を見る
白井、鷲田は面白かったが全体的に薄い。ホフスタッターと比べると反知性主義に対する考察がかなり欠けている
紙の本
眠くなる本
2018/06/03 06:17
7人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:889ヒロ - この投稿者のレビュー一覧を見る
内田樹氏は見た目はカッコいい、理屈も悪くないと思うが、古武道に精通していて左翼的な意見を出すから、朝日新聞に持ち上げられたり時に手ひどく批判されたりしている。
つい正直に歴史ある日本の~と言おうものなら左側から総スカンを食らう。
「日本が衰退していくのを嬉し気なマスコミ」は嬉し気ではなく嬉しいんですよ、内田サン、どうしましょう。日本が無くなっていくのは米国の元々の意図で、それに組み込んでもらっていたのは支那でしょう。今でもその路線は外していないし、あなたもカードや広告塔になっています。
それにしても、知性とは反民主主義の共産思想とは知らなんだ。
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薄い、それなりに面白いのは内田樹氏、白井聡氏、鷲田清一氏の三名だけだと思われる
ホフスタッターと比べると物足りなさが目立つ
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人が違うと、同じことを論じてもホンマいろんな解説の仕方や論理立てがあるなあと改めて実感。中でもオレは内田さんと名越さんの対談が一番興味深かった。名越さんの言葉は、いちいち刺さるんよな^^; 読んでて大変笑
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2010年秋に、当時の仙石由人官房長官が「自衛隊は暴力装置である」と発言して物議を醸したことをご記憶の方は多いと思います。
私は当時、このニュースを見てこう感じました。
「ひどい言いようだな」
SNSなどインターネット上でも、仙石氏の発言に対する批判が噴出しました。
ただ、私はSNSのヘビーユーザーにも関わらず、自分の意見を投稿することはしませんでした。
これは最近特にしばしばあることですが、批判する人たちの口吻に「正義」の臭いをかぎ取って辟易してしまったのですね。
私は「正義」を声高に言い募るのが生来苦手なのです。
本書を読んで、当時の選択が正しかったと安堵しました。
本書の執筆者の一人で、「永続敗戦論」(太田出版)で有名になった白井聡さんはこう書いています。
「自衛隊のような軍隊や警察などの国家が有する実力組織を『暴力装置』と呼ぶのは、政治学や社会学では一般的な事柄である」
つまり自衛隊を掌握している政府の人間が、事実上の軍隊である自衛隊を「暴力装置」と正しく認識しているということは、国民として安心できることではあっても、決して批判されることではないということです。
もっとも、安倍首相が最近、自衛隊を「わが軍」と呼んで批判を浴びたように、官房長官という立場にも関わらず公の場で、自衛隊を軍隊とほぼ同義である「暴力装置」という呼称を用いたのは不用意で、その意味では批判されても仕方ない面はありました(ただ、そういう意味での批判は当時皆無でした)。
などと偉そうに書いていますが、私だって当時よく知りもしないで「ひどい言いようだな」と感じ、一歩間違えばSNSで投稿して恥をさらす可能性もあったことを考えれば、「反知性主義」のそしりは免れないでしょう。
もとより知性的な人間ではありませんが、せめて目の前の事象を冷静に受け止め、よくよく事情を調べて、自分の頭で考えてから反応する姿勢だけは持ちたいものだと、本書を読んで愚考した次第です。
本書は、現代社会に跋扈する「反知性主義」について、ビジネスマンや哲学者、政治学者、コラムニスト、作家、ドキュメンタリー映画作家、生命科学者、精神科医、武道家と様々な分野で活躍する方たちが書いた論考を、思想家の内田樹さんがまとめたもの。
大いに勉強になりましたし、反省もしたところです。
以下、自戒も込めて、印象に残った箇所をいくつか。
【内田樹氏】
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バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。(P020)
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反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計資料をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。(P021)
□□□
その人がいることによって、その人の発言やふるまい���よって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。(P023)
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反知性主義者たちにおいては時間が流れない。それは言い換えると、「いま、ここ、私」しかないということである。反知性主義者たちが例外なく過剰に論争的であるのは、「いま、ここ、目の前にいる相手」を知識や情報や推論の鮮やかさによって「威圧すること」に彼らが熱中しているからである。(P041)
□□□
【白井聡氏】
自衛隊のような軍隊や警察などの国家が有する実力組織を「暴力装置」と呼ぶのは、政治学や社会学では一般的な事柄である。ところが、日本の一部世論はこうした常識を理解できず、仙石への批判の声が相次いだ。これは、インターネットの普及による「集合知」ならぬ「集合痴」の効果が遺憾なく発揮された例だと言えるであろう。(中略)彼らは、「暴力装置」という言葉の語感からピント外れの批判を繰り出し、実際は無知を曝け出しているにもかかわらず、あたかも「失礼だ」という批判が正当であるかのような雰囲気が醸成される、という無残な状況が出現した。(P094)
□□□
【平川克美氏】
戦後70年を経た日本とは、戦争の時代について誰も知っているものがいなくなった時代である。もはや、我が国の政治家が語る戦争とは、ベトナム戦争前のリンドン・ジョンソンや、イラク戦争前のジョージ・W・ブッシュほどにも、戦争について幻想的なイメージしか持たないものによって語られる戦争でしかないということであり、それがどれほど現実離れしたファンタジーでしかないかということは、肝に銘じておきたいと思う。(P156)
□□□
【小田嶋隆氏】
「試験をパスした人間」の象徴としての「官僚」と「マスコミ」、さらに「試験を課す人間」としての「大学教授」と「日教組」あたりは、「学歴主義的」な「体制」の黒幕として、反知性主義者の憎悪を糾合することになる。(P191)
□□□
【名越康文氏×内田樹氏】
内田 親の欲望、親の抱えていた欠落感って、子どもにダイレクトに伝わりますね。不思議なもので、「親が持ってるもの」はそれほど遺伝しないんだけども、「親が持ってなくて、欲しがっていたもの」って、子どもにそのまま遺伝する。
名越 ほんとそうですよね。
内田 これがなくて俺は苦労した、これさえあれば……という、「無いもの」に対する同性の親の欠落感は、同性の子どもに深々と刷り込まれるみたいですね。(P204)
□□□
内田 わかるでしょう? 自分が「学びのモード」に入ったときって、何かが変わるんですよね。まだ1ページも読んでないんだけれども、それ以外の日常生活のクオリティが全部上がる。なんというか、毛穴が開いてる感じになるというか。
名越 ああ、わかる。(P211)
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【想田和弘氏】
ドキュメンタリーとは、作り手自身を「世界」に委ね、身体と意識を開いていき、そこから何かを本気で学ぼうとするための知的営みである。締め切りまでに完成するのか、いや、そもそも作品として成立し得るものかどうかなど、誰にも予測できない知的冒険であり、ギャンブルである。(P250)
□□□
例えば、「先に有罪ありき」の司法制度。(中略)他にも、「先に点数ありき」の教育制度。「先に移設ありき」の沖縄米軍基地問題。「先に書き換えありき」の歴史改ざん主義。「先にコスト削減ありき」の福祉制度改革。「先に可決ありき」の秘密保護法。いずれも、個人が自由な知性を発揮し、教育を、米軍基地を、歴史を、福祉を、民主主義を本気で考え、吟味しようとするならば、「台本(ゴール)」の正当性や意義が深刻に疑われる事例である。しかし、コトを進める人たちは、何があっても台本だけは絶対に崩そうとしない。そして台本を崩さないために、知性そのものの発動を抑制するという本末転倒が生じているのである。(P253)
□□□
【仲野徹氏】
そして、あまり語られない大きな問題は、応用研究の大多数はモノにならないということだ。新聞などで、この研究によって〇〇の治療が可能になる、と報じられることはよくあるが、後日、そうなったという話などほとんど聞かない。ゴール志向性の強い応用研究がゴールに至らなかった時、残念なことに、結果的にほとんど何も生み出さない。(P273)
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【鷲田清一氏】
知性は、それを身につければ世界がよりクリスタルクリアに見えてくるというものではありません。むしろ世界を理解するときの補助線、あるいは参照軸が増殖し、世界の複雑性はますますつのっていきます。(P292)
□□□
自由主義とは(……)多数者が少数者に与える権利なのであり、したがって、かつて地球上できかれた最も気高い叫びなのである。自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。(オルテガ「大衆の反逆」(107頁)(P296)
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内田氏の御仲間たちではありますが、いろいろな
思想を持っている方々の反知性主義にかんしての
論述。
今回の内田先生の内容は、いつもとは少し違った
切り口だったような気がします。でも内容的には
納得し、なるほどと思うところがいつもと同じく
多くあったと思います。
他には、若手の白井聡氏。いつもの鷲田清一氏の
論述がよかったと思います。
中でも平川克美氏の話が一番わかりやすくて
個人的には秀逸だったと思います。
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著者たちの多くが、自分こそ反知性主義に陥っているのではないか、という疑問や躊躇いを出発点としている。そのことからだけでも、この本に満ちている知性を嗅ぎ取ることができる。
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レビュー消えた。だからこうして機器依存してることが危機的なのか。「無思考社会」や「ド地域力」というネーミングを思い起こして感覚的な知の感覚を再現してみる。「大学」や「地域」という(本来)それを寛容に涵養してくれるものが、あまりにも軽薄に効率的にあしらわれることが怖い。一方でそんな90年という短期的な生において、わざわざ熟考し「人間的」になるなんて至極メンドクサイとも思う。反知性、反痴性、6枚切りのパンちっせい。広い深い90年は残酷にも短い。
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反知性主義というのは現代に限らず、人類の歴史上繰り返しあらわれてきたもののようだ。内田樹と、その呼びかけに応じた9人の論客が現代の知性のありようについて語っている本書を読んでいるときの自分は、己の知性の欠落を痛切に感じながらも、おそらくそれを感じることのない人間こそが反知性主義と呼ばれる状態に陥るのではないかと思った。自分と意見の異なる相手の中に、知性の存在を信じることができない時に、己の反知性主義が始まるのだという警句を胸に刻みたい。
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すっと入ってくる論考、そうでない論考いろいろあったが、その多くが「反知性主義に飲み込まれることへの懸念(恐れ)」という視点からはじまっていることに感銘を受けた。対岸の火事のように反知性主義を眺めようとすると、途端にそれに囚われてしまうということを、多くの筆者に教えていただいた。
「知的フレームの不断の再編成」が、反知性主義から身をかわす手立てだということが、多くの論考で言及されていた。その件について考え込んでいるうちに、読了してからかなりの時間が経ってしまった。
「知的フレームの再編成」は、真新しい考えに触れたときだけでなく、未知のコンテクストを導入することで、既知の事項が今までとは違ったものに見えてくることによって起こる(というか、そちらの方が多い)のではないか。
しかし、そういう「目からうろこ」的現象は、新しい考えなりコンテクストなりを自分なりに咀嚼し、既知の事項を並べ直してみるくらいの能動的な努力が必要だ。おそらく、検索によるデータ収集だけでは「なるほど」とはなっても、パラダイム転換(それがどんなに卑小なものであったとしても)は起こらないだろう。そんな努力を不断に行わなければならないとなると、反知性主義から逃れきることは本当に難しい。
とはいえ、予断と予定調和に凝り固まった世界は、想像以上に恐ろしいということを、最近の世の中を見て思わずにはいられない。それゆえ、少しでも自分が反知性主義から逃れ続けられるよう、不断の努力を惜しまぬようにせねばならない。
陳腐な読書感想文のような文言で終わってしまったが、痛切なる本音であるので、このまま〆ようと思う。
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「歪み」を見つけること、そして、その「歪み」を描くこと。それが「知性」だ。「歪み」が見えることを、「知性」がある、っていうんじゃないかな。クラムには、「知性」があった。「知性」は考える前にある。それは「視力」なんだ。だから、(目が見えない)誰よりも、「速い」ってわけさ。(p.124)
「ヤンキー論」が論壇を一回りした後に、恣意的な引用や聞きかじりのコピペをネタに語られはじめている「ヤンキー2.0」は、事実関係の当否や論理の整合性よりも、ページビューを呼びこむ見出しのどぎつさや、読み物としての刺激の強さを重視している分だけトンデモ方向に舵を切った物語になっている。
よって、「ヤンキー」という言葉を無批判に大量使用している文章は、信用できない。参考にすらならない。(p.183)
知性は大切なものだ。
そして、学問はありがたいものだ。
私たちはそれらを自分たちの手に取り戻さなければならない。
テストの成績をネタに友達と引き離されたことを、私たちは、心の奥底で恨んでいる。
で、犬のクソを踏まされた子供が犬嫌いになるみたいにして、学問に敵意を抱いたりしている。(p.198-9)
僕がレヴィナスを読んだときに感じたのは、いくら文章を読んでもわからないけれど、レジなすが今思考している一番中心の、核の部分で熱く脈打っているものに直接触れたいという渇望だったんだと思う。理解できないけれど、触れたい。だから、写経するような気分でずっとレヴィナスを読んで訳してきたわけですよ。でも、写経していると、どこかの段階で自他の同期が起こるんですよね。僕自身の考え方や語り口がレヴィナスに感染して、レヴィナスに憑依されてしまう(笑)。僕は確かにレヴィナスの読み方をレヴィナスから学んだのだと思う。レヴィナスのテクストの解釈の仕方をレヴィナス自身から学んだ。(p.229)
どうしてもその杭を中心とする同心円から出てゆけない。どんな新しい経験をしても、全部古い経験のスキームの中でしかその意味を解釈できない。トラウマって、そういう種類の病気ですよね。このスキームへの固着からどうやって自分を解き放つか。僕の眼には、今日本全体がある種のトラウマ的な状態に陥っているように見えるんです。みんなが「今・ここ・私」に居ついている。(p.240)
いろいろなことがほんとうに便利になってきた。標準化や定型化により、それぞれの研究室からでデータを比較検討することがたやすくなるのだから、科学の進歩という面ではすばらしいことばかりである。しかし、標準化や定型化といった方向性が示されていれば、それにしたがって研究をおこなうことが前提になる。考える必要がないとまでは言わないが、創意工夫のはいる余地が少なくなってきてしまっている。すなわち、型が大事になって、個人の「知性」があまり必要ではなくなってきているのだ。(p.264-5)
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反知性主義や反教養主義に警戒感を覚えている人たちの寄稿集。「アメリカの反知性主義」は読んでないのでわからないが、アメリカは周期的に反知性主義が吹き出るようだ。ただ現代はグローバル化というか、世界がアメリカ化して、新自由主義に闊歩されている流れなので、反知性主義はアメリカや日本だけの問題ではなく、世界的な流れのようだ。本書は、それに対しての処方箋ではない。色々な著者がよって立つ思想背景で思ったことを、著者なりのスタイルで述べている。そのこと自体が知性主義ということなのだろう。
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誰にも、いつでも反知性は舞い降りて、支配される。グローバル化や合理化が反知性を生み出す要因というのは少し飛躍しすぎかもね。読みどころは内田先生と名越先生の掛け合いのところかな。
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ホーフスタッターという人の『アメリカの反知性主義』(未読)にならって「反知性主義」の日本を考察するという本アンソロジーは、テーマがやや曖昧だったのか、各論者の「反知性主義」なるものの捉え方が少しずつ異なっており、前著『街場の憂国会議』よりも少々雑然としてまとまりのない印象となった。
本書を読み通してみて、私なりに捉えた「反知性主義」のイメージは、知的な広がりを抑止してしまう傾向、姿勢、感情等である。
内容的に共感する部分が多いか、興味を覚えたのは、内田樹さんの文章より、白井聡さん、想田和弘さん、仲野徹さんのそれだった。
仲野さんは生命科学の分野の方で、後半、例の「STAP細胞」騒ぎに触れている。科学雑誌の小さなコラムで取り上げられてそのまま消えてしまうようなネタだったのに、最初からマスコミが変な風に小保方さんを持ち上げてしまい、あんな、「社会を騒がせるような」事件になってしまったのである。
この場合は利益を上げられそうなネタととらえ、勝手に騒ぎ立てたマスコミが「反知性主義」なのであり、そのような立場はとうてい、科学の精緻な知性の場からはほど遠いものだった。
そこから連想したのは同時期の佐村河内氏のゴーストライター事件。あれなんかも、「過酷な人生苦を乗り越えて編み出された壮大なシンフォニー」というストーリーを持ち出して騒ぎ出したNHKやレコード会社、それに踊らされ、物語に沿って「感動した」つもりになった教養主義的「自称クラシック愛好家」たち、みんな「反知性主義」である。(と同時に、反音楽的である。)
ドキュメンタリー監督の想田さんの文章ではTVのドキュメンタリー番組なるものが、最初から台本を決めて作られているという内情を暴露していて興味深かった。営利企業としてのTV局が、売れ線のネタとして想定された物語が最初にあって、「事実」に取材したインタビュー等はそれに「あてはめられている」のである。想定に従わない情報が得られたら、当然捨象されてしまう。
「この国には『社会』がない。」と指摘する白井さんの論点は痛快で、私がふだん思っていることとかなり近い。日本人は近代人としての前提をまったくふまえてこなかったという悲しい状況だ。
たとえば自衛隊や警察が国家の「暴力装置」であるというのは社会学では常識なのに、それを口にした政治家は国民(ネット民?)からいっせいに叩かれた。
なぜこのような反知性主義(未知の言葉などを理解しようとする知性をみずから抑止してしまう傾向)がはびこるのか。確かに、啓蒙主義ははるか昔の話なのだが、欧米の「現代人」の前提としてあるベースには「自己を陶冶する」精神性が存在する。けれども日本の大衆はそのような精神性を獲得するよりも先に、一気にポストモダンの時代(近代の「精神性」の否定)に突入してしまった。
「自分探しの旅に出る」なんて誰が言い出したのか知らないが、確か1980年代あたりにはそのような「自己発見の旅」というイメージが日本文化のディスクール体系に織り込まれていた。何と言うことだ。欧米の近代人は自分を「作る」ために自らを鍛え上げていたのに、このひ弱なポストモダン人たちはそんな努力を最初から放棄して、自分をどこかで「見つける」と言うのだ。
私が「日本の反知性主義」ということで考えるのはだいたい、以上のようなことだ。大衆の反知性主義は、「超」資本主義の時代にあっては必然的に到達してしまうとも言え、これはいずれ、日本だけにとどまらない話だろう。
最後に内田樹さんの文章を読んで気になったのは「知性は集団的にしか発動しない」というくだり。その集団という語を「雑多な人々のゆきかう場、人と人とのあいだ、全体として複雑系を形成する不確定なもの」と捉えるなら良いのだが、日本人の場合、「集団」というと、同質性を基調とするような怪しげな<和>に直結してしまいがちなので、どうもそこを曖昧にしてほしくないと思った。内田さんはもちろん、そのような同質性の集団のことを言っているわけではないと思うのだが・・・。