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公共哲学とはなんだろう 民主主義と市場の新しい見方 増補版
著者 桂木 隆夫 (著)
公共性の危機に直面して、あらためて「あるべき民主主義と市場」を問う−。いかにして他者と協力し信頼しあう秩序を築くか。モラルサイエンスの一貫した視点で、公共哲学を切り拓く試...
公共哲学とはなんだろう 民主主義と市場の新しい見方 増補版
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商品説明
公共性の危機に直面して、あらためて「あるべき民主主義と市場」を問う−。いかにして他者と協力し信頼しあう秩序を築くか。モラルサイエンスの一貫した視点で、公共哲学を切り拓く試み。【「TRC MARC」の商品解説】
見知らぬ他者との協力と信頼によって築かれる秩序はいかにして可能か。民主主義だけでなく市場もまた、それを実現する重要な社会制度であり、特定価値の実現でなく多様な価値のバランスの追求こそが公共哲学の任務とみる、民主主義と市場が支える自由社会をですます調で語る入門書。増補版では2005年以降の社会の変化を織り込む。【商品解説】
民主主義と市場が支える自由社会をどう擁護するか。モラルサイエンスの立場から、生まれつつある「公共哲学」を体系化する入門書。【本の内容】
目次
- 増補版への序文
- まえがき
- 第一部 公共哲学の諸潮流
- 第一章 公共性とは何か
- 第二章 ハーバーマスとアーレント
- 1 ハーバーマスの公共哲学
- 2 ハンナ・アーレントの公共哲学
著者紹介
桂木 隆夫
- 略歴
- 〈桂木隆夫〉1951年東京都生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。学習院大学法学部教授(公共哲学・法哲学)。法学博士。著書に「市場経済の哲学」「自由とはなんだろう」など。
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初心者でもわかりやすいのでは?
2020/03/31 21:46
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コメントウ - この投稿者のレビュー一覧を見る
具体例を用いて説明されているので、初心者でもわかりやすいと思います。私が哲学に詳しくないからか分かりませんが、ボリュームはそれなりにあると感じました。
2023/07/02 09:12
投稿元:
公共哲学とはなんだろう [増補版] 民主主義と市場の新しい見方
公共哲学、公共性とはなにかを論じ、 私なりの答えとして、「公共性とは開かれた民主主義とフェアな市場経済を維持することである、それを擁護することが公共哲学の課題である」と主張しました。
開かれた民主主義もフェアな市場経済も直線的に生成発展するものではなく、ジグザグなプロセスをへて生成発展するのです。現在の公共性の危機はそのジグザグの一場面ではないか。そのように考えられないでしょうか
公共性の危機を克服して、開かれた民主主義とフェアな市場経済の方向性を取り戻すためには、現在の民主主義や市場経済が見失いつつあるものを再認識する必要があります。それは一言でいえば、責任倫理です。民主主義や市場経済に参加する一人一人がそれぞれの行為に責任を持つということです。実践の積み重ねが「意図せざる結果として」民主主義をより開かれたものにし、市場経済をよりフェアなものにしてゆく。このことを本文のなかでよりはっきりと表現しようと考えたのが、増補版の主たる動機です。
公共性という言葉は、後で見るように、多義的でいろいろな要素を含んでいるのですが、さしあたり、「公共性というのは公共の利益ということである」と理解してください。その場合、ポイントは二つあります。ひとつは、公共性というのは「一人でやるのではなく、みんなで協力する」ということを意味しているということです。もうひとつは、公共性というのは、無秩序ではなく、秩序を求めるという志向性を含んでいるということです。
非自発的な協力あるいは強制的な協力、つまり協力しない場合には、何らかの制裁を加えることにして、協力を調達するという考え方がでてきます。この非自発的な協力の典型は、われわれのような社会では、法律に基づく制裁によって協力を促すということです。
広い意味での非自発的な協力に対して、自発的な協力というのは、人々の利他心に訴えて協力を引き出すというものです。これは先ほど述べたように、われわれの社会が利他心よりも利己心を強調しがちであることを考えると、限られたものであるといわざるを得ません。
これらの非自発的な協力と自発的な協力の間に、競争による意図せざる結果としての協力というものが考えられます。十八世紀のデビッド・ヒュ〓厶やアダム・スミスが考えたように、競争という枠組の中で競うことによって、人々は、個々人の主観とは別に、いわば意図せざる結果として、公共の利益ひ社会の富の増大を達成するのです。
現在では、自由な経済競争は市場経済と呼ばれています。そこでは、国が経済を管理しているのではなく、様々な個人や企業が、自己の利益を実現するために、競い合っています。これらの個人や企業は、利己的な動機に基づいて行動しているけれども、そうした行動の集積によって、結果的に、技術革新とか社会的富の増大という公共の利益が実現されます。
もし競争が勝者と敗者を生み出し、しかも勝者は常に勝ち続け、 敗者は常に負け続けるならば、市場経済は弱肉強食の場と化し、富裕層と貧民桝の階層の固定化と格差の拡大が進んで、秩序が不安定となり、市場経済の公共性は失われるでしょう。
「勝ったり負けたり」という事態が習慣化して、それについての認識が人々に共有されてくると、人々の間に自由な競争への信頼が生まれ、それは秩序の安定化につながります。これが市場経済の公共性ということです。
ここまでの議論をまとめておきましょう。まず、協力には、自発的な協力と非自発的な協力があります。自発的な協力というのは、主として利他的な動機に基づくものです。これに対して、非自発的な協力というのは、法的なあるいは社会的な制裁という手段によって可能となるものです。
さらに、協力には、意図的な協力と意図せざる結果としての協力があります。この後者の、意図せざる結果としての協力というのは、市場経済における自由な競争によって可能となるものです。人々は利己心から、自分の利益を実現しようとして行動するのですが、それを越えて、相互の利益が達成されるのです。
公共性を考えるときに、協力と並ぶもう一つのポイントは、秩序ということです。協力が継続的に行われ、 さらに、社会慣習として定着している必要があります。これはなかなか難しい。
本書の立場は、下からの公共性、下からの秩序形成をできるだけ認めようという考え方に立っています。したがって、ここでは、公共的な秩序形成に関して、公(おおやけ) と私(わたくし)の二分法はとりません。それに代えて、「公」〓 「公共」〓 「私」の三分法を採用します
公共性が外に対して開かれた構造を持つためには、他者と協力するという視点、他者と秩序を形成するという視点が絶えず求められるのです。これまで仲間同士であったものが、いかに他者として協力し新しい秩序を形成するか。
国際平和というのは、お互いに他者であるもの同士がどのように協力してどのような秩序を形成するかということでしょう。それがいま問われている。それが、国際公共性には他者の視点が必要だということなのです。そしてこれは、 国際公共性だけでなく、公共性一般にいえることなのです。
公共性を生成するものとして考えたい。これは、公共性を独立した、絶対
的な存在とは考えないということです。狭義の「公(おおやけ) 」に属する領域は別として、「公共」の領域はあらかじめ存在するというより、 人々の自由な活動の集積から生成するものであり、そこでは、何が公共性かについては、人々の自由な判断に任されているということです。その結果、何が公共性かについて意見が分かれることになる。つまり、「公共」の領域では、意見の違いがあってそれを認め合うことが公共性の観念と結び
ということになります。
国際平和といっても、国際社会という明確な存在を維持することではなく、むしろ国際社会の姿がまだはっきりとは見えない中で、 他者との協力と秩序形成による国際平和の生成が問われているということです。
これまでの公共性とは何かについての議論をまとめておきましょう。まず、公共性の概念を構成する主な要素として協力という要素と秩序という要素がある。また、公共性という場合、権力による上からの公共性だけでなく��からの公共性を考えると、「公」〓 「公共」一「私」という三分法的な視点が重要である。また、協力したり秩序を形成する場合には、 仲間という視点だけでなく、他者の視点を組み入れる必要がある。そして、公共性の存在性格としては、公共性というのは、あらかじめ明白な理念や規施として存在するのではなくて、程度の差はあれ、不確実な要素を含んだ
状況における諸力のぶっかりあいにより生成しつつあるものである。
第一の潮流を代表する思想家としては、ユルゲン・ハ〓バ〓 マスを挙げることができます。公共哲学に関するハーバーマスの著作として重要なものは、『公共性の構造転換』第一一版です。特に、第二版への長い序文において、市民による下からの公共性形成についての、彼の基本的な考え方が明らかにされています。
彼の議論の中心は、十七世紀から十八世紀にかけてのヨーロッパ、特に
イギリスにおいて成立したとされる、市民的公共性の概念でした。彼が注目したのは、当時ロンドンで流行ったコーヒーハウスです。彼によれば、このコーヒーハウスで、公論すなわち教養ある市民の討議の空間が、形成されたのです。
ハーバーマスは、これを公論(パブリック・オピニオン) と呼んでいます。これは、市民的な法治国家の理念、すなわち「すべての国家活動は、公論によって公認された諸規範の体系によってコントロールされるべきである」という理念と結びついています。
ハーバーマスによれば、十八世紀のイギリスのコーヒーハウスで行われた批評活動では、真理が問われていたのであり、そこでは、理性的な議論が重視されたのです。また、そこに参加する人々は、教養と財産を有する知識人でありました。
市民的公共性の概念について、あらためて考えてみましょう。この概念の特徴は、対話的合理性という考え方にあります。つまり市民的公共性とは、市民がお互い対話的合理性を発揮しつつ社会的実践を行っているとき、そこに市民的公共空間が形成されているという考え方なのです。
それでは、対話的合理性とはどういうものかというと、ハーバーマスによれば、それはマックス・ウェーバーのいわゆる目的合理性とは区別されるものです。目的合理性とは、ある目的を達成するために合理的な手段は何かを考える思考法です。
対話的合理性は、目的(成功) を志向する合理性ではなく、他者理解(合意) を志向する合理性であるといわれます。他者をある目的のための手段( 「あいつは使える」) と考えるのではなく、他者を他者そのものとして理解し尊重し、それによって他者との合意に達しようとする思考法です。他者を手段とみなすのではなく、自律した人格として尊重するという考え方は、ハーバーマスのカント主義的な立場を示しています。
ハーバーマスは、理想的対話状況という概念をしばしば主張しますが、これは、対話的合理性のこの特徴がいかんなく発揮された状況であり、対話の当叩者たちがそれぞれ、あらゆる立場にある他者を説得しうるような理由を示しながら、お互いに議論し合意に達するような状況を意味しています。
ハーバーマスのダム決壊論というのは、滑り坂理論(とも呼ばれるものです。
ダムの擁壁に最初はごく���さな穴が開いただけだったのに、それが水の圧力を受けてどんどん大きく広がり、ついにはダムそのものを決壊させてしまう。それと同じように、赴初は議〓の方向が少しずれただけだったのに、その議論のずれによってなされた決定が一人歩きし始めて、議論のずれがどんどん大きくなり、ついには全く非人道的な政治的決定が平然となされるようになってしまう。
ハンナ・アーレント は『人間の条件』 という書物のなかで、二つの三分法を示しています。一つは、人間の行為形式を、 労働と仕事と活動の三つに区分するという考え方です。このうち、活動は人間の最も高次の行為形式です。それは、人間の複数性と多数性に基づく直接的コミュニケーション、つまり言論活動によって、 政治生活を構成する原動力です。
これに対して、労働と仕事は、より低次の行為形式と考えられています。
もう一つの三分法は、私的領域と公的領域の間に社会的領域を考えるというものです。アーレントの議論のポイントは、人間の低次の行為形式である労働と仕事によって形成される社会的領域に対して、より高次の行為形式である活動によって形成される、公的領域の優位と禾要性を主張するところにあります。私的領域とは、家族という自然の共同体、あるいはプライバシーの領域です。
アーレントによれば、現代社会の特徴は、社会的領域の拡張すなわち経済社会の拡大ということです。この経済社会の拡大は、大衆社会化という現象を伴っています。大衆社会化は、一方で、経済が家族やプライバシーの領域に侵入するということです。他方でそれは、公的領域つまり政治の領域に、経済の論理が持ち込まれるということでもあります。こうした動向は、アーレントにとって、社会全体が画一化していくということにほかなりません。それは、大衆消費社会と政治の大衆化をもたらし、それによって、公共性の喪失という事態を生み出します。
人間は、単に数から見て複数であるだけではなく、それぞれの人間がそれぞれの個性を有している。その意味で人間は多様である。そうした多.様性あるいは個性を自発的に主張し合い、対話という枠組の中で生活を送っていく。それがポリス的な公共性というものだというわけです。
このポリス的な公共性というのは、紀元前五世紀の古代ギリシャのアテナイというポリス、都市国家において成立したと考えられています。アーレントは、 それを強く支持しています。
カントの定言命法は、少しわかりやすくいい直すと、次のようなものです。「あなたの生活ルールが普遍的な生活ルールとなることを、あなたが自分自身で本当に意思しうる場合にのみ、その生活ル〓 ルによって行為しなさい」。自分があらゆる境遇におかれたと想像して、それでもなお、その生活ルールを〓疋すると意思できるような、 そういうルールに従って行為すべし、とカントは述べているのです
アイヒマンをめぐる「悪の凡庸さ」と服従の心理についての、アーレントの分析には優れたものがあります。普通の人間が、無思想性と現実感覽の麻痺と結びついた服従の心理にとらわれたときの危険性について、認識を新たにさせてくれます。われわれの社会には、「悪の凡庸さ」が戚力を
発揮する機会が、いたるところに存在しているのです。
アーレントは、人間の複数性と対話性が十分に発揮されうるような、 公的な領域の形成と活性化に求めています。アーレントにとって、この公的領域とは、異なる他者が対話によって共存する、新しい共同体を意味しました。そこでは、他者に対する応答責任を引き受けることが、政治のもっとも基本的な条件となります。
閉じた秩序構想の限界を指摘し、いわば開かれた、かつ下からの自発的な公共性の可能性を明らかにしようとした点で、アーレントの公共哲学の持っている意義は大きいといえます。
スパルタの市民もアテナイの市民も、 アーレントのポリス的市民のイメージに合致する、「政治に自ら植極的に参加し、公共的な役割に献身し、いざ戦争のときには国のために勇敢に命を捧げることができる」ような市民でした。この点に変わりはありません。しかし、スパルタの市民は農本主義的で閉鎖的な社会を形成したのに対して、アテナイの市民は商業主義的で開かれた社会を生み出しました。
ー九九〇年代以降のアメリカにおける公共哲学の流れを考えるときに、その出発点となる思想家としてまず名前が挙げられるのはウォルター・リップマンです。彼は、自由な民主主義社会と公民の伝統の結びつきを説き、西欧の民主主義社会がこの公民の伝統を失いつつあるところに、西欧の危機をみています。
サンデルの主張は次のようなものです。「これまでアメリカの生き方、公共哲学はリベラリズムであった。しかし、リベラリズムはいま多くの弊害を生み出している。だからこれからわれわれは、リベラリズムとは異なる、共同体主義(コミュニタリアニズム) という公共哲学あるいは生き方を目指すべきである」。
サンデルの議論は、これまでのアメリカの公共哲学、生き方であったリベラリズムの批判から出発します。アメリカでリベラリズムという場合、自由主義というよりは、むしろ平等主義といった方がより適切だからです。つまり、アメリカ社会のなかで様々に存在する、マイノリティや社会的弱者の人々の権利や自由を平等に理禾すべきだという考え方です。いわばそれは、アメリカ的な平等主義なのです。
アメリカでは、このリベラリズムとは別に、平等よりも経済的自由をより重視する経済的自由主義の考え方があり、リバタリアニズム、自由放任主義ないし自由尊重主義と呼ばれています。この考え方によれば、自由な経済活動によって貧富の差が生じるのは当然であり、自由な経済活動はむしろそれ以上に社会全体の富を増大させることによって公共性に適っているとされます。主としてー九八〇年代以降、レーガン政権やイギリスのサッチャー政権によって、いわゆる小さな政府という考え方が力を増してきましたが、これはその流れに沿った考え方です。
アメリカ的文脈では、これらの二つの考え方、つまりリベラリズムとリバタリアニズムを区別する必要があります。そのうえで、本書で淪じるサンデルのリベラリズム批判は、リバタリアニズムを念頭においているのではないということです。もっとも、サンデルの共同体主義9 ミュニタリアニズム) は、リバタリアニズムに対しても批判的であることを指摘しておきます。
サンデ���のリベラリズム批判の背後には、アメリカ社会における自治の喪失とコミュニティの崩壊に対する危機感があります。
第一の論点は、リベラリズムが、寛容の精神や個人の権利の尊重を強調することによって、価値の相対化や公共的価値についての無関心を生み出し、 利己主義的な考え方を助長しており、それによって、自治の精神やコミュニティの存立を危うくしているというものです。これに対して、サンデルは共同体主義の公共哲学の立場から、「自由にはコミュニティ意識や公共心が必要である」と主張し、人々の公共的関心や社会への帰属意識、地域社会やコミュニティとの絆の垂要性を説いています。
第二の論点は、これら二つの公共哲学の人間観に関わるものです。サンデルは、リベラリズムの自我概念を、 空疎な自我概念、「負荷なき自我」として批判します。あらゆる道徳的目的に対して、中立的に振る舞う自我というのは幻想である。カント的世界市民やコスモポリタン的自我は、自律した存在などではなく、根無し草である。むしろ、われわれはみな、われわれの社会の歴史と道徳を背負った自我であることを、率直に認めるべきである。そして、そうした「負荷ある自我」を育てる、地域社会やコミュニティの重要性を認識すべきであるというわけです。
第三の論点は、正義と法の概念に関わるものです。国家はいわば道徳的な観点から、より積極的に介入すべきであり、「加害者は被害者に対して直接的に罪を償う(謝罪する) べきである」という要請に応えて、加害者の人権を制限すべきであると主張します。
第四の論点は、政治的合意のために、中絶や同性愛などに関する道徳的論争を括弧に括るべきか、 という問題にかかわります。共同体主義の立場は、善の多様性つまり生活信条や生活文化の多様性の問題といえども、 そうして多様性を認めることがコミュニティの存立を危うくするような場合には、相互尊重というような曖味な理由によってそうした多様性を認めようとする政治的合意に委ねられるべきではないというものです。
人間として公正な裁判によって裁かれるために、最小限度の人権が憲法によって保障される必〓がある。刑事裁判における適正な手続きを刑事被告人に対して保障する必要がある。これが立憲主義と人権というものの基本的な考え方です。
そして、この基本的な考え方の上に立ちつつも、いわば国家対個人という観点とは別の、個人対個人という新しい観点から、つまり犯罪者対犯罪被害者という観点から、犯罪被害者の人権をどう認めていくのかが、最近論じられるようになってきているわけです。
リベラリズム批判に基づく共同体主義(コミュニタリアニズム) の公共哲学の構想とは、どのようなものでしょうか。それはまず、自治の精神を重視しています。公共心を持って自分の意見を述べることであり、その意味で、自分の発言に(共同体のー貝として) 責任を持つということです。したがって、 自治の精神は、自由や自律の観念を含んでいますが、同時に公共心あるいは公共精神に支えられたものです。
サンデルは、自分が考えている説得とか習慣づけというのは、トクヴィル( や-J・S・ミのいう「民主主義の学校」つまり、コミュニティの実践それ自体が���校であり、民主主義や自治の精神つまり公共心を育てるという考え方を念頭においているといっています。そして、トクヴィルやミルの「民主主義の学校」の観念と、J・Jルソーの公共精神としての市民宗教という考え方を区別しています。ルソーは、よく知られているように、有名な『社会契約論』の最後のところで、市民宗教という考え方を持ち出して、自分が考える市民社会が成り立っためには、人々は市民宗教という公共精神を共有しなければならないと主張しました。
人権を守る、人権が侵害されないようにすることが、公共性の基準(唯一のあるいは少なくとももっとも大事な基準) であるのか。いやそうではなく、コミュニティの基礎にある社会道徳つまり公共善の観念こそが、公共性の基準であるのか。マイケル・サンデルは、この後者の立場です。、リベラリズムの代表的思想家であるジョン・ロ〓ルは前者の立場を展開しました
少し難しい言い方で、善の多様性と正義の基底性といいます。つまり白人の生活や黒人の生活、女性の価値観やインディアンの歴史や文化、同性愛者の価値観などの、善の多様性とそれらの共通の基礎にある人権保障の原理ということです。それぞれの生き方はそれぞれに善きものであり、そ
それぞれの権利保護以上に、それぞれの生き方に対して干渉したり口を出すのは止めようというものです。こうした考え方が、従来のつまりサンデルなどの共同体主義の公共哲学が出てくる以而の、いわばリベラリズムの公共哲学の考え方でありました。
サンデルなどの共同体主義からみると、こうした考え方は、道徳的な問題を政治的に、例えば国会などの場で議論することを回避しようとするものである。そして、これに対するいわば揺り戻しとして、公共善という考え方が主張されます。アメリカの公共生活、 アメリカの民主主義にとって
重要なのは、人々の道徳的エネルギーである。人々がアメリカ社会において道徳的に善い生活とは何かを追求する意欲である。したがって、アメリカの公共生活とアメリカの民主主義を活性化させるために、公共善(アメリカ人にとって善き生活とは何か) という観点から、リベラリズムの擁護する多様な道徳的生き方についても、公共的な論争を行うべきである。これに対して、リベラリズムには、 アメリカの民主主義的な生活にとって重要な、人々の道徳的エネルギーを引き出すカはないというわけです
マイケル・サンデルが提起した公共哲学は、多元的共同体主義といわれます。これは、基本的にコミユニティを公共性形成の基礎に据える考え方ですが、コミュニティの内容について、多様なものを含めている点が特徴的です。それぞれの地域における口〓カルな公共心、 つまりグローバルなレベルではなくて、それぞれの地域社会における公共的な事柄に対して積極的に関わる姿勢を活性化させるという考え方です。
サンデルの交渉力という概念は、とても興味深いものですが、普通われわれが交渉という言葉で意味するものとは少し異なっています。、他者との交渉ということだけでなく、自分の中の複数の立場を異にする自分との交渉ということを含んでいます。われわれは、他者との交渉だけでなく、こうした自分との交渉の積み重ねのなかで、交渉力を培っていくのです。
広義のリベラリズムとは、立憲民主主義とフェアな市場経済を自由な社会の最も基本的な制度として守らなければならないという主張です。広義のリベラリズムには、民主主義(市民社会) と市場経済は、それぞれ矛盾を含んでいるという認識があります。
これに対して、狭義のリベラリズムとは、あるべき民主主義(市民社会) について、できるだけ整合的な理解を求めようとする試みです。狭義のリベラリズムをめぐる議論のレベルでは、なんらかの原理や原則に基づいてリベラリズムを正当化しようとする試みがなされます。
「モラルサイエンスの公共哲学」の基本的発想というのは、モラルサイエンスによつて得られた人問についての知識を前提にした場合に、そのような人間が生み出す公共性とはどういうものであるだろうか、あるいは、どういう公共空間を共有できるだろうか、ということです。
モラルサイエンスとはどういうものかというと、それは人間学あるいは人問科学ということですが、人間について、および人間が作り出すもの、つまり経済とか社会とか、政治とか法律といったものについて、イデオロギーやイズムにとらわれずに、トータルにかつ率直に考察するという意味で、経済主義的な哲学的姿勢を含んでいると同時に、人間を実証主義的あるいは没価値的に捉えるのではなく、むしろ多様な価値的ないし規範的観点から、人間および人間が作り出すもののあるべき姿を考察しようとする立場です。
モラルサイエンスには二つの特徴があります。一つは、現在の学問的状況のなかで、社会科学が専門化し細分化してきたのに対して、政治学や経済学、 法律学や社会学などの諸学を横断し、人間についての総合知を求めようとする試みであるということです。もう一つは、価値の問題を扱うということです。ただしそれは、イデオロギーや原理主義ではありません。むしろ、多様な価値的ないし規範的な観点から問題を扱うということです。
「強い個人」を前提とする考え方は、モラルサイエンスの立場とは異なるものです。モラルサイエンスは、人間について経験主義的な見方、あるいは、懐疑主義的な立場を堅持しています。モラルサイエンスは、「強い個人」に対して「弱い個人」という前提をとるわけではありません。むしろ、「強い個人」も「弱い個人」も(利他的人間も利己的人間も) 公共性の形成に参加しつつ、こうした人々の間の相互理解と相互不信の入り交じった状況の中から、公共性が生み出される、という考え方です。
モラルサイエンスに基づく公共哲学が、経験主義的なあるいは懐疑主義的な考え方であるということは、人権の理念や共同体の理念を否定するのではなく、むしろ、これらの理念の特権的な性格について疑いつつ、これらの理念のバランスを模索するということです。人権の理念や共同体の理念それ自体ではなく、それらのバランスが、それぞれの時代や社会における公共性(公共の利益や価値) のあり方を表現するという考え方です。
モラルサイエンスの公共哲学について、これまでの考えをまとめると、それは、絶対的で客観的な公共性への懐疑であるが、基本的な諸価値の動態的バランスという公共性を模索する点で、前向きであると性格づけることができると思います。そして、この懐疑的であるが前向きである姿勢を、
健全な懐疑主義というとすれば、モラルサイエンスの公共哲学は、健全な懐疑主義の公共哲学であるといえます。
ここで、健全な懐疑主義について、考察してみたいと思います。健全な懐疑主義を哲学的に基礎づけたのは、十八世紀のスコットランドの哲学者デビッド・ヒュームです。
人間という存在について、理性という観点からだけではなく、感情や情念という観点から考察しようとする姿勢、人間の歴史を、政治の歴史という観点からだけではなく、経済の歴史という観点から考察する姿勢、宗教について、キリスト教という一神教的な観点からだけでなく、古代ギリシャやローマを含めた、多宗教的で多神教的な観点から考察する姿勢は、いずれも、多様な観点から考察するという、ヒュームの基本的な姿勢を示すものです。
ヒュー厶は、人間を論じる前提として、「限られた思いやり」と「自然の限りある資源 」ということをいっています。つまり、人間は、利己的な存在だけれども、自分の身近な存在に対しては思いやりを発揮する存在でもある。また、自然は、豊かであるけれども、 人々のあくなき欲望を満たすほどには十分ではないということです。
また、彼は、人間がなぜ法に従うべきであるのか、つまり、法の規範性ということについて、法は権威(公的な権力) の命じるものだからとい、つ理由を妹禾しつつも、同時に、法は、人々が社会的実践によって、お互いの利益のために自発的に生み出したルールだからという理由を挙げています。いわば、法の規範性を、権威の原理と相互利益(自発性) という二つの原理のバランスによって説明するのです。
「公」〓 「公共」〓 「私」の三分法のうち、特に、「私」の領域の活性化が、公共哲学の重要な課題であるとしている点です。それを山脇は「活私開公」といっています。「私」の領域には、私利私欲もあるけれども、他者への関心も自然に働いている。だから、「私」を活かすことは、この他者への関心の広がりを生むことによって、「公共」の領域を広げることになり、また、「私」が、「公共」の領域に関与することによって「私」の中の他者への関心がより強められることにもなる。
ヒュームは、社会的共感の形成と表現しています。つまり、われわれの「限られた思いやり」( ヒュー厶的な利己心) が、他者とのコミュニケーションを通じて、社会的共感へと発展するというわけです。他方で、ヒュー厶は、われわれが他者と交流し、 コミュニケーションを行うことによって、 われわれのイマジネーションが広がり、われわれの思いやりが広がることも指摘しています。
ヒュー厶には、 リアリスティツクな視点と生成の視点がある。そしてこれは、健全な懐疑主義の特徴であり、モラルサイエンスの公共哲学の特徴
でもあります。
多神教では、有限な能力を持った不完全な神々、人問より少しだけ優越した力を持った神々が存在している。このような宗教においては、人間は神々と競おうとし、そこから人間の自発性や勇気、自由への愛といった精神が生まれてくる。これは、一神教の持つ体系性と閉鎖性という考え方に対して、多神教の有する多��性あるいは開放的競い合いという考え方を対比しようとするものです。そして、この体系性への信仰と、多元性あるいは開放的競い合いの価値とのバランスをどうとってゆくか、体系性と開放性をどう両立させてゆくかという問題は、現代における健全な懐疑主彊あるいはモラルサイエンスの公共哲学の関心に、そのままつながっています。
社会慣習や伝統というものは、いまここにあると同時に、いまの時代の社
会習慣や伝統は、明日の時代の社会習慣や伝統を形づくる素材であり、いわば出発点として生成変容しつつあります。社会習慣とか伝統というと固定的なものと考えられがちですが、それを責任倫理として、時代の流れのなかで絶えず変化し生成しつつあるものと考えるのです。
私の印象では、現代の公共哲学の様々な潮流のその源を探ると、まずカントとルソ〓 に行き着くようです。ハーバーマスやアーレントの公共哲学には、カント哲学の影肄が強く認められますし、共同体主義の公共哲学の背後には、しばしばその影響が否定されるにもかかわらず、ルソーの哲学が存在していると思います。
カントとルソーは、公共性の概念について対照的な考え方を示していますが、この二人には共通点があります。それは、彼らはいずれも、公共性概念の純粋性を主張したことです。この純粋性とは、「公共性が市場によって汚されてはならない」ということです。
彼らによれば、 公共性は利益ではなく、正しさなのです。そして、この公共性(正しさ) を生み出す意志は純粋でなければならないと考えたのです。この公共性を表現するものは、「法」というものです。「法」とは単なる法律ではありません。むしろ、法律を含む、人々が社会生活において守るべき正しい規範という意味です。
ルソーは、「われわれはなぜ法に従うのか」という問いに対して、「われわれは、法(祖国) を法(粗国) として純粋に愛するから、法に従うのであって、自分の特権や利益を守ってくれるからという理由で法に従うのではない」と主張しています。そして、ルソーのこのような論理は、いわゆる国民国家とナショナリズムの思想を生み出しました。
カントは、ルソーの一般意志の観念に強い影響を受けましたが、それをより普遍主義的に規定しました。カントにとって一般意志とは、国民の意志あるいは愛国心ではなく、より普遍的な世界市民の意志あるいは人権の理念です。それはつまり、「人権を尊重すべし」という意志であり、彼の有名な定言命法によって定式化されました。定言命法とは、条件つきの命令ではなく、無条件の命令です。これは、定言命法が夾雑物の入らない、純粋な意志に基づくものであることを示しています。「もし処罰されたくないならば、これこれをしなさい」とか、「もしこれこれが欲しいならば、これこれをしなさい」というような、条件つきの命令(これを仮言命法という) ではありません。それは、人間という存布そのものに由来する純粋な意志の表明である、とカントは考えていました。
ルソーとカントのこうした純粋主義は、公共性や法の規範的妥当性を厳密に根拠づけることを可能にしましたが、他方で、深刻な問題も生み出しました。ルソーの一般意志は、愛国心の純粋性を做訓するこ���によって偏狭なナショナリズムを生み出すことになりました。また、カントの人権の埋念は、そのあまりの理想主義によって、いわゆる啓蒙専制主義を招くことになりました。「君たちは興理を求めていくらでも議論しなさい。しかし、理想と現実は違うのだから、権威の決定には従いなさい」とうわけです。
アーレントのように、多梯性をまじめに組み込もうとした結果、純粋主後との矛盾が露わになって、制度論として破産してしまうか、あるいは、ハーバーマスやサンデルのように、純粋主義を維持しようとした結果、多様性はお題目だけのものとなり、理想主義や偏狭なナショナリズムの弊害を克服できずにいるか、そのどちらかであるように思います。多様性によって純粋性の毒を中和させようとするよりも、純粋主義そのものを捨てて、公共性(正しい「法」) の規範的妥当性を厳密に根拠づけることを断念して、むしろ多様な生活の必要性という観点から公共性(公共の利益) を捉え直すことのほうがより適切ではないか。私が、ヒュー厶の健全な懐疑主義に基づいて、モラルサイエンスの公共哲学を構想するのは、このように考えるからなのです。
民主主義と市場はいずれも、他者との持続的なコミュニケーションのための、相互理解のための、そして、相互不信を協カへと転換するための社会制度なのです。
シュンペーターによれば、民主主義とは、選挙による代表選出とその選ばれたエリ〓卜たちによる、 予算の分配、各種の規制、所得の再配分をめぐる競争ということになります。
シュンペータ〓とダールは、いずれも、選挙によって選ばれたエリートによる代表民主制が民主主義の合理的な姿であるという考え方に立っています。彼らは民主主義を、上からの公共性という視点から、つまり選挙という政治的競争によって選ばれたエリートの支配として、理解しているといえます。
両者の違いは、シュンペータ〓が自由社会の多様な価値観を、 資本主義と社会主義のイデオロギーの対立として理解していたのに対して、ダールはそれを、より多元的な仕方で理解する点にあります。
ダールによれば、代表民主制は多元的なシステムです。代表民主制は、多様な価値観のイデオロギー的な対立による無秩序を回避するだけでなく、国民の最大多数の最大幸福を実現するという点でも、合理的な政治制度であるということになります。こうして、現在に至るまで、「民主主義が政治的正当性を主張できる根拠は、選挙での勝利と選ばれた議貝による政党政治(という理由) である」という考え方が一般化するようになりました。
この功利主義の民主主義理論をより洗練させたのが、社会選択理論です。それによれば、代表民主制の合理性を論証するためには、民主的な選挙制度と選挙によって選出された代表による政策決定が、国民の最大多数の最大幸福を実現する仕組みであることを証明できればよいのです。
公共選択理論は、社会選択理論を基本的に受け入れつつ、適応的選好の問題やインテンシティの間題について、社会選択理論の適用領域を限定することによって解決しようとする考え方です。この考え方の代表としては、ジェームス・ブキャナンがいます。
熟議民主主義という用語法は、ー九八〇年代から用いられるようになり、
九〇年代後半に、ジョン・ロールズやユルゲン・ハーバーマスが論じるようになって、一般化しました。熟議民主主義は、二つの主要な要素から成り立っています。ひとつは、「正しい民主主義は市民による公共的な熟議から生じる」という考え力であり、もうひとつは「われわれの社会は合理的な多元主義によって成り立っている」というものです。
熟議民主主義といっても、必ずしも一枚岩ではなく、様々な立場があります。ここではそれを、立憲主義的熟議民主主義、批判的熟議民主主義、相互尊匝的熟議民主主義の三つの立場に分けて考えてみましょう。
まず、立憲主義的熟議民主主義は、熟議とアメリカ的な立憲主義との結びつきを強制する立場です。ジョン・ロールズなどがその代表です。
批判的熟議民主主義は、討議民主主義とも呼ばれますが、立憲主義の中での熟議というよりも、立憲主義に対する熟議を重視する立場です。つまり、アメリカ的な立憲主義休側に含まれる既得権や権力構造を討議し批判するのです。ユルゲン・ハーバーマスやジョン・ドライツェクなどが主張しています。
相互尊重的熟議民主主義は、エイミー・ガットマン とデニス・トンプソンの『民主主義と道徳的対立』などで主張されています。この立場は、上述した立憲主義的熟議民主主義や批判主義的熟議民主主義とは、次の二つの点で異なっています。ひとつは、熟議によってコンセンサスが得られるわけではないという考えであり、もうひとつは、熟議とは、理性的な討論だけでなく、感情に訴えるコミュニケーション術や威嚇などを伴う交渉術を使用することも含まれるという考え方です。
公共選択理論では、民主主義の(公共性を回復するための) 担い手は、学者と官僚であると考えられているように思います。参加民主主義理論では、民主主義の担い手は、依然として一般の大衆であると考えられています。
自由で価値が多様化した大衆社会における民主主義のあるべき姿を考えるときに大爭なことは、大衆社会における代表民主制を基本としつつ、 一般大衆の適応的選好ないし政治的無関心の問題とインテンシティの問題に対処するための仕組みを、民主主義の中に組み込む必要があるということです。
市場を正当化する理論は主に二つあって、ひとつは功利主義的ないし経済学的市場正当化論であり、もうひとつは自然権的市場正当化論です。
功利主義的市場正当化論は、特定の思想家や哲学者によって明確な形で述べられた思想ではありません。むしろ、アダム- スミスの「神の見えざる手」の比喩によって象徴される自由放任主義の経済思想を信奉する経済学者によって共有されている、ある種の信念であり、特に現在の経済政策において規制緩和や小さな政府が主張されるときに、その背後にある考え方です。
自然権的市場正当化論は、その思想的源として、十七世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックの自然権思想があります。ロックは、所有権を神が人間に与えた自然権であると主張しました。この思想を現代に再生させたのが、ロバート・ノージックです。彼は、『アナーキー・国家・ユートピア』において、ロックの思想を洗練させ、自然権的市場正当化論と最小国家論を唱えました。それは、自然権的リバタリアニズムとも呼ばれています。
反市場論のエッセンスは、「市場は貪欲であるから、放置すれば弱肉〓食の場と化し、社会の信頼と秩序を揺るがすことになる」というものです。もっともそれは、市場を否定して、それに変わる新たな経済システムを主張するものではありません。むしろ、社会主義経済体制の崩壊とグローバルーエコノミーの展開という現実の中で、市場を必要悪として認めつつ、市場を制限しようとするものです
この反市場論に含まれる単純化思考が、一見理論的な形になったものとして、普遍的商品化論と市場のドミノ効果論と呼ばれるものがあります。
普遍的商品化論とは、「市場を放置すれば、あらゆるモノが自由市場で商品化の対象となり、その結果、本来商品化されるべきでない、人間の臓器や幼児までもが商品化されるようになる。そうなれば、すべてが貨幣的価値のみに換算されるようになり、人間的要素が失われてしまう」という考え方です。
また、市場のドミノ効果論とは、「市場経済を放置しておくと、あたかもドミノ倒しのように、あらゆる生活関係に資本の論理が浸透し、われわれの道徳生活が破壊され、お金万能の世の中になってしまう」という考え方です。
市場平和論は、市場の単純化思考から脱却して、市場のバランス論を主張するものです。すなわち、市場の本質は、下からの公共性(市場倫理) と上からの公共性(上からの市場主義) の相補性ないしバランスによる秩序維持にあります。市場平和論によれば、市場とは、われわれの生活に含まれている多様な価値観や対立する諸力のぶっかり合いから生じる、むき出しの力の対決を回避して、それらの価値観や諸力の間の複雑で動態的なバランスをとることによって、 平和( 市場平和) を維持する仕組みなのです。
欧米の不寛容の歴史の特徴を一言で表現するとすれば、同化主義と排除(浄化) ということでしょう。これは、その極端な形では、戦前のナチスドイツのユダヤ人政策や最近の冷戦崩壊以後の東ヨーロッパにおける民族浄化の動きなどに現れています。もっと穏やかな形では、十九世紀以降ヨーロッパで成立した、国民国家における国語政策すなわち「ひとつの国民、ひとつの営語」という基本理念の下での、方言や少数言語の排除政策などにみることができます。そして、この同化主義と排除という不寛容の観念の歴史上の起源を、われわれは、近世のヨーロッパにおいて宗教改革の動きが出てきたときに、それに対する様々な反動が生じた十六世紀から十七世紀頃に、求めることができるように思われます。
バーリンによれば、寛容とは、自分の信念を保持し主張しながら、他者への偏見を抱きつつ、同時に他者という存在を承認するといった複雑な要素が入り混じった精神的態度です。自分の信念、他者への偏見、他者の承認という三つの心理の混合物なのです。
下世話な言い方をすれば、欧米の寛容の観念は頑固なのです。それは、差兆についての找烈な意識を含んでいます。その起源は、ひとつにはキリスト教という一神教の伝統における唯一神への絶対的な信仰であり、もうひとつは、特に近代以降の合理主義的な個人主義という考え方でしょう��それはよくいえば自律ということであり、悪くいえば容易には変わらない頑固さということです。寛容とは、差異とぶつかったときにその差異にどう対処するかということであり、かつそこまでで止まるのであり、その先の、差異をどう受け入れ、それによって他者とどう折り合いをつけ、自分がどう変わっていくかという問いは、それはもはや寛容論を越えたことであり、それは例えば、公正とかフェアなル〓 ルの問題なのです。
しかし、現代世界における欧米とイスラムのいわゆる一神教的な正義の対立の激化や南北間題の深刻さが、公正について深刻な疑念を生み出していること、そしてそこからテロリズムなどの梯々な不寛容が生じていることを考えると、寛容は他者性の認識であり、その先は公正やフェアなルールの問題であると主張することは、相互無関心と不寛容を再生産するだけになってしまうのではないか。このような疑念をぬぐうことはできません。むしろ寛容の観念をより積極的に、他者性の認識だけでなく、その先の、
協力と相互変容のプロセスを含むものとして考えることはできないのか。そう考えることができれば、現代世界に生じている他者性の認識と不寛容の悪循環を断ち切る糸口を見いだすことができるのではないかと思います。