紙の本
著者らしくて らしくない
2019/04/12 12:16
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投稿者:るう - この投稿者のレビュー一覧を見る
切り口はまさに橋本治。なのに全体的にどうもツメが甘いのが気になった。
これを連載していた頃はもう身体を悪くしていたのだと思うとあまり責められないが。
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ひさびさの橋本治。相変わらずのらりくらり話と話をつなげていきます。テーマは反知性主義について。BREXIT、トランプ大統領、フランス大統領選、そして東京の都民ファーストの会の大勝…世界中そこかしこに溢れ出る傾向を主義主張ではなくて「かつて持っていた自分の優越を崩されたことによる不機嫌さ」という「気分」なのである、と指摘します。戦後昭和平成21世紀の時の流れに著者自身の実感を重ね合わせつつ思いつくままに話題を飛躍させながら、でも極めて誠実に論を積み上げてその気分を捕まえようとする試みが本書です。とても平明なのにかなり難解な本で「いま起こっていることはそういうことなんだろうな…」というやっぱり気分が残る感じ。このモヤモヤ感が橋本節だったような…
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ヤンキー 経験値だけで物事を判断する人たち
大学出 経験値を用いずに、すべてを知識だけで判断する人
反ロ のヘイトスピーチはまず聞かないのはなぜ
ロシアのことをよく知らなくて、悪口の言いようがないから
トランプ支持者の危機感3つ
国内での産業、とくに製造業の不振と、そこで働くべき白人労働者の窮乏。国内でのテロの恐怖。不法移民の増加とそれに伴う白人層の没落
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反知性をヤンキーのくくりで考えると、なるほど比較的すっきりくる訳ですね。作者があとがきで書いているように、論旨があちこちに飛んでいくから、なかなか捉えどころのないように感じつつ読み進めていたけど、なるほど最後2章くらいで、だいぶ理解がまとまりました。読みながら思い浮かんだのは”ぼくらの民主主義~”で、共通している部分としては、小さい声にも耳を澄ませようよ、ってこと。ヘイトスピーチに限らず、どうしても幅を効かせがちなのは大きな声なんだけど、自分の知性不足を思い知らされて腹が立つから、声も大きくなるんですね。でもそもそも知性がなければ発言は控えるべきなんですね。せめて無知の知くらいが備わっていれば、もう少し品性のある発現が増えるかもしれないですね。そんなことをつらつら考えてました。
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学生のころ「桃尻娘」は楽しく読んだのだけれど、著者のことをあまり知的な人とは思えなくて(見た目も含めて)、その後は読まないでいた。ところが、先日、橋爪先生との対談の「だめだし日本語論」の前書きを読むと、橋本治を評して「ああいうヌーボーとした外見だが、知の巨人である。いま世間で認識されているより、ずっとずっと巨大なサイズの仕事をしている。前人未踏と言ってよい。このことをまず、読者は認識し、橋本さんの仕事に敬意を持たなければならない。」とまで言っているのだ。橋爪大三郎先生のことを私は信頼している。その信頼している先生が信頼している人ならば信頼してよいだろう。よって、これは読まなければならない。と思っているところに、本書の、広告だか、書評だかで、「自分の頭で考えたいことを考えるためにするのが勉強だ」という表現に出会った。これは私が常々考えていたことではないか。読まなければならない。で、著者自らがあとがきでも述べているが、わかりにくい。素直な一本線が用意されていない。ヤンキーに読ますはずではなかったのか。いや、それもよく分からない。しかし、ものごとの考え方の大事なことがあちこちにちりばめられているようには感じた。イギリスのEU離脱とかトランプ大統領に対する見方のヒントが得られた。知性がなくなって、モラルがなくなって、品がなくなって・・・うーん、これからどうなっていくんだろう。
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橋本治氏の俯瞰した社会を見つめ、語る文体が心地よいです。彼の生き方自体もマイノリティ側にあるのだろう。身構えずに、その語りに素直に心を傾けることができる。そして、何よりも分かりやすい。至極まっとうなことを言っているのに、あまり社会の中では触れることのない視点からの世の中の姿を言葉で映し出してくれる。
本のタイトルの『知性の転覆』の「知性」という言葉が実際の社会の中でどのように存在しているかを分かりやすく描いた初まりの「ヤンキーの定義」の箇所を引用します。
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ヤンキーの定義「自分の経験した事だけ」で、その範囲を超えたものは「よく分からない」という判断保留の状態になり、知識を得ることによって自分の判断基準を広げるということをしない。なぜしないかと言えば、それをする必要を感じないからである。
その反対に「経験値を用いずに、全てを知識だけでジャッジする人」で、「経験値に用いる」ことをしないのは、そもそも「経験値」に値するようなものを持ち合わせていないからなのか、あるいは「自分の経験値」を知識に変換する習慣を持たないのかの、どちらかだろう。
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別に「知性とは何か」を説明しようとして語った言葉ではないけれども、「知性」という存在が「ヤンキー」と「オタク」のあいだをフワフワと浮かんでいる情景が想像できて、「知性」という存在を目にしたように感じられた。
このような世の中を観る視点やそれを伝える言葉を感じるだけでも凄く楽しい読書になります。
おそらく、この本を読み終えたころには、その幾つかは自分のなかにも芽を出し始めているかもしれない。
せっかくだから、私が線を引いた幾つかを紹介します。
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*「不良」というものにはあまり知性がない。だから、平気で「社会から逸脱する」ができてしまうのだが、ということは、知性とは「人が社会から逸脱しないように繋ぎとめておく力」であったりもする。知性の持つそういう一面は、今となっては忘れられたにも等しい状態になって入るけれど、かつて知性はモラルと重なる言葉でもあった。
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*「自分の頭で納得できるような考え方をしてもいいのだ」ということに出会った人間は、こういう風な爆発をする。
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近代教育を受けた人間は、ことの必然として「自我」というものを持ってしまった。中央集権体制では、「自我」というものは上の方にいる人間だけが持っていればいいものである。しかし、地の中央集権体制が生み出した。
教育は、末端まで「自我」をら教え込んでしまった。
崩れた知の中央集権体制は、小さくなって各自の中に収まってしまった。「自我」というのは、「中央集権体制的に自分を操ろうとする主体」なのだ。
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☆EUの建前としての均一は、時として一部に対して「つらい義務」になる。
初めは「一つの大きな経済圏を作って金儲けをする」というはずだったが、「それほど豊かでない国」を仲間に入れて大きくなっていくうちに、EUは「困った国を助ける互助会」のような性質をら持ってしまう。
支援を受ける側は、��援と引き換えに、望んでもいない「自分達のあり方」とは違う(みんなのあり方」を受け入れる。支援をする側は、「自分のあり方」とは直接に関係ない「みんなのあり方」をら守るために金を出す。「みんなのあり方」な「みんなのあり方」であって、それに関わるどの国の「あり方」とも、直接には関係がない。
どうして話がこんな風にすれ違ってグルグル回りするのかと言えば、それは「自分もその一員である“みんな”のあり方を維持することは、一時的に自分の損にはなっても、結局は自分にとっての得となって返ってくる」(情けは人のためならず)の単純な理解が欠けているからだ。
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「自分達とは直接関係のないものに目を向けて、それに関してなんらかの意思表明をする」というのは、人間の知性のなせる技だが、だからと言ってそれができない人間を「知性がない」とは言えない。
それは「知性がない」ではなくて、「知識がない」というだけで、そういう状況が存在するということを知らなかったら、「そこに目を向ける」ということは起こらない。自分の経験値だけでその外側にある「知識」というものを持たなかったら、世界は自分が「知っている」と思える手探りの範囲内にしか存在せず、その外側は「何も無い暗黒」と同じだ。
愚かなのはイギリス国民がEUからの離脱を選択したことではなくて、「離脱に賛成」の票を入れた後で、「ところでEUって何に?」と言ってしまう国民がいるということだ。(自分がどういうシステムの上に乗っかっているのかを理解していないーーそういう知識を持たない人間をそのままにして、彼等に決断を委ねてしまうということだ。
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★アニー・サリヴァンのモノローグ
『言葉さえあれば、人間は暗闇から抜け出せる』『言葉の光に照らせば五千年の昔を見ることも出来る』
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「労働者のあり方」という観点からしたら、近代工業社会は、生まれ続ける失業者をすくい上げるために「新しい産業」を作ってきたという面もある。つまり、労働者の安定が帝国主義の発展を支えてきたという一面もあるけれど、でもその「発展の形態」は飽和状態に来た。
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★★人が「需要」と考えるものは往々にして「欲望」のことで、「人の欲望が無限である以上、需要もまた無限に存在して、であればこそ“物”を作り出す産業も不滅だ」と考えられていた。それは、実は、「物が足りなくて困ることがある」という「それ以前の時代」の考え方で、「物が余ってしまう未来」のことを頭に置いていない。だから、「人の需要は無限に存在し続けて、マーケットもまた無限に近く続いて広大だ」ということが、うっかり信じられてしまう。
産業は、「需要」と向かい合うもので、「飢餓」とは向かい合わない。「無限の需要」を習慣的に夢見てしまう産業は、知らない間に「物が余ってしまう社会」を作り出してしまう。
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また、いつか橋本治氏の本を読みに戻ってくる。それまでは、より多くの人の視点から世の中を観る旅をしてこよう。そうしたらまた違った橋本治氏の魅力を感じられることだろう。
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かなり偏ったイデオロギーのうえにトピックが乱立しているといったイメージ。たまにeye openingなポイントがないわけではないのだが、本としてどうなのという点はある。
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橋本治は妄想家なんじゃないか。話がどんどん飛んでくからどこに着地するかわからない。曰く、「ヤンキーとは、経験値だけで物事を判断する人たち。その真逆は、経験値を用いずに、すべてを知識だけでジャッジする人。・・・そういう人達を何て呼ぶかというと、ヤンキーの反対というようなことで、大学出とでもいうのだろう。」いるねぇ、そういう奴。
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とても大事なことが書かれている一冊である。
一読では消化できないので、メモとする。
日本の伝統芸能では自分を「消す」ものなのに対し、SNS時代の自分とはまず「出す」ものであるという変化。この変化が石原慎太郎の太陽の季節による「肉体=性欲の肯定」あたりにあるという話を見ると、今の後期高齢者の「マッチョな思想」が見えてくる。一方で、アプレゲール以前の近代日本文学は「自己主張できない」という現実を前にした苦悶を描いた。
みんなが自己主張する時代に、自分のあり方が揺らいでしまうと、人は不機嫌になる。上昇志向はないが、優越性が「崩される」と考える。中流こそが差別を生む。自己主張を肯定する共和制はエゴイズムでできていて、自分より偉い奴を認めない社会では知性は何の役も立たない。
福沢諭吉は、自由という名の自分勝手が他人に悪影響を及ぼすことを罪だと考えた。つまり、知性とモラルは同居していた。しかし、知性と共存していたモラルを捨ててしまった日本人は下品になった。
モラルとは、本来人の内側に湧き出るものであるはずなのに、上から押し付けられると解釈される。自己主張=自由が具体化するのは、欲望であり、欲望を包む皮がモラルである。
江戸時代は、「下品にならない自己主張」という表現方法を模索していた。つまりは、粋、イナセ、風刺である。落語、川柳、漫才だってそうだろう。知性がモラルと乖離してしまうと、自己主張は他者を失う。
「知性とはヘレンケラーに言葉の光を与えるアニーサリヴァンのようなものである」
「主義とは方向性を持ったベクトルのような力」で、中心に向かおうとする求心力である。しかし、その中心に神はなく、あるのは空洞である。中心に自分を据えようとする思考は自己完結して破綻する。この現代で、知性とは複数の問題の整合性を考えるもので、でも現代重要視されるのは、「決断力」や「行動力」という名の「思考停止」で、グダグダ考え続ける持久力は、せっかちなじれったさの前では「なにもしない」「行動しない」と言われるだけ。
反知性主義を生み出す土壌は、「均質なみんな」のことだけ考えて「個人の不幸」を考えず、他人を排除している自覚を持たない「幸福な知性」である。
そして、問題の元凶は、問題の当事者が「反省しないこと」である。
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橋本氏の主張は気になるのですが,今回は少しわかりずらかった.話の論点があちこちしたので,雑談しているような感じ.自己主張が下品であるあたり,面白く読んだ.
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本物の知性について、深く検討するものとみました。わかりやすく説いているようにみえて、さすがに深いですね。
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もうこうなると哲学書のようだ。しかもかなり難解の。
反知性主義が蔓延する理由を緻密な構成で考察しているのだが、正直よく理解できない。自分にはそんなに難しい話でなくて、経済成長による中流化で従来存在感のなかった大衆が『ヤンキー』に成り上がり、さらにネットの出現で彼らが自己主張を始めて目立つようになっただけではないのか?
橋本治風に言うと最後まで「よくわからない」だったので、自分としては異例なことに3回繰り返し読んでみた。そうしたら上記の事がちゃんとそう書いてありました。
3回も読むと一つの概念が形を変えて重層的に示されていることに気付くが、極めて複雑な立体図形を分解して「こういう構造になっていたのか」と驚く感覚。なんか、深すぎるね。
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https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=19046
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うーん、分かったような分からなかったような。
というのは、話の核である反知性主義というものの共通の理解が前提にあり、そこにズレがあると理解が難しくなるのではないか。とはいえ、著者の言わんとしていることもなんとなく分かる。イデオロギーなどを言葉で全て説明するのが難しいことと同じだろう。
日本人がバカになってしまったとは思う。
それを感じるのは、今まではなかったモヤモヤだと思う。
何か違うぞという。
私の場合、それは自分の頭で考えなくなったことではないかと思う。
と、本書とはかけ離れているかもしれないが、私自身の考えが整理できたという点では、とても良かった。
内容は複雑で深奥であるが、文章は非常に読みやすかった。
もう少し落ち着いて読んだら、もっと理解できるかもしれない。(橋本氏の著書は私の場合1回で理解できると思ってはいけないのかもしれない)
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橋本治さんの本は、一つ一つの文章が、なるほどね〜 そうだよね〜 という気持ちのよい納得感を持っていて、この本もあーあ!という暗めの現状を論じている本なのですが、読んでいてとても「快い」感があり、同時に自分ももう少しがんばろうと励まされました。