- カテゴリ:一般
- 発売日:2018/07/26
- 出版社: フィルムアート社
- サイズ:19cm/303p
- 利用対象:一般
- ISBN:978-4-8459-1704-4
読割 50
紙の本
眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』
著者 福尾 匠 (著)
映画とは何かを考え抜いたジル・ドゥルーズの伝説的著作「シネマ」のロジックを一歩一歩解きほぐす入門的解説書。「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐる一冊。【「TRC MA...
眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』
眼がスクリーンになるとき
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商品説明
映画とは何かを考え抜いたジル・ドゥルーズの伝説的著作「シネマ」のロジックを一歩一歩解きほぐす入門的解説書。「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐる一冊。【「TRC MARC」の商品解説】
ついに、『シネマ』がわかる!
思想界に颯爽と現れた26歳の新鋭、衝撃のデビュー作!
「たんに見る」ことの難しさと創造性をめぐって書かれた画期的なドゥルーズ『シネマ』入門。
本書は、「見る」ことと「読む」ことの復権を同時に実現する。
20世紀最大の哲学者、ジル・ドゥルーズが著した芸術と哲学をめぐる二巻本『シネマ』。
本書は、『シネマ』にとって、映画は哲学の「フッテージ(footage)」、つまり「思考の素材=足場」であると捉えなおすことから議論を開始する。
その映画というフッテージに、もうひとりの重要な哲学者となるアンリ・ベルクソンの哲学が流しこまれる。そのとき映画はイメージ=映像による〈思考〉の実践として立ち現れてくるのだ。
『シネマ』と映画の関係、ドゥルーズとベルクソンの関係というふたつの問いは、哲学にとって「見る」ことと「読む」ことがいかにして概念の創造へと導かれるかということを指し示している。
映画という特殊な経験のシステムから立ちあがる、イメージがそれ以上でもそれ以下でもなく見たままで現れる地平、「眼がスクリーンになるとき」とはどのようなことか。
そのとき観客である私たちはどんな存在へと生成するのか。
また、「私は素朴な観客です」というドゥルーズの言葉どおり、「見たまま」を肯定する態度は、ドゥルーズの哲学の創造性とどのようなつながりがあるのだろうか。
映画から哲学へ、哲学から映画へ、まっすぐに『シネマ』の核心へとスリリングに論じぬく、新鋭のデビュー作 !【商品解説】
目次
- はじめに
- 第一章 映画と哲学、ベルクソンとドゥルーズ
- 1-1 『シネマ』と映画
- 1-2 ベルクソンにおけるイメージと運動
- 1-3 ベルクソンの「映画的錯覚」批判とベルクソニズムによるその解決
- 第二章 運動イメージ――感覚-運動的に思考する映画
- 2-1 運動イメージの分化――宇宙の構築
- 2-2 運動イメージの種別化――主観性の物質的アスペクト
著者紹介
福尾 匠
- 略歴
- 〈福尾匠〉1992年生まれ。日本学術振興会特別研究員。
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