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投稿者:きりん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ほんとうに、急に具合が悪くなる」のですから、最後のお別れを言うチャンスもなかったりします。身内に病人がいると身につまされます。
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▼人の心を震わせる研究とは、他者のニーズを満たすそれでは決してありません。人生をかけて集められた資料たちが、その研究者の人生の軌跡の中で奇妙な発火を起こし、他の人が考えたこともないような世界を展開する。その時、人は目の前のニーズを捨てて、その世界に飛び込みます。世界はこんな風に見えたのか。自分はこんな世界に住んでいたのかと、自分と世界の位置付けを考え直します。私にとっての美しい研究とは、それが有名なジャーナルに載ったかどうかではなく、その研究がそのような世界を見せているかどうかです。(p.169、8便「エースの仕事」TO:宮野真生子さま 2019年6月12日 磯野真穂)
(2019年11月26日一読、11月30日再読)
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読書は格闘技 という本がある。故瀧本哲史氏が記した、二つの本を読み込んでそれぞれの特徴を並び立たせることで、本同士が、そして読者と著者が戦うことがいかに有意義か説く名作。
急に具合が悪くなる は言葉を扱うことを生業にする哲学者と人類学者が、哲学者の体を蝕むガンをテーマに、往復書簡を通して言葉によるガチの闘いを繰り広げている。
闘いというのは誇張でもなんでもない。それは相手を傷つけるためでない。自らを征服しようとする死の実感や、病人を取り巻く病人然とすることを良しとさせる社会の風潮に抗う、自らの人生を肯定しようとするための共同戦線である。
序盤は客観的、他人事にも思えるような書き振りだったのが、徐々に病状の重さが逃れようのないものになっていくことが手に取るようにわかる。読み進めるのは辛いが、離れた場所にいる2人が手を取り合いながら必死で抗う様は、とても爽やかで新鮮だ。似ているようで少し違う性格の2人の掛け合いが微笑ましく、時にそのギャップが痛々しくもある
。
往復書簡という形はあまり好きではなかったのだが、こんなにも真剣に言葉を紡いでいるのが手に取るようにわかる本はこれまでなかった。
文字から立ち上がってくる生き様に感動させられること必須。
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注目の一冊朝日デジタル記事で注目!
もし明日、急に重い病気になったらー。見えない未来に立ち向かうすべての人に。
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自然科学と社会科学の融合がこの本に見える。難しいことはなく、家族に癌の方がいる人は読んでおくべきと思う。
火の鳥を初めて読んだ感じと同じ。
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この本の概要を見て、単純に興味を持った。
読んでみて驚いた。
凄かった。ただ凄い。
終始、哲学者・宮野真生子さんのパワーに圧倒される。癌を患い思うようにいかない体を抱えながらそれでも本を執筆したり講演に出かけたり、自分のやりたいことを諦めない。
そんな宮野さんと手紙のやりとりをするのは人類学者・磯野真穂さん。
宮野さんの話を自然に引き出し、豊富な知識量で「こういう文献があって、今の状態はこれで説明すると分かりやすいよ」と会話を膨らませてくれる。
主な内容は、病を宣告されると起こる「正しく選択する」事へのプレッシャー。
「お大事に」という定型分が使えない重苦しさ。そんな中で、病者とどんな関係を築いていくべきなのか。などなど。
ただ、私には内容が難しく、もちろん一度読んだだけでは到底理解できず、何度も読み直し付箋を貼ったところをノートに書き出してやっと話の輪郭が見えてきた。
本の内容がほぼ「二人の間だけで交わされた手紙」であることに驚く。病を抱えた人とその周囲の人との間に起こる色々な出来事・感情をリアルに、見事に説明している。
宮野さんの強さをよく表している、と感じる一文を引用。
【癌になった不運に怒りつつ、何とかその不運から自分の人生を取り返し、形作ろうともがいている/
しかし分からないものと対峙するのはしんどいし、怒り続けることも難しい/
でも、分かる必要などないのです。分からなさの前で、自分を取り返すために私達は問わねばならない。これは何なのだ、と。
分からないことに怒り、それを問う力を、自分の人生を取り返す強さを、哲学は私に与えてくれたのです。】
普通は癌になった時点で絶望して諦めて、100%患者モードで治療された方が楽に決まってる。
その楽な運命に抗い続ける強さ。
【死は間違いなく来ている】と感じる毎日の中で、その強さを保ち続けることがどれだけ難しいか。
真に生きると書いて真生子さん。
これほど名前を体現している人はいないんじゃないか。
この先私にも起こるであろう様々な事。
自分の死期は分かるかもしれないし、分からないかもしれない。
どっちになったとしても、最期まで自分を貫けるような大好きな事に出会いたい。
そして自分がここにいた、という踏み跡を一個でも世に残したい。
そんな風に強く思いました。
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データ分析関連の知り合いが、分析する人は読んでいたほうがいい、とおすすめしていた本。
人類学者と、がんを患った哲学者の書簡のやりとりを書籍化したもの。
がんになることで生活の選択肢が狭められ、それによりどういった行動・治療法がどれくらいの確立で病状を悪くするのかを医師から語られ、どう選択していくのかその悩む過程も描いている。
分析する側だと、統計的に無慈悲に数字を表すことができるけど、個人レベルの視点に立つと選べる選択肢は1つしかないし、確率を気にし始めると人生の幅も狭められてしまう。
治療に合理的な人生が、求めるべき人生なのか。。。
実際にそういった状況にならないと、差し迫った意識として理解はできないかもしれないけれど、気持ちを少しでも理解できたような気がした。
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分岐ルートのいずれかを選ぶとは、一本の道を選ぶことではなく、新しく無数に開かれた可能性の全体に入ってゆくことなのです。可能性とは、ルートは分岐しつつ、そのさきがわかった一本道などではなく、つねに、動的に変化していく全体でしかないのではないでしょうか。p30
その物語に従うということは、自分の存在を「患者」という役割で固定することにもつながっているんじゃないでしょうか。そのとき、人は自分の人生を手放すことになります。不幸が生まれるのはこの瞬間なんじゃないでしょうか。なんだかとても皮肉なことだけど、不運という理不尽を受け入れた先で自分の人生が固定されていくとき、不幸という物語が始まるような気がするのです。p116
「受取勘定をどれほど遠い未来に延ばし得るか」と三木は言います。死に運命付けられ、消滅するだけの点であっても、世界に産み落とされた以上、その受取勘定を、自分を超えた先の未来に託すことができる。
一人の打算ではなく、多くの点たちが降り立つ世界を想像し、遠い未来を思いやること、そのとき、私たちは初めてこの世界に参加し、ラインを引き、生きていくことができるのではないでしょうか。p200
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20通の往復書簡を交わす、二人の学者。
ひとりは乳がんの多発転移を抱えた哲学者。
そしてもうひとりは、文化人類学者。
往復書簡を提案したのは、哲学者。
そして、哲学者から考察を引きずり出し続ける人類学者。
初めの頃の手紙は、まだ死について一定の距離を置いた状態で始まる。しかし、手紙がやり取りされる期間の中で、哲学者は急に具合が悪くなる。
そして、20.通の書簡のやり取りがなされ、最後に哲学者が本書の「はじめに」を書いた数日後、哲学者はその生を終える。
死が可能性ではなく、確実な、かつ、かなり近い出来事、運命として。選択肢ではなく運命として目の前に提示された時に、人は何を考え、そして何を伝えようとするのか?
しかもその当事者が、普段から普通の人より余計にものを考え、そしてそれを伝えようとすることのプロである哲学者であることに、私は非常に大きな興味を持った。
それは、死を考えるにあたって、大きなヒントになるのではないかと考えた。
ここまでは、本書を紹介してくれた書簡の一人の当事者である磯野真穂氏がラジオで語ったことから考えた、本書を手に取った理由。
そして、実際に手に取った本書。
とても明るく、楽しい。そして真剣な言葉を通じた二人のやりとり。
本書の内容について、私の薄っぺらい感想を書きたくはないと思った。しかし、二人の書簡を読み進めていって、何故か涙が流れ出すのを止められないような記述が、私にはありました。
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本書を私は二度繰り返して読んだ。
一度読了した直後に、また最初のページに戻り、結末に何が起きるか知っている状態で、読み直した。
それは、おそらく本往復書簡の当事者たちが、経験したプロセス。
読み直した時に、書簡が書かれたときに意図された言葉を超える意味があったことに気がつく。
そんな気がした。
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愛の本より、愛の本だし、友情の本より友情の本だし、哲学の本より、哲学の本だ。
言葉を通じて、知性というものが、人生にもたらす素朴で深くて美しい意味を持つことを教えてくれる。
堅苦しい学問の壁を軽々と超えて、出会い、ほとばしる。
誰かと出会い、誰かと生きるって、最高だな。
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情報と、メリットデメリットの計算、尊重される「意思」の渦の中で意思決定のしんどさ、めんどくささが浮き彫りになり最終的には誰かに決めてほしいから粗雑な運命論を選ぶ、といったような話があった。医療の分野のみならず人生設計、日々の生活全てに言えるのではないか。例えば、現在20代の自分がリタイアするときに世界がどうなってるかわかりっこなくて、年金もらえないと脅されたとてじゃあどうすればいいのか?年金に頼らず生きていけるようにと散々言われるが正しい情報を選びとろうとすることにもう疲れてしまった。思考停止の結果、心を削りながら年老いてからの生活費を蓄えるなら今の人生を本当の意味でキラキラと豊かにする方向に向かうことになった。同年代でそういう考え方の人はとても多いと思う。お酒離れとか車離れとかそういったものは全て、本当に自分の好きなものやしたいことを見つめ直した結果なんだと思う。
また防犯においての考え方でも同様のことが言える。若い女性を取り巻く日々の危険さにおいて、結局どこまでやるのかということがある。極限まで考えを突き詰めると一番安全なのは家に引きこもることだが、しかしそれでも完全に防ぐことは出来ないのではないか。何か事件に巻き込まれれば落ち度を指摘されるような世の中において、ましてや、日常生活を営みながら防犯をしていく中では本の中にあった「選ぶ」ではなく「馴染む」という身体感覚が大事なのではないかと思った。自分の中でこの感覚のことを納得感と呼んでいるが、人生設計しかり防犯しかり何かあったとき、それが不幸な展開だったときに自分の人生を「引き受ける」ためにあれやこれや考え実践し納得感を持つしかないのではないか。いつも完璧に判断していれば100%の人生が送れる、なんて誰も信じていないはずなのに人間は理性的に「選べる」と思っている人が結果論として間違った選択をした人を批判し、理性的であることを強要する。怖い。そういった人々の思考の最終地点として「終活」ブームがあるのではないか。どれだけ理性的に考えてもアクシデント、不遇、理不尽は襲ってくる。それを引き受けられる人間が本当の意味で強い人間なのではないか。プロレスラーの中西学の引退セレモニーの際に、中西学を「全て引き受けてきた」と表現した解説者がいたが、彼の強さと優しさはそこからくるのではないかと思った。
がん患者は患者フェーズと日常フェーズを行き来するが、自分の人生を引き受ける人間は出来るだけ日常フェーズでいたいと思うのではないかな?と想像した。しかし、おそらく多くの健康な人はがん患者を「患者」レッテルを貼り(まあ、そうなんだけど)無自覚にがん患者の行動を抑圧するような働きをしてしまうのではないか?その抑圧の抵抗として、時には「患者」として不適切な行動(コロナウイルスが流行っているのに宴会に出かける、など)をするのではないかと感じた。自分も日常生活において何かしらの被害者になる可能性の高い人間として「弱者」レッテルを貼られ、常に「弱者」として正しい行動(夜道を一人で出歩かない、信頼できない他人に個人情報を伝えない、など)を求められてそれに疲れてしまっていた今だったのでとても共感できるポイントだった。「患者」レッテルも「弱者」レッテルも一見すると気遣いと優しさに溢れた言動に思えるのだが、実際は個々の人間の感じ方や意思を全く尊重しないものだと思う。自分も他人へ不必要なレッテル貼りをしないように注意しないといけない。
健康な人と病気の人の関わりの中で、「何も知らない自分が、」という遠慮や失敗する恐怖の中で、専門職側から「正しい対応」が掲示されるがそもそも専門職と病気の人の知人の健康な人ではゴールが違うため、同じやり方を取ると健康な人が身動きが取れなくなる、という指摘があった。専門職からの掲示をありがたがるところも理性的選択絶対主義が垣間見えるように思える。
癌になった父を理解したくてこの本を読んだが、結局のところ癌の父と今のところ癌ではない自分は遠く離れているわけではなく、「急に具合が悪くなる」というように自分だって急に具合が悪くなる可能性を孕む存在だったということを突きつけられた。また、半ば無意識的に考えていた自分の体質?持病?のことについて言語化出来ていなかった悩みがクリアになった。
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医者からホスピスを探すように言われた哲学者と、その哲学者に思索の伴走者として選ばれた人類学者の往復書簡。
お二人の文章のスピード感がまったく違うのが面白い。磯野さんの豪速球、宮野さんの穏やかさ。
一般的な死生観から始まり、宮野さんの病状の悪化により緊張感と親密さが増す後半の読み応えたるや。こんなふうに言葉が紡がれる「現場」を目撃できるなんてすごいことだ。
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互いに真摯にあろうとすれば、人間って短期間でもこんなふうに深く濃く関わりあえるんだと思った。
死を前にしてもなお学問しようとする人の探究心や野心、勇気にうたれた。
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“結局、私たちはそこに現れた偶然を出来上がった「事柄」のように選択することなどできません。では、何が選べるのか。この先不確定に動く自分のどんな人生であれば引き受けられるのか、どんな自分なら許せるのか、それを問うことしかできません。そのなかで、選ぶのです。選ぶとは、「それはあなたが決めたことだから」ではなく、「選び、決めたこと」の先で「自分」という存在が産まれてくる、そんな行為だと言えるでしょう。”(p.229)
“約束とは、そうした死の可能性や無責任さを含んだうえで、本来取れるはずのない「決定的態度」を「それでも」取ろうとすることであり、こうした無謀な冒険、賭けを目の前の相手に対して、「今」表明することに意味があるのだろうと。
あなたがいるからこそ、いつ死ぬかわからないわたしは、約束という賭けをおこない、そのわからない実現に向けて冒険をしてゆく。「今」の決断こそ「約束」の要点なのだろうと。だとしたら、信頼とは未来に向けてのものである以上に、今の目の前のあなたへの信であると言えそうです。”(p.164)
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読み始めた時はまさか 読み進めるうちに涙が溢れてダラダラと止まらなくなるとは まさか思わなかった。
大昔、哲学のゼミに入っていたので、二人の禅問答のような書簡を 私もこういう風に思考をこねくり回し、仲間と議論した事があると懐かしく思い出し、楽しく読んでいたのだが、いつの間にかお二人の人間性と「ない事もあり得た、にもかかわらず」深く繋がった関係性にどっぷりと漬かり愛おしく、終わりに近づく書簡が悲しくて切なくてどうしようもなくなってしまった。
陳腐な悲しい作り物のお話ではない、
美しい本当の物語だ。
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偶然を生きるとはどういうことか
読み終わってふと思い出したのは「からくりサーカス」のセリフ
「おとなしくかっこつけてあきらめんな、あがいてあがいてダメだったらそん時ゃ… にっこり、笑うしかねえけどよ。 」