紙の本
自身に対する損失であることに気付いていない。
2020/11/23 23:02
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投稿者:FA - この投稿者のレビュー一覧を見る
朝日新聞社の創業家の重荷を一人で背負って生きてきた村山美知子氏の評伝。
創業家の実力を必要以上に感じて怯え、大げさに対応してしまう。その結果、「お家騒動」とみなされ、他者から奇怪なものとして見られている。それが、自身に対する損失であることに気付いていない。自分たちの世界の中で完結してしまっている。しかし、朝日新聞は社会の公器であるべき報道機関である。
社業に対して大きな貢献のある創業家に対しての無礼がそのまま社員に影響が出るだろうに。創業家にやさしくないのに、社員にやさしいわけはないだろうと普通に考えればわかりそうなものだ。
なにか、この姿勢は、日本社会に対する同社の姿勢を表現しているようで怖い。
紙の本
新聞には書けない
2020/07/02 09:35
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
大株主のもとに秘書として送り込まれた記者が、スパイのように思えてきます。迫真のドキュメントであり、創業者一族と経営陣との決着が圧巻です。
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他の企業ではあまり聞かないけれど、新聞社では経営者とは別に社主という存在を耳にします。海外では、ワシントンポストではジェフ・ベソスがその役を担うようになってから猛然とデジタル化を推進しているし、ニューヨークタイムスでは創業一族のA.G.サルツバーカーに代替わりしてから、同様にDXが進んでいます。やっぱオーナーって絶大な権力を持っているのでしょう。当たり前か…でもわが国、朝日新聞の社主にとっては、そう当たり前のことではなかったようです。今年3月3日になった村山美知子社主がいかにして「最後の社主」になってしまったか、という記録です。朝日新聞の経営陣から、お世話係という名目で村山家の内情を探るために送り込まれた朝日新聞社員による本です。これから秘封されるであろう、いかにして経営が社主の権力を無力化していったかという記録を後世に残さねば、という強い想いで満ち満ちています。まるでスパイがスパイ対象に「恋」をした、といった物語にも読めます。そう、創業者村山龍平の孫として、膨大な遺産を受け継ぎながら現業には携われず、音楽文化のパトロンとして生きてきた本物のお嬢様に、著者は寄り添っています。すなわち朝日新聞に対する批判となっていて、たぶんこの本、朝日の書評に乗ることないんだろうなぁ。彼女がプロデュースした大阪フェスティバルホールが日本のクラシック音楽界にとって、いかに大きな存在だったかも初めてしりました。没落していく貴族の物語みたい。ビスコンティの映画を思い出しました。それにしても新聞というメディアビジネスって、いかに富を蓄積したか、ということにも、それが今、風前のともしびかもしてないってことにも、しみじみします。以前読んだ、「二重らせん」の禍々しさとシンクロしつつ、全く正反対の豊饒たる落日の歌。
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朝日新聞には2人の創業者があり、かねてから株式の多くを創業家の一族が保有していたという。しかし、経営側からすればそのような図式は面白いわけがない。様々な軋轢の中で、”翁”と称される創業者の片割れ、村山龍平の孫にあたり第3代目の社主となった村山美知子はついに株式の譲渡を決める。
本書は長年、朝日新聞の秘書役として彼女に仕えた著者により、彼女の半生と朝日新聞側が彼女から株式を譲り受けるためにどのような暗闘を仕掛けたかをまとめたノンフィクションである。我々が良く知る新聞社の経営の裏側にそもそもこのような事実があったということ自体、全く知らなかったし、村山社主が大阪フェスティバルホールの創設やクラシック音楽への寵愛を通じて小澤征爾、佐渡裕などの活躍にも寄与していたという話など、面白いエピソードばかり。
一般化すればもちろん、”資本と経営の分離”というガバナンスを一つの会社の内紛劇としても読める点で、非常に読み物として優れた一冊だった。
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よくぞここまで赤裸々に書き連ねたものだと感嘆した。
朝日新聞の歴代経営陣を実名を挙げて批判しているが、
おそらく躊躇う気持ちもあったであろうに、
そこはボカさずに、ストレートに書いている。
肝心の、最後の社主が保有していた株がどこにゆくのかが気がかりだが、
それは朝日新聞が心配すべき話であり、私には関係ないと思い直した。
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はじめは華麗なる一族の華やかな暮らしで始まったのだが、終盤はほとんどホラー。もちろん、オーナー一族からサラリーマン社長に経営が移っていく過程では、どの会社も多かれ少なかれ同様の過程を経るものだ。本書の場合、プロ中のプロである一級のジャーナリストがそばにいたことで、その裏側が克明に描かれている。
エピソードも満載で、現役時代は強面で知られた、三菱重工の相川賢太郎社長(当時)が、最初は堅苦しい挨拶をしていたのだが、突然、「遂げたり神風」(村山美知子氏作曲)を歌い出したとか、伊藤忠兵衛氏の末娘と一緒に学校に通っていたとか。。。
後ろに行くほど、ドキドキ感が増してくる、良質のミステリーみたいな本。
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登場する地域に馴染みがあるので、関心を持って読了。
資本と経営の問題を著者は繰り返すが、朝日新聞の読者不在のお家騒動は、残念な感じ。
寄付文化の発信元になるような逸話も多いのに、変わらない日本。
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前半は主人公のクラシック音楽の取り組み、後半は朝日新聞と創業家の攻防という内容。細かい話は知らなかったが、大きな組織は大変と感じた。
暴露本というよりも、深窓の令嬢がどのような人生を送ったかを知る本と感じた。
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★消えた日本の貴族★上野家を上回り朝日新聞の最大の社主であった村山家。貴族のような育ちをした最後の社主、村山美知子氏の晩年に仕えた元朝日新聞記者の記録。
朝日にとって、目の上のたんこぶであった社主をいかに排斥するかは長年の課題だったろう。著者から見ると、その対応は特に亡くなるタイミングで礼を欠いていた。貴族的な美知子氏にほれ込んだという面はあれど、義憤から朝日経営陣の対応を記した。朝日と社主の関係を理解するのに分かりやすい。
一方で美知子氏は音楽プロデューサーなど芸術家のパトロンとしての役割や能力は高かったのだろうが、支えるだけの実務家が乏しかった。姉妹の仲が必ずしも良くなく、子もいなかった。組織としての朝日にかなわなかったのだろう。こうした育ちをした人物がいたということに驚くのも本書の面白さ。
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色々考えさせられる1冊。
以下自分メモ。
男社会サラリーマン社長と、家と名誉を背負う前提がある生まれながらの金持ちオーナー一家では、前提とする価値観も利害も違うがために、どこかでもめるのは必然だったんだなーと。モメそうなポイント全てでもめていて、誰かなんとかできなかったのか?とさえ思いました。でも現実はこんなものだよね。
著者である、元朝日新聞新聞記者が異動でオーナーの宮仕え?になったことで見聞したことを書き残した貴重な1冊。サラリーマンならわかる。これは出版にあたりたくさん敵を作ったことでしょう。ほんとに執念深くて面倒なのは女ではなく(以下略)。
でも、記者として、自分が書き残さなかったら誰も書き残さなかったと考えたのかも。実際そうだし。記録って大事。よくぞ書き残したなあと。
山下達郎を聴くようになってから、タツローさんが音響の良さでお気に入りの大阪フェスティバルホールってどういう経緯でそんなに設備いいのかな?所有してる朝日新聞がお金持ちだからかな?と思ったきり放置してたのですが、この本で経緯がよくわかりました。朝日新聞社主(株的にオーナー)の令嬢のおかげだったのですね。まさに現代の貴族。
うちの部に新聞社から転職してきたひとがいたので、ちょっと話ふったら業界的に色々ご存知そうだったので、このへんのネタを根掘り葉掘りお酒飲みながら聞きたい。しかしコロナ遭遇するチャンスが少ない…。ほんとコロナよくない!
早く根絶されてほしい。
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最後の社主
朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム
著者:樋田毅
発行:2020年3月26日
講談社
朝日新聞の社主が今年3月に死亡した、だから出版できた、というふれこみだったので、長年、社主に苦しめられてきた朝日新聞がモンスターについてやっと語れる、という主旨の出版物だと思っていたら、全くの逆だった。最後の社主となった村山美知子を称賛する、元お世話役による著作物だった。著者は社会部の記者出身で、阪神支局襲撃事件の取材キャップを務め、お世話役になってからも犯人追及の取材を並行して続けた。一緒に仕事をした同僚からは、「反骨精神で記者をしてきた樋田さんが、なぜ社内体制に組み込まれるような仕事をしているのか?」と聞かれたらしい。著者が「深窓の令嬢」と呼ぶ村山美知子は、わがままな面もあったとしつつ、称賛、いや、心酔したような書き方をしている。皇室の記者になると人柄まで変わり、総理番記者になると自分が権力に近づいたように錯覚してしまう、そんな状況に似ているかも。
1871(明治11)年に創刊した朝日新聞は、村山龍平が初代社長だったが、経営は別の人物がしていた。3年すると経営に行き詰まり、村山龍平と上野理一が共同経営者となった。出資比率は村山:上野=2:1で、この比率は変わらず、村山家と上野家から交代で社長を出すなどしていたが、「大正」の元号をスクープし、主筆となった緒方竹虎が中心となって資本と経営の分離をはかり、村山家と上野家からは1名ずつの社主を出し、経営とは分離させる方向になっていく。村山家は創業から3代目(美知子)、上野家は4代目が最後の社主となった(どちらも死亡による。上野が先に絶えたので村山美知子が本当の最後)。
資本(社主)側と経営側の確執は、1960年代に起きた「村山騒動」で泥沼となり、2013年ごろまでその決着を見なかった。なお、社主側は、村山家と上野家との間にも確執を抱えていた。社主制度ができたのは戦後すぐ。形式的に資本と経営の分離を目指したが、それでもまだ、創業者村山龍平の娘婿・村山長挙が最後の社長となるまで、分離はうまくいかなかった。そして、「村山騒動」勃発で長挙社長が追放され、反撃に出た経営側が最後の社主となった村山美知子(長挙の長女)を言いくるめて彼女の持ち株を最終的には取りあげてしまう。
そこには、香雪美術館という村山家の極めて個人的な施設であるはずの美術館が、実際は朝日新聞経営側に都合のいい人物が館長になることで朝日新聞のより強力な武器となっている実態がある。
モンスターは社主ではなく、経営側だと著者はいいたいのだろう。
(村山騒動とは)
1963年、上野国立博物館で朝日新聞主催の「エジプト美術五千年」展の開会式に天皇・皇后が臨席するなか、当初は予定のなかった村山長挙社長の妻、村山於藤が突如出席し、急に近づこうとしたため宮内庁の係長が制止した。この時に於藤が怪我をしたとして宮内庁の謝罪を要求。宮内庁の対応に彼女が罵詈雑言を浴びせた。
それとあわせ、村山一族の処遇や新印刷工場を別会社にするかどうかで、社長、会長側と、���井常務が対立していた。その時の体制は、村山長挙社長、上野精一(2代目)会長。
永井常務が取締役会の合意ではなく、株主総会で解任された。村山騒動の始まり。それを受けて経営側が大反撃に。1964年の取締役会で村山社長解任動議が出され、全会一致で承認。同席していた上野精一会長も辞任を申し出て承認された。
村山側、会社側の対立が続き、株の買い取り合戦が進む。
会社側の広岡は、退職社員の持ち株の買い集めなどに奔走。もう一つの社主である上野家は約19.51%、村山長挙の次女・富美子は役8.57%を持っていたが、どちらも会社側についた。
この時点で、長挙12.03%、於藤11.32%、美知子8.57%。
なお、のちに相続が発生した後の持ち株は、美知子36.46%、富美子8.57%となる。富美子が差別されていると反発している理由でもあった。
長挙は、1977年8月7日。83歳で死去。
朝日新聞の社主制度は、1945年11月、新体制をスタートさせた臨時株主総会で定款に盛り込まれた。村山家、上野家の家督相続者が取締役会の決定を経て就任することに。当初は「日々の社務に関与しないが、社の重大事項について相談し、意見を伺う」と説明されていたが、美知子が就任したころには、その後にできた社主規定により、社の行事への出席、挨拶など儀礼的な役割に限られるようになっていた。
美知子は資金難に苦しむ大阪国際フェスティバル協会の専務理事を続けた。
美知子の最大の功績は「大阪国際フェスティバル」。まだ東京に音響のいいホールがなく、世界にその評判を響かせていたフェスティバルホールを中心とする文化イベントだ。しかし、そこには資金難というお荷物もついてきていた。
(朝日新聞・経営側による手練手管)
2006年夏の時点で、美知子(社主)36.46%、富美子(妹)8.57%、上野尚一(社主)12.82%、上野克二(弟)3.34%、上野信三(同)3.34%、従業員持株会10.56%、役員持株会2.18%。
2007年、村山騒動を終焉させ、朝日新聞の経営を安定させるため、村山美知子が持ち株全部を朝日新聞文化財団に寄付(無償譲渡)するかわりに、彼女の生活を生涯にわたって朝日新聞が保障する、文化財団を支えるために朝日新聞が数百億円を寄付する、などの話がまとまっていた。
ところがそれはいったん帳消しになり、新たに下記がまとまった。
・美知子は11.88%(38万株)をテレビ朝日に80億円余りで売却
・同じく9.97%(31万9千株)を香雪美術館に寄贈
・2009年までに社員持株会に2万株を譲渡
・朝日放送に2.31%(7万4千株)
・残り11.02%は美知子が所有し続ける
社主が11.02%を持つのは配分としても適切だったが、朝日新聞社長の秋山耿太郎は、どさくさに紛れて美知子に遺言書を書かせた。理由は、テレビ朝日は上場会社なので受け入れ手続きに時間がかかる、その間に美知子にもしものことがあったら大変なことになる、というもの。内容は、美知子の死後、株式を含めた全財産を「包括的」に香雪美術館に遺贈する、というもの。香雪美術館は、龍平が集めた美術品を収蔵するために、長挙、於藤夫妻が1973年に開設、現在は財団法人で重文19点を含む役2000点を所蔵。
秋山がこのような行動をしたのは、美��子が死んで11.02%の株式を甥(富美子の息子)が相続すると、併せて20%になることを嫌った野かも知れない。美知子が香雪美術館を村山家のものと考えていることに着目し、彼女の株と財産を美術館に移してしまうという筋立て。
*****(メモ)******
村山邸の創建(1908年)が呼び水となり、神戸・御影の周辺には住友銀行初代頭取の田辺貞吉、武田薬品工業社長の武田長兵衛、大林組社長の大林義雄、野村財閥創業者の野村徳七、伊藤忠商事創業者の伊藤忠兵衛、日本製美瑛社長の弘世(ひろせ)助三郎、岩井商店の岩井勝次郎、東京海上専務の平生釟三郎など関西の主だった財界人の邸宅が相次いで建てられた。
当時「日本一のお屋敷村」と呼ばれ、1920年に村山邸の北辺を阪急神戸線が通ったが、村山邸の付近で線路が北側へ蛇行しており、今でも「村山カーブ」と呼ばれる。敷地が買収できなかった。
村山美知子が甲南高等女学校の課題で作曲した曲(北原白秋の詩を選んで曲をつけた)を、指導した池尻先生がコロムビアレコードに持ち込み、山田耕筰作曲の作品とセットにしてレコード化した。当初の計画では山田耕筰がA面だったが、村山美知子がA、山田耕筰がBとなり、人気歌手の松原操が歌って数10万枚の大ヒットとなった。
1948年10月、村山美知子は武田光雄(豊田貞次郎・元海軍大将の次男)と見合い結婚をした。しかし、1950年8月に協議離婚。三菱電機製作所に勤め、新聞社の仕事に興味を示さないためとされてきたが、実際は、海軍仲間を度々自宅に招いて杯を重ねたり、戦友の遺骨を遺族に届ける前に村山邸の応接に置いたのが美知子の母、於藤に嫌われたり、といった事情があった。美知子は光雄に最後まで愛情を持っていた。結婚の事実は伏せられ、生涯独身を通したことになっている。
大阪国際フェスティバルの名を飛躍的に高めたのは、1967年、第10回の時。フェスティバルホールを大改修。バイロイト・ワーグナー・フェスティバルを8回フェスのみで行い、小沢栄太郎、千宗室、黒柳徹子はじめ有名人もかけつけ、舞台芸術家の妹尾河童は舞台装置の斬新さに感激し、ミュージックフェアの背景デザインを一変させた。
新聞は、政治を論じる「大(おお)新聞」と、社会・風俗を扱う「小(こ)新聞」に分かれていて、朝日新聞は「小新聞」から出発したが、国会開設、大日本帝国憲法の発布などを見据えて、政治問題も扱うようになり、「大新聞の要素を取り入れた小新聞」、すなわち「中新聞」へと脱皮。読売は小新聞、毎日のルーツの一つ東京日日は大新聞から出発。
1888年、東京進出を機に、朝日新聞は「報道第一主義」を掲げ、「公正中立な新聞」を目指すと表明。村山龍平は熱心な天皇主義者だったが、池辺三山、鳥居素川、杉村楚人冠、吉野作造、柳田國男らリベラルな論客を主筆や社説執筆などに積極的に登用した。
建て替え前の大阪朝日新聞社8階にあった社員食堂のうどんは天下一品で、噂をききつけたドイツ領事館勤めのドイツ人女性がわざわざ食べに来た。
親族あわせて15%を超える持ち株比率になると、相続手続きの際、相続税の計算方法が「純資産価額方式」となることが多い。つまり、株の時価ではなく、その会社の1株��たりの純資産額を算定し、持ち株数をかけた資産が課税対象に。非上場の場合はその差が大きい。
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2021.02.16 最後の社主
樋田毅著「最後の社主」を読みました。著者は朝日新聞出身のジャーナリストで、タイトルにある社主・村山美知子氏の晩年に世話役をしていた方です。「虎ノ門ニュース」で上念司氏が紹介していたのが気になって手に取りました。
村山美知子氏は朝日新聞の創業者・村山龍平氏の孫娘で、創業家として朝日新聞社の大株主でした。社主って言う言葉も、耳慣れない言葉ですが、創業家と経営を分割した朝日新聞独自の言い回しの様でした。美知子氏は、音楽をはじめとする様々な文化に精通されており、大阪国際フェスティバルという音楽祭を主宰されていました。無名時代の小澤征爾を見出したり、私でも存じ上げているカラヤン(凄さは理解しておりません)を招聘したりと、そうした功績は美知子氏の人柄によるものだとありました。小澤征爾は、若くしてN響の指揮者になるも、「若いのに生意気だ」ということでその立場を追われ、海外で目が出て「世界の小澤」と言われるまでになったとのことでした。このエピソードは全然知りませんでした。
しかしながら、こうした事業はやっぱりお金がかかるもので、運営している団体も赤字です。朝日新聞の支援がなければ運営できないわけですが、読んでいて美知子氏は、その支援を当たり前のように思っているように感じられました。いや、大株主、創業一族というのはそれくらいの権限を持つものなのかもしれませんが、やっぱり仕事もしないでどうなのだろうという気持ちが出てきます。でも、そのあたりは貧乏性の私には理解できないところなのでしょう。
晩年は朝日新聞の経営陣からひどい扱いを受けたとありましたが、出てくる話は株をどのように扱うかばかりで、それがどのようにひどい扱いなのかピンときませんでした。株の整理がついた後は、世間体を優先する朝日新聞経営陣によって確かにひどい目にあわされていたような描写もありましたが、その時、本人はもう自分の意思表示もできるかどうかという状況で、このあたりもなんともいえないなと思いました。
でも、こうしたしっかりとした教育を受けて、お金に困らないような方こそが、公共の名誉職等にはふさわしいのでしょうね。期待した内容とはちがうものでしたが、「こういう世界もあるんだな」と認識できました。そして、業界団体の役職とかについては、ますますやる気が亡くなりましたとさ。
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元朝日新聞記者で、阪神支局襲撃事件を長年取材している著者。社主担当の「大阪秘書役」で、最後の社主、村山美知子さんの側で見聞きしていたことを記録したのが本書だ。神戸の高級住宅地、御影に香雪美術館を抱える大邸宅に一人暮らし。著者が「最後の令嬢」と称する通り、有馬や麻布などに別荘も抱え、昭和初期の上流階級の暮らしぶりを興味深く読んだ。甲南小から甲南高等女学校、東京の自由学園に通い、終戦直後に元海軍大尉、武田光雄氏と結婚するが、お家柄の違いですぐに離婚してからは、子供もいない。父の村山長挙は、旧岸和田藩主の華族岡部家の家系で、京大卒業後に村山龍平の娘於藤の婿養子となる。兄弟には、終戦時の侍従で、玉音放送の録音盤を守った岡部長章もいる。
日本で音楽祭が珍しかったころから、カラヤンら一流の演奏家を招いた大阪国際フェスティバルを育ててきた。後半は社主家と経営側の長年の争いがテーマ。於藤さんが朝日主催のエジプト展の開会式で、昭和天皇に近寄ろうとして宮内庁職員に制止され、けがをした騒動などで、経営側と対立する話などが出てくる。結局、美知子氏の加齢に伴い、保有株式を手放すことになり、社主家と経営側の対立は終焉する。養子探しなども模索されるが、2020年3月に99歳で亡くなる。おいの村山恭平氏(洛星→名古屋大)が社主への色気を見せるお騒がせキャラとして登場するのも面白い。
この本はどうも朝日新聞には都合が悪いことが書いているらしく、同社は抗議文をネットに掲載したりしている。
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【まるで奇跡のような、素敵なおばあちゃんだった、と何度も思い返している】(文中より引用)
朝日新聞創業者の孫にして最後の「社主」となった村山美知子。芸術活動にも身を捧げた数奇な人生を追いながら、経営陣との長年にわたる複雑な関係を描いた一冊です。著者は、自身も朝日新聞社で活躍した樋田毅。
村山美知子という一人の人物を丹念に取材したノンフィクションとしての価値はもちろんのこと、「経営と資本」の関係を考える上でも大変に示唆に富む一冊でした。企業にチェック・アンド・バランスをもたらす機能としての経営者一族の役割は改めて見直されても良いのかもしれないと感じた次第です。
「そういえばあの時・・・」と振り返る作品になりそう☆5つ
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津田大介さんのポリタスTV で樋田さんのお話を聞いて大変感銘を受け本書を知った。
ものすごいルポルタージュだ。ルポルタージュの意味は本来のフランス語で探訪と聞いたことがある。
ニホンというクニの近現代史、ジャーナリズム、メディアのみならず文化という観点からもまさに社主美知子さんその父母や祖父母が、生き、世の中に還元されてきたこと、普遍的な愛のようなものが、気鋭のジャーナリストの鋭い眼差し、公平であろうと自らを追い込むような目線で語られており、感動した。
大阪国際フェスティバルとかフェスティバルホールとかそんなことも全く知らないことばかりで大変勉強になった。