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  • 発売日:2023/02/03
  • レーベル:Warner Classics
  • カタログNo.:5419729625
  • 組み枚数:1枚
  • 発売国:Europe
  • フォーマット:CD

CD

シューマン:ピアノ協奏曲、C.シューマン:ピアノ協奏曲 ベアトリーチェ・ラナ、ヤニク・ネゼ=セガン&ヨーロッパ室内管弦楽団【CD】

シューマン、ロベルト(1810-1856)

ベアトリーチェ・ラナ/クララ&ロベルト・シューマン:ピアノ協奏曲ベアトリーチェ・ラナによる、ヤニク・ネゼ=セガン&ヨーロッパ室内管...

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シューマン:ピアノ協奏曲、C.シューマン:ピアノ協奏曲 ベアトリーチェ・ラナ、ヤニク・ネゼ=セガン&ヨーロッパ室内管弦楽団【CD】

税込 2,640 24pt

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曲目

ディスク1
  1. ピアノ協奏曲 第1番 イ短調 Op.7 Ⅰ.Allegro maestoso
  2. ピアノ協奏曲 第1番 イ短調 Op.7 Ⅱ.Romanze: Andante non troppo con grazia
  3. ピアノ協奏曲 第1番 イ短調 Op.7 Ⅲ.Finale: Allegro non troppo - Allegro molto
  4. ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54 Ⅰ.Allegro affettuoso
  5. ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54 Ⅱ.Intermezzo: Andantino grazioso
  6. ピアノ協奏曲 イ短調 Op.54 Ⅲ.Allegro vivace
  7. 献呈

商品説明


ベアトリーチェ・ラナ/クララ&ロベルト・シューマン:ピアノ協奏曲

ベアトリーチェ・ラナによる、ヤニク・ネゼ=セガン&ヨーロッパ室内管弦楽団とのクララ・シューマンとロベルト・シューマンのピアノ協奏曲。
 これまでワーナー・クラシックスからリリースされたアルバムが全て世界的に評価を得ているピアニスト、ベアトリーチェ・ラナ。このアルバムでは、ヤニク・ネゼ=セガン&ヨーロッパ室内管弦楽団とのクララ・シューマンとロベルト・シューマンのピアノ協奏曲を録音。
 数多い若手ピアニストの中でもとりわけ注目を浴びる、1993年イタリア生まれのベアトリーチェ・ラナ。これまでにもショパンやバッハ、ラヴェル、ストラヴィンスキー作品で見事な演奏を披露していますが、今作はヤニク・ネゼ=セガンが指揮するヨーロッパ室内管弦楽団をバックに、クララ&ロベルト・シューマンのピアノ協奏曲の演奏を世に問います。
 彼女が「いろいろな意味で天才的作品」と呼ぶクララのピアノ協奏曲は、天才少女の名を欲しいままにしていたクララ13歳(当時はまだヴィーク姓)の作品。後に夫になるロベルトの手を借りてオーケストレーションを完成させたとはいえ、「10代の彼女が何の制約もなしにこの音楽を構想し、楽章と楽章の間に休憩もなく、途切れることのない協奏曲を作曲したことが魅力的」と語るラナの言葉そのもの。実際に聴いてみればおわかりの通り、単なる少女の作品と言った生易しいものではなく、激しい感情の流出と、装飾的なフレーズを持つ美しい旋律に満たされた聴きごたえのある作品です。
 ラナはこの珠玉の作品と、ロベルトの協奏曲を並べることで、2人の関係に光を当てるだけではなく、クララがいかに才能に恵まれた音楽家であったかを音として証明しました。ラナはフレーズを歌わせるところは思い切りテンポを落とし、その思いをじっくり伝えています。またヤニク・ネゼ=セガンの指揮も彼女のピアノに寄り添うとともに、オーケストラ・パートのすみずみにまで光をあて、充実した演奏を聴かせます。最後に置かれた『献呈』はロベルトからクララへの愛の贈り物。とはいえ、クララがロベルトと結婚しなかったら、その後の音楽史は違ったものになったのでしょうか・・・
 2022年10月にニューヨークのカーネギー・ホールで行われたベアトリーチェ・ラナの演奏について、「New York Classical Review」は「この音楽をラナの演奏以上に聴くことは想像できないだろう。彼女は大きく丸みのある音を出し、すべてのフレーズを明確にすることに気を配り、どんなに速くても、どんなに緻密でも、音楽の優雅さと本質を語らせる」と、高評価をしています。

ワーナーミュージック・ジャパン取り扱い輸入盤のみ、日本語解説書・帯付き。日本語解説書には、相場ひろ氏による書き下ろし解説と、ベアトリーチェ・ラナとヤニク・ネゼ=セガンの対談の訳、オリジナル・ブックレットの作品解説訳を掲載。(輸入元情報)

【収録情報】
● クララ・シューマン:ピアノ協奏曲(第1番)イ短調 Op.7
● ロベルト・シューマン:ピアノ協奏曲イ短調 Op.54
● シューマン=リスト:献呈 S.566


 ベアトリーチェ・ラナ(ピアノ)
 ヨーロッパ室内管弦楽団
 ヤニク・ネゼ=セガン(指揮)

 録音時期:2022年7月8-10日
 録音場所:バーデン=バーデン祝祭劇場
 録音方式:ステレオ(デジタル/セッション)

 ワーナーミュージック・ジャパン取り扱い輸入盤のみ、日本語解説書・帯付き


アーティスト紹介

シューマン、ロベルト(1810-1856)

ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で、出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。 ロベルト16才の年にその父親が亡くなり、安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが、音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。 翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。 シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で、名ピアニストだったクララ・ヴィーク(シューマン)と恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。 1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。 1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。 1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。 1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってJ.S.バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。 1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。 1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。 1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がシューマンの精神に好影響をあたえたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。 しかし、1853年11月には、楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて、公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。 若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことで、ブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。 このブラームスの出現は、晩年のシューマンにとって、音楽の未来を託すべき希望であったとされていますが、一方では妻クララとの不倫疑惑に悩まされるという相反する感情を生じてしまい、この希望と絶望が、シューマンの精神に決定的なダメージを与えたとされています。 1854年に入ると病は著しく悪化、2月27日、ついにライン川に投身自殺を図ります。一命をとりとめたものの、その後はボン・エンデ二ッヒの精神病院に収容され、回復しないまま、1856年7月29日にこの世を去りました。精神病院で常に口にし、また最後となった言葉は「私は知っている。(Ich weis)」であったと言われています。 作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至

ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で、出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。
 ロベルト16才の年にその父親が亡くなり、安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが、音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。
 翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。
 シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で、名ピアニストだったクララ・ヴィーク(シューマン)と恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。
 1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。
 1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。
 1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。
 1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってJ.S.バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。
 1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。
 1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。
 1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がシューマンの精神に好影響をあたえたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。
 しかし、1853年11月には、楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて、公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。
 若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことで、ブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。
 作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至るまで務めます。これに先立つ1831年、同い年のフレデリック・ショパンの才能をいち早く見出した「作品2」と題された評論の中の「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉はあまりにも有名。その他にも、メンデルスゾーンを擁護し、バッハ全集の出版を呼びかけ、若き日のブラームスを発掘したのも、エクトール・ベルリオーズをドイツに紹介したのもシューマンでした。特に、フランツ・シューベルトの埋もれていた「天国的に長い」ハ長調交響曲『グレート』を発見したことは、音楽史上の大成果と言えるでしょう。

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