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編集術は人生の様々な局面で生きるって言いたいんだろうけど、生きることと編集することって同義じゃない?ってなったら編集って言葉の強さが弱まってただの思考トレーニング本に感じて読む気がなくなりました
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編集とは何であるのかを、知の巨人である著者がさまざまなジャンルを超えて手ほどきしている。
編集とは安易な整理術ではないと否定し、編集とは情報を創発する行為だと著者は述べる。それは情報から、何を新しく感じ取ることができるかが重要だからということだ。そして俳句、歴史書、ビジネス書、歌詞など、ありとあらゆるジャンルの事例を引っ張り挙げて編集術を論じている。それらを横断して引っ張り出すことのできる著者の知識の広さは圧巻だ。
また、編集稽古と題して練習問題を挙げながら編集を理解してゆくのがおもしろかった。この本は編集を指南する教科書ではなく、極めて実践向けの練習ドリルに近いと思った。
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同じものを見ても、人によって感じること、考えることが違う。それは、それぞれが自分なりに受け取った情報を編集しているからだ。
なんだか読みづらい本だった。早口な人の話を聞いてる感じ。忙しい人なのかな。
ポール・オースター『ムーン・パレス』
「あいだ」の文学の王者
村上春樹『羊をめぐる冒険』
『遊びと人間』カイヨウ
人間がどのように社会関係を作っていったのかを、遊びの分類から説明している。
『嘘の効用』末松厳太郎
『映画編集とは何か』浦岡敬一
『知の編集工学』
編集とは、どれか一つを、選び出すこと。可能な限り正しいどれか一つを。
編集術は、今ある情報を元に、新たな情報を作り出すための技術だ。
編集で一番大切なことは、様々な事実や事態や現象のあいだに潜む関係を発見することだ。
そしてそれらをじっくりつなげていく。
編集は、生き物を相手にするように扱うと良い。
私たちの過ごす一刻一刻は、「編集的連続性」を裡に秘めている。
遊びは情報編集ゲーム。
アメリカ型のスポーツは、「より優秀な奴が前に出る」文化。
ヨーロッパ型のスポーツは、「一旦役割を分担したらできるだけ最後までまっとうする」文化。
スポーツも文化を編集している。
「キーノート・エディング」要約編集
要点・主旨・主眼・骨子・眼目を、かいつまみ、配り直す。星座を描くように。
箇条書きを増やしていって、最後に文章にまとめる。
遊びの中に学習も編集もある。
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情報を自分なりのものにする編集力
ここまで、考え方やその大切さを書いた本は始めてです。
再読必至です!
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すべての情報は誰かにとって必要な形で編集されている。だからそれらを一度解凍して、今度は自分にとって必要な「知」にしていくこと。誰かのための情報を、自分ためだけの知にしていくこと。
それが彼の言う「編集」ということなんだっとやっとわかった。
そしてなぜ彼がこの編集術を身につけた方がいいかっていう理由は簡単で、「人生、その方がずっとおもしろい」からだってね。
ようは自分の人生をおもしろくするために、あらゆる情報を自分なりに面白くアレンジして、自分が楽しいって思える形にして、自分だけの人生を楽しくしていこうじゃないかって提案なんだなって理解した。
そのための編集術(すべての情報を、一回解凍し、面白くさせる術)が、書かれた本がこれ。
この本を読むと「編集とは・・」って言葉がたくさんでてくる。
でもおれにとっちゃ、この言葉は難しくて、「編集とは・・」って言葉は、「おもしろくするには・・・」って置き換えた方が、まぁわかりやすく読める。
気がつかなかった方法を気づくための方法が編集。
あぁそう接したらおもしろいのかって気づかせるのが編集。
自分がおもしろいって思った事の軌跡を、覗き込んでいく。それが編集する側(おもしろがらせる側)になったときに、とても大事になってくる。
◎気になった本文
【情報はひとりではいられない(膨大なイメージや意味の連鎖がおきているということ)」ということを認識しておくことは、編集する者(おもしろくする側)にとって大事な事だ。】
【何が問題かはわかってきたし、主題はある程度の範囲で出そろった。
「地球にやさしいがいい」「市場は自由な競争がいい」「多種多様がいい」・・・だから、あと必要なのは方法。21世紀は方法の時代。】
【編集(おもしろくするのに)一番大事なことは、様々な事実や実態や現象を別々に放っておかないで、それらの「あいだ」にひそむ関係を発見することにある。そしてこれらをじっくりつなげていくことにある。
】
【方法が世界の内実そのものだ】
【子供遊びの極意=ごっこ・しりとり・宝探し】
【編集的連続性(1つの情報でもそれがどんどん妄想・連想を引き起こす性質)ということ、および、その連続性をつかって人間のふだんの知覚や判断がおこっているということは、編集をする者にとってとても大事なことだ。
なぜなら、編集には「すでに編集されている情報世界(面白いって思われている情報)」というもの、「これから編集する情報世界(まだ誰も気づいてないおもしろさがある情報)」というもの、この2つがあって、普通はこれらが混在してしまっているのである。そこで、前章にも紹介したような「情報を地と図に分ける」というようなことが必要になる。」】
【エイゼンシュタインは、主題の強調も編集のしかたによって決まって行くと述べたのだ。いわば主題は編集によってどうにでもなると言ったのである。ここには「内容は方法だ」という、見方が躍如(やくじょ)する。】
【編集は自分がやりや��いように、自分がその中に入っていきやすいようにやることだ。それが自己編集というもので、何かの正解のために編集はやるものではないし、一定の水準に近づくためのものでもない。】
【「らしさ」の強調をするには、あまりに要素的な特徴にこだわるのはよくない。サルバドール・ダリは、「パンを克明に描こうとすればするほど、レンガになってしまう」と言ったものだが、こうした細部の要素的特徴にこだわると「らしさ」は出にくくなり、したがってショーアップもうまくいかない。】
【なぜわれわれは「らしさ」がわかるのだろう。あるいはわかるように思えるのだろう。おそらく略図的原型のようなものが働いているのである。・・・ステレオタイプ(典型性)・プロトタイプ(類似性)・アーキタイプ(原型性)・・・これらをつかってわれわれは「らしさ」や「ぽい」を見分け、演出し、生活の知恵にしてきたのであった。】
【情報の意味は、いずれもどのような分母に属する地の情報をもとに、表現されているかによって、その図の分子的特徴は変わってくる。こうした分母をちゃんと明示しない議論が最近は増えている。分母なき時代、母なき時代なのである。】
【編集術(おもしろくさせる術)とは、われわれがどのように世界とかかわるかという「方法」に目を凝らそうという、いわば「気がつかなかった方法を気づくための方法」というものである。】
【編集とはすべてを準備しきることではなく、その場に臨んでいる感興(ワクワク感)を残しておくことに、本当の職人芸が隠れ出てくるものだ。それはそうだろう。雑誌のコピーや写真を見て、読者が初めてそれに出会ったと思えるようにすることが、編集者の仕事である。ところが学者や評論家はこれがどちらかというとヘタなのだ。ついつい自分で誇ってしまう。】
【編集術では最後は語り部にこそいっさいが委ねられることを理想としている。どんな情報内容であれ、それを子供が聞いたのか、病人が聞いたのか、またその情報内容が誰に伝われるのかによって、最後の編集の仕上げは変わっていくべきなのである。】
【編集もオリジナリティにこだわらない。むしろ何がオリジナリティかを疑っている。だいいち、オリジナリティなど信奉(しんぽう)していたら、編集は一歩も前には進まない。古代ギリシアではアナロギア(類推)・メミーシス(模倣)・パロディ(諧謔)の3つの技法が尊重され、それがギリシア劇という壮大な金字塔を打ち立てたのであるがm編集もそうありたい。】
【たとえば、「小渕首相、ついに決断」とするか、「小渕首相、やっと決断」とするか、その、「ついに」か「やっと」かだけでも情報の表情が変わってくるということだ。これが第一章で述べた「情報の様子」がたいせつになるという話なのである。】
【いずれにしても広告には必ず言葉が入る。その言葉と視覚性がうまくかみ合うかどうかが勝負である。写真をそのまま説明しているコピーではつまらないし、といってコピーが一人歩きしてもダメだ。
さらに大事なことは、広告作りの過程のなかで不要な言葉が削ぎ落されていくということである。
説明をするのはかんたんなのだ。商品知識などいくらでもメ��カー側が提供してくれる。広告表現では、それを何かの「暗示性」に切り替えなければならない。そうすると説明性が削られていく。】
【私は漫画家を編集術の先生としてたいへん尊敬している。コマ割りの仕方、絵の描き方、ストーリー展開のうまさ、いろいろ尊敬してるが、それらを学ぶには、4コマ漫画に取り組むのが一番いいだろう。何しろそこには起承転結がある。①発端「何かがある」②継承「ついで何かに変化が起きた。」③転回「ところが意外なことになった」④結末「実は、こういうことだった」という4段階だけでストーリーを感じさせることで、世界中の物語の基本的な筋書きとなっている。】
【そもそも人が未知の情報に出会ったとき、いったい何をしようとしているかということを覗いてみると、「単語の目録(単語集)」、「イメージの辞書(情報の様子)」、「ルールの郡(約束事)」をつかって推理のスタートをきっている。】
【編集稽古ではこのような自分がたどった思考の奇跡を自分で覗き込めるかどうか、ようするに自分でしていることを自分で実況放送できるかどうか、そこがとても大事なポイントになる。】
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編集の方法論、体系を紐解いたもの。
コンテンツ自体ではなく、それを支えるメソッドに注目した作者の考え方を通して新しい価値観を知る。
前進的な良書。
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2012 1/8パワー・ブラウジング。筑波大学図書館情報学図書館で借りた。
「編集工学」の松岡正剛が、自身の編集観と、具体的な編集術の基礎を紹介していく本。あわせて「編集工学」の触りも示される。
ざっと見ただけの状態だけど面白い。必要に応じ再読する。
以下、気になった部分のメモ。
・情報を「われわれにとって必要な情報」=「知」にしていくことが編集
⇒・その方法の基礎を本書中では「自由に案内する」
・21世紀・・・「内容」よりも「方法」の時代?
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「編集はこんなにも多くの分野で行われていて、こんなにも奥が深いんですよ?どう?編集に興味が湧いてこない?」
「いや、べつに……」
と、まあ、そんなカンジ。博学は思考の深さを担保しないとわかった点で勉強になった。そもそもの性質から言えば浅瀬が広くなるだけだろうってのはわかってたんだけど、やっぱ、ほら、信仰っていうかさ、なんかやってくれそうなイメージはあったからさ。
どーでもいいツッコミはいくつかあるけど、スポーツの制裁と子どものいじめを対比して、子どもがいじめをするのはスポーツがもっている制裁力を教えられていないからであるってのはどうなんかなーっと思った。
遊びのルールを破ったものに対して行われる子どものいじめこそが純粋なペナルティであり、その純粋なペナルティを編集したものこそがスポーツの制裁じゃねーの?っつー。
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だいたいこのテの本には、映画の撮り方やカット割について言及してることが多い。
編集の64手は圧巻。ハンター×ハンターのグリードアイランドの魔法カードみたい。
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おもしろかった。前々から読もうと思って読んでいなかった自分が馬鹿だった。人間の活動には編集がある、それに目をつけるととても有意義だぞと。自然に見える日本庭園は人工の美だしね。
世の中にはたくさんの情報があり、それが裸のままで提示されることは少ない。ひとの手によって整理され・配列され・集約され・強調されて…ほかいろいろな編集の手を経て、情報は人のもとへ入ってくる。受け取る側もそれを裸のままで受け取るのでなく、あるときは要約し、またあるときは誤認し、ときには見落としまでする。あらゆる活動に編集が関わってくる。
書籍などの編集の狭義の意味でなく、もっと広義の、芸術の創作やこどもの遊び、人と人との会話の仕方も編集として、著者は扱っている。
気になったところは
・編集と編纂は違う
・20世紀は「主題」の時代。21世紀は「方法」の時代
・編集はこどもの遊び
・「らしさ」は典型・類型・原型の3つのタイプがある
・編集の技法をこれでもかというくらい挙げている
ほかにもいくつも。
新書でも内容の濃い本でした。
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長年、トイレに積読しとった本。早く読めばよかった。著者の知識量に圧倒され、編集って概念は非常に広範囲だとわかった。所々、俺の頭ではついていけない部分もあるが、おいおいわかると信じてみよう。読みごたえ有り。
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普段意識せずに行っている編集術は、仕事、遊び双方で適用可能であることや、様々な著者の編集術が豊富に記載されている。
やや文学的な知識や背景を理解していないと理解が困難な所がなんてんだが、再読の価値ある良書。
コンサルワークにも十分適用可能。
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編集工学研究所の方の本。編集とは、情報より意味・価値のあるものを作り出すこと。遊びだって、ルールだって編集。要約と連想。様々な技法の紹介。
なんども読んでじっくり身についていく感じの本。
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編集というものを僕はすごく狭く捉えていたんだなあ、と思い知った。文章を書くときだけ編集をするわけではない。この世界を理解するために、語るために僕らは知識というものを集め、分類し、関係づけ、体系化している。この作業は編集である。日常のなかでなにげなく、僕らは編集をしている。編集のそれぞれの工程において、より上手く編集するためのティップスが本書には詰まっている。詰めすぎ、というくらいだが。自分が編集するときにすこしずつ引き出して、長く使いたいもんだ。
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松岡正剛の本は、いろんなイマジネーションがでてくる。
編集の考え方が、あらゆるところに、関連しているという。
編集は、「遊び、対話、不足」から生まれる。
編集は、「照合、連想、冒険」である。
編集とは、「コミュニケーションの充実と拡張に関する方法」
編集は「文化」と「分脈」を大切にする。
編集はつねに「情報の様子(しぐさ・くせ)」に目をつける。
編集は日々の会話のように「相互共振」をする。
編集には「堅い編集」と「柔らかい編集」がある。
21世紀は、「主題の時代」ではなく、
「方法の時代」である。
主語ではなく、述語の時。
「ごっこ」
「しりとり」
言葉遊び、しゃれ、
「たからさがし」
複数のメンバーがそれぞれの知識を持ち寄るところがミソ
編集的連続性
「われわれはたったの5分間で、
注意・観察・知覚・認知・認識・連想・表現といった行為を、
あるいはまた、記憶の再生・知識の喚起・判断の
変換・表現の試み・発話の決断などという
一連の行為をし続けているのである。」
情報の編集能力がある。
仕事の編集能力がある。