紙の本
進化論の再構築
2016/10/27 05:25
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投稿者:neko - この投稿者のレビュー一覧を見る
文語調の訳なので、読むのに慣れがいるけど、生物学の歴史的背景を知る上でも、読んでおいてももいいかと。(エイゴ版ならもっといい)。ただ、ナンテンかアップデートを、
まず、チョシャは古事記を知らなかった。
カガクのシンポでは、Human genome projectで、ヒトの遺伝子は、3万数千個ってわかった。しかも、哺乳類の遺伝子の種類や数には、あまり差はナイ。つまり、遺伝情報の入れ物としての遺伝子は、ほぼ飽和状態です。じゃあ、遺伝的なセイブツのヘンカはどこでオキルかというと、表現型です。つまり、どのタイミングで、どの遺伝子を、どのくらいのリョウ、ハツゲンさせるかで、表現型をカエル。それで、遺伝子ハツゲンをコントロールするシグナルは、ソトからも来ます。ソトからのシグナル、つまり、シャカイからのニュウリョクが、表現型をコントロールするってことは、シュウラクのチシキとケイケンのチクセキが、そのシュウラクのメンバーの表現型をキテイすることになる。シンカの新しいドライバーですね。
たとえば、ゲンゴの発生では、古事記によると、最初は一個体をコユウのナマエでヨブところから始まった。で、フクスウの個体が、コユウのナマエをモツと、ナマエをキャリアに、双方向のカイワがショウジル。で、ここから、キオクするノウリョクとゴイをフヤスことによって、ハッテンしていくわけだけど、それは、シュウラクのチシキとしてハッテンしていくのであって、「遺伝子」や「突然変異」のデバンはナい。つまり、シュウラクの知識ベースが、ゲンゴのハッテンのソセキとなっている。
そのフクサヨウとして、ゲンゴにノウのキノウをさいたブン、ゲンゴ以外のオトによるコミュニケーション能力がテイカして、グゴーブのコエが聞けなくなった。でも、ヒトはゲンゴによりエた物理的なチカラをリヨウして、チキュウ上に蔓延した。コタイより、シュウラクのセイゾンをユウセンさせたとも言える。で、そのチカラがカベにぶつかって、失くしたキノウに気づいた。さらにいうと、グローブのヒト以外のイキモノも、ヒトにエサバを取られたウエ、エヅケされて、シゼンのコエを忘れつつある。ヨウチュウイです。
ところで、遺伝子がアンテイで、グローブもアンテイだと、セイブツの表現型におきるすべてのヘンカは、そのコタイのセイゾンにはネガティヴです。とすると、シンカというのは、アトから振り返ってみて、あるジテンでのネガティヴなヘンカが、じつは「結果オーライだったんだね」って語ることです。たとえば、オオガタ-霊長類では、ニョウサンの代謝酵素がつぶれて、高尿酸血症になって、ドパミン-シンケイ系がハッタツしたとかですね。つまり、カガクでグローブのコエを聞くノウリョクを補えれば、ゲンゴもシンカと呼ばれます。いずれにしても、いまさら、ヤマにこもってコノミをかじってクラしたいってヒトもサルもおらんでしょう。
あと、ゲンゴにおける表現型のソセキは、シュウラクの知識ベースなので、タヨウなシュウラクがあったほうが、ヘンカがオキルカクリツがあがります。キンタロウアメだと、一つのヘンカのグローブに対するインパクトが大きすぎるし、そもそも、タイクツです。ユウヨウなチシキがカイハツされれば、シェアすればいいです。
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生物学を学んでいても「生きているとはどういう状況を指すのか?」という問いに答えられる学生や研究者はほとんど居ない。たまには科学哲学も読んでみよう。
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分子生物学者による進化のメカニズムの紹介だが、その背景にある徹底した科学的スタンスが、ひとつの冷徹な価値観にまで高められている。
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ノーベル生理学賞を受賞した、J.モノーの快著である。
偶然があって、必然となる。
・・・果たしてそうか?
必然があるから、偶然になり得るのではないのかな?と思う。
「ニワトリが先か卵が先か」の問いは、「ニワトリが先」でしょ?
ニワトリが、卵を生んで、ニワトリになるんだから。
ニワトリは、偶然の産物か?
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ノーベル生理学賞を受賞した、J.モノーの著書。
生物学の書だが
最近の啓発本の礎となる考えが
詰まっている。
興味深い。
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生物学者で、ノーベル賞も受賞しているジャック・モノーは、本書の執筆の動機を以下のように述べている。
「あらゆる科学の究極の野心がまさに人間の宇宙に対する関係を解くことにあるとすれば、生物学に中心的な位置を認めなければならなくなる。 ~ 私が明らかにしようと試みたのは、現代生物学の概念そのものより、結局はその≪形≫であり、またそれらの概念と他の思想の領域とのあいだの論理的な関係を明らかにすることであった。」
彼のスタンスは、養老孟司が言う、遺伝や脳などの側面から、人間の活動とその世界観を解き明かす「人間科学」と近い立場だと思う。
本書は、当時の最先端の科学者による、科学者の視点からの哲学批判・イデオロギー批判である。その主張は、40年経った現在読んでみても、色褪せてはいなかった。
注目したのは、上記の議論を展開している最終章、「王国と奈落」における、知識と価値の関係性についての考察。
モノーは、知識と価値は、行動や言説において分かちがたく結び付けられていることを指摘する。
社会主義などのイデオロギーや宗教においては、無反省にそれらの区別から目をそむける。
例えば、ヘーゲルの「歴史」あるいは、マルクスの「弁証法的唯物論」では、人類の歴史と宇宙の歴史とが、同じ永遠の法則に服従するものとする。
そこには科学的な根拠はなく、明らかに何らかの目的や意図(価値観)を背景に持っている。
(往々にしてそれらは、人間そのものや、神を認識できるものとしての人間を中心に捉えている。)
一方で、客観性を追求する科学的な立場では、知識から価値判断を徹底的に排除する。
ただし、科学的精神がよって立つこの「客観性の公準」の採用も、倫理的な選択であり、客観性という価値を前提にしてはいる。
とはいえ、こちらは、前者のようにおしつけがましく人間に迫ってくるものではなく、行動や言説の正真正銘さの条件として、人間自らが選びとるものなのである。
著者によると、現代社会は、科学による富と力を享受しながら、一方では、科学によって根元を掘り起こされた古い価値体系がいまだ蔓延しいている。
よって、非科学的な幻想を断ち切り、科学的な知識の倫理を受け入れて追及していくべきとしている。
以上が、本書にあった、科学的方法論からのイデオロギー批判の概要。
知識と価値という視点で、思想の背景を照らし、矛盾を指摘している姿勢は素晴らしいと思った。
ただ、科学的精神の勝利は、宗教を含む幾多のイデオロギー、すなわち既成の世界観・価値観の敗北を意味する。
これは、筆者も言っている通り、人間に対して胸苦しい不安、すなわちニヒリズムをもたらす。
結論では、科学的な知識による楽観的な見通しが述べられていたが、まさに科学では解決できない、価値の問題が今日的な課題であると感じた。
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タイトルが気に入ったことと、いろいろな本の参考文献にあがっていたので購入しました。
熱力学、生物学など、偶然におきたことを、統計的に見ると、その裏にある必然が見えてくる学問の真理を理解しようと思いました。
それから約35年経過した今も、なお、本質は変わっていないような気がします。
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合目的性/自律的形態発生/不変性
人間中心主義の批判
人間の必然性/整合性への欲望
淘汰が行われるのは巨視的(生物)のレベル、それよりミクロな状態では(仮借なき)必然性の国に入っていく。
初期の進化論(スペンサー):<生存競争>という残念な概念を用いる
ネオ=ダーウィニズム:淘汰の決定因子は生存競争ではなく、種の内部における増殖率の差
現代生物学:あるタンパク質の構造の変化という形で現われる<新しさ>はすべて、第一にその新しいタンパク質の属する系全体と両立しうるかどうかという点にかんして試験される。しかもその系は、生物の持つ目的を果たすための無数の統制条件によって前もって縛り付けられ、勝手にはできなくなっている。従って受け入れられる突然変異というのは、合目的的装置の首尾一貫性を低下させてはならないだけでなく、むしろ起こっている変化の方向に即してこれを一層強化するか、あるいはまたーそれよりずっとまれな事であるがー新たな可能性を開くといったぐあいの突然変異でなければならない。
偶然から生まれた試みを一時的にせよ、永続的にせよ受け入れるか排除するかを決める初期条件を与えるのがこの合目的的装置。突然変異が現れたときに一番早く作用。
淘汰によって判定されるのは合目的的性能であり、建設的/制御的な相互作用をもつネットワークをもつ諸特性の全体表現。
→進化自体がある企て(先祖の夢を延長し、そして拡大する企て)を成し遂げつつあるように見える。
※淘汰の圧力がかかるのは集団に対してであって、個体に対してではない。
進化の不可逆性は熱力学第二法則の一つの表現とみなすことができる。〜逆向き運動は複製によってつかまえられ、淘汰によってふるい分けられる。〜進化は一種のタイムマシンといえる。
淘汰:外的条件と選択(分離できない形で同時に初期条件に含まれる)
ちょっとした初期条件が進化の原因になっている事がある。
手段が目的化していく(繁殖成功のための装飾〜装飾そのものの完成へ目的が変化)/価値判断は関係なく、「自然な」現象?
言語:人間の特異な特徴
進化の産物、そして初期条件
言語→知性という価値の増大
〜言語を持たないものに対する自然淘汰の圧力
チョムスキー:全ての言語に共通する<形>
失語症
未開拓分野:進化の両極
①原初生物システムの起源
その背後には深遠な問いーこの出来事が実際起こる以前には生命の出現の確率はどれくらいあったのだろうかーに対する答えが含まれている。宇宙のの中で起こりうるあらゆる出来事の先験的な確率はゼロにちかい。しかし実際、人間は誕生した。
②最高度に合目的的なシステム(人間の中枢神経系)
我々のなかにある見かけの二元論は幻想であることを認めざるをえない。しかし、この二元論は我々の存在自体と密接に結びついているので、主観をはっきり理解することでこれを消し去ろうとしたり、それなしに感情/道徳的に生きることを学ぼうとしても全くの失敗に終わるだろう。
���国と奈落
具体的な自分の当面した経験だけでなく、主観的経験や個人的趣味レーションの内容まで表現できるようになった日からあらたな思想/観念の治世が誕生した。(=文化の進化が可能になった)
淘汰の圧力はだんだん弱められ、自分の仲間以外には敵はいなくなった。(他の動物にはみられない)〜人間の場合にはスペンサー
の<生存競争>が有効。
人間の場合にはーまさしく人間の高度な自律性ゆえにー行動こそが淘汰の圧力を方向付けている。行動が自動的だった段階をすぎて文化的なものになってからは、文化的特徴そのものが遺伝情報の進化に対して圧力を及ぼすことになった。(ある時期まで)
今は文化的進化の速度が速かったため、遺伝情報の進化と文化的進化とは完全に分離される。
現代社会の中で淘汰がなお作用しているところでは、それは<適者生存>ということに有利に働いているのではない。子供を増やす事で<適者>が遺伝的に生存するというようなことに淘汰が有利に働いているのではない。(知識/野心/勇気/想像力など個人的成功と遺伝的成功は別)
人類を改良するただ一つの手段としてはただ熟慮した上で厳格な淘汰を実行する事があるだけであろうーだれがそのような手段を用いることを望むのか。
「魂の病」:自然は客観的であり、真の知識は論理と経験を組織的に突き合わせられて得られる、という思想から生じる。
思想の進化/生物の進化
ある思想の性能価値:それを採用する個人なり集団なりにその思想がもたらす行動の変化による。→人間集団の団結/野心/自信の高まり→従来以上の勢力を拡大→思想そのものの地位向上(客観的真実の内包とは必ずしも関係ない)
浸透力〜性能を発揮する力
浸透力:分析しにくい
最高の浸透力をもった思想は人間が占めるべき地位を内在的な運命ーその懐に抱かれれば人間の不安は解きほぐされていくーのなかに割り当てる事で、人間というものを証明する。
神話説明の必要性:
我々は何か説明を付けずにはいられない気持ちと胸苦しい不安に駆られて、実存の意味を否応無しに探し求めようとしているのであるが、おそらくこれらは遺産として受け継いだものなのであろう。
この胸苦しい不安こそ、全ての神話、宗教、哲学、科学を生み出した。
文化/神話:人間が自動性に屈する事なく社会的動物として生きながらえるために支払わなければならなかった対価
人間の不安を埋めつつ掟を確立させる目的で作られた<説明>はどれもこれも<物語>であり、より正確に言えば個体発生的であることは容易に理解できる。原始的神話のほとんど全ては多少とも神的な英雄について語っている。
マルクス/ヘーゲル:説明的かつ規範的な個体発生
マルクス主義の絶大な影響力:人間の解放を約束したことだけでなく、個体発生的構造と、そこに述べられている現在/過去/未来についての完全かつ詳細な説明に由来。
現代社会は科学が発見した富と力を手に入れた。しかし科学がもたらしたもっとも奥深い伝言を受け入れなかった(物活論、相対主義的、普遍的真実の存在の否定の事?)
その伝言とは新しい、そして唯一の真実の��泉を定義することであり、倫理の基礎の全面的再検討と物活的伝統からの完全な絶縁を要求することであり、<旧約>を決定的に放棄することであり、<新約>をつくりあげる必要を説く事であった。
科学による富と力で武装し、科学によって既に根元を彫り崩された古い価値体系にのっとって生活を続ける/という分裂
物活論の伝統は価値/道徳/義務/権利/禁止の基礎を神話的ないしは哲学的個体発生に求めていたのであったが、科学はこれらをすべて討ち滅ぼしつつある。
この伝言に含まれている全ての意義ともども受け入れるならば、<人間>はついに古来の夢から目ざめて、自らの完全な孤独を、みずからの根元的な異様さを発見するはずである。今や彼はまるでジプシーのように、自分の生きるべき宇宙のふちにいる事をしっている。宇宙は彼の音楽を聴く耳を持たず、彼の苦悩や犯罪に対してと同じく、彼の希望に対しても無関心なのだ。
価値は彼に属していたのではない。価値の方から押し付けて来たのであり、人間の方が価値に属していたのである。彼はいまや価値が自分だけのものなのだと知っている。そしてついに価値の主人となったために価値が宇宙の無関心のむなしさのなかに溶解していくような感じを受けるのである。
客観的真実と価値の理論とが互いに無縁で、相互浸透できない領域を永遠に形作っているというのが頼みの綱?ー現代思想家の大部分が取っている態度。
↑
容認不可能
倫理と知識とは行動の中で、行動を通して、不可避に結びつけられている。
正真正銘性の探求は必然的に相対主義に行き着く。ー支離滅裂ではない夢としてのユートピア
「彼の運命も彼の義務もどこにも書かれてはいない。彼は独力で<王国>と暗黙の奈落のいずれかを選ばなくてはならない。」
<感想>
すごく読みやすかった!色んな教授がすすめている本。
最後の章が一番面白いけれど、だいたいは絶対主義的な(一応物活説とされている)ものの批判。
手段が目的化していく過程そのものがまさに自律性の形成ともいえるのだろうか。
また、人類、祖先の共通の目的とはなんだろうか。
言語が人間に与えられた高等な技術だとして、現代では人を傷つける言葉や不毛な言葉の多さが、言語自体の価値を低下させている気もする。ヴィトゲンシュタイン以降、語り得ぬものは語らないといわれて、それでも足踏みする方法をベケットが開発したとしても。やはり言語であふれた暮らしよりは静寂に憧れる。それは問題であるなどという価値判断を含むものではなく、自然な流れなのかもしれない。ただし、そこに至るまでには言葉がまた、必要である。
人類共通の夢とは相対主義的な考えの浸透ーつまり共生だろうか。
久しぶりに熟読させられた。わたしはそれでも奈落をえらびたい!
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久方ぶりに読みましたが、こんなに超絶レベルでしたか。
当方の衰えかそれとも当初からそんな能力さえなかったのか、いずれにせよいささか内容についていけず★3つ、挑戦的かつ野心的内容は本来★5つの本なんだろうと思う。
生物にとっての本質は保存であって、進化の契機は偶然に過ぎない。
加えて進化と言えるものになるかはその保存機能によって選別されるってこの主張、相当に攻撃的ではないかな?
その裏に様々な西欧哲学への痛烈かつ根源的批判の意図をこの学者が込めているように素人の当方でも何となく感じ取れるだけに。
一度生物学を生業としている友人に聞いてみますかな。
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タンパク質。高校の生物の授業を思い出した。出版当時は反響を呼んだのだろうが、やはり現代では少し古い気がする。