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[ 内容 ]
第一次世界大戦は、西欧の知識人にとって最初ののっぴきならぬ政治体験であった。
ワイマール時代にも、戦後体験の受け止め方が知識人のさまざまなあり方を規定した。
左右両翼知識人の活動を描き、その間にあって独自の道を歩んだトーマス・マン,E.ユンガー、M.ウェーバーの政治姿勢を追跡することで、知識人と政治の問題を考える。
[ 目次 ]
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[ 参考となる書評 ]
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トマス・マン、マックス・ヴェーバーを中心に第一次世界大戦からワイマール時代までのドイツの知識人の思想について知るには良い本だと思います。
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第一次大戦期からワイマル期におけるドイツの知識人が、政治に対していかなる態度をとったのかについて、ウェーバーやトーマス・マン、ユンガーやトゥホルスキーといった面々の思想を分析することによって明らかにしようとした著作。当時のドイツにおける思想空間を明らかにしていて、非常に参考になる。
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この本を手に取った目的は、政治が激動の時代に知識人が何をすべきか、という問いに答える手がかりを得ることだった。
本書は一次大戦からワイマール共和国がナチズムに崩されるまでの時代に、トマス・マンとマックス・ウェーバーを中心としたドイツ知識人たちが考えたことを追うものだが、僕の目からは安倍政権の暴走に対して知識人がどうあらがうべきか考える一冊となるように思えた。
僕らは未来を事前に知ることができない。だから、現在の政治の動きが何を帰結するのか正確に予測することができない。
どこまで行ったら警鐘を鳴らすべきなのか、何を見て危険を察知すべきなのか。
自分たちには、大衆には無い洞察や表現を備えた知識人として、未来を見据えて警鐘を鳴らす義務があると思う。
それを考える上で、特に中盤のウェーバーの章、或いは彼が学生たちに渇を入れた演説『職業としての政治』は読むべきかもしれない。
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第一次世界大戦からドイツ革命へ(現代政治の生きた学校;トーマス・マンの場合ー「政治的なもの」との対決;ドイツ革命とマックス・ウェーバー)
ワイマール時代の知識人(ワイマール時代と現代;理性の共和主義者;右翼の知識人―ナショナル・ボルシェヴィスト;左翼の知識人―文化ボルシェヴィスト)
知識人と政治―マックス・ウェーバーとトーマス・マン
著者:脇圭平(1924-2015、柳井市、政治学者)
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岩波新書の近年の凋落ぶりは目を覆うばかりだが、1970年代くらい迄は結構名著が多かった。本書もその一つだ。著者の脇圭平氏は昨年1月に惜しくも他界したが、東大で丸山眞男に学び、京大、同志社で政治思想史を講じた人だ。寡作であり本書が唯一の単著だと思うが、目立たぬながらドイツ思想史研究と岩波新書の歴史に確かな足跡を残した燻し銀の一冊だ。
「戦後の反ファシズムは所詮流行現象に過ぎなかったのではあるまいか」本書冒頭にこう書き付けた脇氏が抱き続けたのは、戦後の温室育ちの「反ファシズム論」への違和感だ。脇氏によれば、戦後、デモクラシーは無条件に賞めなければならぬ「ポジティブ・タブー」となり、ファシズムは必ずくささなければならぬ「ネガティブ・タブー」となった。我々は反ファシズムの「誓い」を立てたが、「誓い」とははかなく、頼りないものだ。かつて我々の多くは他愛もなくファシズムにいかれ、いかれないまでも結局は流された。この苦い経験から何を学んだと言えるだろうか。ファシズムはまさしく「悪女」であるが、「悪女」は「悪女」でありながら、ともかく「女」であったことを忘れてはなるまい。ひ弱なデモクラシーとも言われるワイマール体制は、どこか戦後日本と似たところがある。忍び寄る危機を前に知識人たちが政治にどう向き合ったかを追いながら、「ファシズムをその思想の内側から問題にすること」これが本書の企てである。
ワイマール体制下、若者を中心に支持を集めたラディカルな左翼知識人は、理念と現実を架橋する試みを理念そのものへの裏切りであるとして拒否し、その理念を近似的にでも実現させ得たかも知れない政治的基盤を掘り崩してしまう。第一次大戦前ではあるがウェーバーが『職業としての政治』の中で責任倫理の観点から厳しく批判したのも、こうした観念的左翼の政治的未成熟である。一方トーマス・マンは第一次大戦中ロマン主義によってデモクラシーを批判したが、戦後のワイマール期は同じロマン主義によってデモクラシーの可能性を模索した。保守派からは「裏切り」と見做されたマンの「転向」は確かに矛盾に満ちているが、必ずしも思想的な断絶を意味しないと脇氏はみる。そこにはマンのロマン主義の根底にあるイローニッシュな苦渋への共感がある。それは粗野で性急な「政治への熱狂」が見失った両義性に耐え抜く精神と言えるだろう。ウェーバーやマンが抗した知性の硬直化とも言うべき事態は我々にとって真に「過去」となったであろうか。本書の問いは今なお新鮮だ。