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持論をどう伝えたものか混乱して整理しきれなくなり、執拗で強引な主張が延々と続くので、これはもう滑稽と言える。他の誰でもない、彼こそが死を恐れ、自らの幸福を求めたがために、痛々しいまでにそれを否定しようとし、その手段がこの無理な理論の構築であったのだろう。人生は決して定型ではなく、動物的で理性が欠落していようとも、個々の人間の生の営みを哲学で一様に論じようなどとは、彼が信じる神への冒涜につながる。
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『たとえ宇宙がおしつぶそうと、人間は、人間を殺すものより、いっそう高貴であるだろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間のうえに優越することを知っているからである。宇宙はそれについてはなにも知らない。それゆえ、われわれの尊厳は、すべて、思考のうちにある。』
『悟性のみがたどりうる世界――この世界(それを通じて同時にまたいっさいの目に見える世界)とわたしとの関係は、第一の場合のようにたんに偶然的なものではなくて、普遍的必然的な結合をもっていると、わたしが認識するような世界に、わたしを置く。』
『きみたちに新しい戒めを与えよう、たがいに愛しあうことだ。』
「人間の精神的な結びつきのためのただひとつの手段は言葉である。この結びつきを可能にするためには、ひと言ひと言が、すべての人に適当で正確な観念をまちがいなく伝えるように、使わなくてはならない。」
「ところでどんなものにでも、急に半径が無数にあるように、無数の面があるもので、それをあらゆる面から研究することなどとてもできないのだから、どれがいっそう重要で必要な面なのか、どれがあまり重要でもなく必要でもない面なのか。そのけじめをつけて研究することがだいじなのだ。」
「じゃあ、それで、いったいどうだというのだろう?」
「けっきょくのところ、自分にとってなによりもだいじなもの、ただそれだけが必要で、」
「人生とは何か、人生の幸福とはなにかということを知りもしないのに、自分がいっぱし生きているように、思っているのだ。~数千年前もまえにあらわれて、これとおなじ疑問を解決した人類の偉大な教師たちのことや、その残した人生の定義のことなど、この男たちの知るようになる機会はほとんどないに違いない。」
「しかし、人は、自分の行動を選ぶのになにか指針となるものがなくては、生きていけないのだ。」
「分裂や矛盾はない。そうしたものは、まちがった教えにとらわれているときにだけ、あらわれるものにすぎない」
「つまり理性はほかのすべてのものを定義するけれど、ほかのものからまったく定義されないものだ。」
「だから、けっきょく、われわれは人間のことをいちばんよく知っているわけなのである」
「われわれにとっての知識というのは、なにによらず、われわれのほんとうに知っているただひとつのこと――理性の法則にしたがって幸福になろうとつとめるのが人生だというこの知識を、ほかの事物に移しかえ、あてはめることにほかならないのである。」
「それでいて、この意識をそとから見られないのは、そういった観察のできるような高みをわれわれがもっていないからなのである。」
「動物的な自我の幸福の否定こそ、人間生活の法則である」
「他人の幸福をもとめる生き方に、変えることができると、考えてみればいいのである。」
「すべての人がめいめいの人に奉仕する法則さえ実行されれば、それこそ、人間と言う人間が、ひとり残らず、どこまでも幸福になれるに違いない、人間の最大幸福が実現するに違いないのだ。」
「自我の要求が正しいと主張するのは、きまって、理性の発達した裕福な洗練された人たちなのである。これはちょっと見逃すことのできない重要な現象だ。~単純な人の場合、自分の理性をゆがめたり、そこなったりする機会などほとんどないため、理性の力も、純潔さも、そのままたもたれるからなのである。」
「要求されるのは自我を否定することではなくて、自我を理性の意識に従属させることである。」
「人生が人間の個人的な生存でないという考えは、人類の数千年にわたる精神的な努力の結晶である。~ものをちゃんと考えられる人ならみんなそれを知っている。」
「いつだって、いますぐにだって、その場で手に入れられて、だれからも奪われたりしない実際の幸福~だれの胸にも覚えのあるようなこのうえもなくなじみの深い感じのする幸福である。」
「愛について議論することはできない。愛についてあれこれ考えたり、議論したりすれば、愛はたちまちしぼんで、なくなってしまうだけだ。~だいじなのはつぎのような点である。~愛について議論したり、考えたりしなくてもいいのは、ただ人生を理性によって理解して、個人的な生活の幸福を否定している人たちだけであって、人生を理解せず、動物的な自我の幸福のために生存しているような人たちは、考えないですますわけにはいかないのである。」
「隣人とはだれのことか~食いあって生きるという生存の条件~愛はただ言葉だけのものでなく、他人の幸福のためにささげられる活動なのである。~自分にとってこころよい愛のあらわれだけを選んで、けっきょく、愛のためどころか自分の自我の満足のために行動することになるのである。~実際は自分ひとりのほか誰も愛してはいないことになるのである~愛は今この現在にしか考えられない活動である。」
「より好みというふうな感情は、すべて、目に見え手にふれられる人間の動物的な生活をおそろしく複雑にするだけのもので、しょせん、愛とよばれるような筋合いのものではない。~人々に幸福をもたらすどころか、まえにもまして不幸な思いをあじわわすだけなのである。」
「愛とは、自分よりも――自分の動物的な自我よりも、他人をすぐれたものとして認める心である。」
「しかし、せめて一度でもいい。だれしも、他人に対して悪意をもった瞬間、誠実に心から『どちらでもいい、なにもいらない』と自分自身にいわせてみるがいい。ほんのわずかのあいだでもいいのだから、なにひとつ自分のためには望まぬようにしてみるがいい。その自己否定の誠実さに比例して、いっさいの悪意がどれほどはやくあとかたもなく消えさるものか、」
「まずそのまえに、憎むことをやめなければならないのである。」
「自分の生命を友人のために捧げて悔いないような愛――こういった愛のほかに、愛はない。」
『完全な愛は恐れをとりのぞく。なぜなら恐れには苦痛、苛責がともなうものだからである。恐れるものは、つまり、中途半端な愛しかもってないことになる。~ただもうすべてのものがしあわせになればいい、いいめをみればいいと、』
「快楽もとことんまで追っていくと、~こんどはかえって苦痛にかわって、」
「人は自分の死というものを知ってはいない、知ることはできない。~それなら、何を恐れることがあろう?~むしろ生命のほうがなにか不自然で不合理なところがあって、恐ろしいというようなことになりかねないのである。~『おれは、いったい、なにものだ?』と問いつづけるとするならば、きっと、わたしはこう答えるよりほかないだろう。『なにかしら、考えるもの、感じるもの――つまり、自分というまったく特別な形で、この世界につながっているもの』」
「いったいどんな根拠があって、わたしは、この自分が、いままで生きてきたそのあいだじゅう、ずっといつもおなじこの
、、、
わたしだった――ひとつの自我だったなどと断言したりできるだろう?~われわれはたえず肉体をなくしているばかりか、毎日、眠るたびに意識をなくしているではないか。しかも、毎日、毎時間、自分の意識が変化しているのを感じながら、ちっともそれを恐れなどしない。」
「これは好きだけれど、あれはきらいというものが、つまり、ほかでもない、この自我なのである。」
「空間と時間にしばられたその一部分ではなくて、生命ぜんたいをつかまなければならない。」
「生命の本質はこの世界にたいする関係だ。しかも、生命はたえず動いて、さらに高く新しい関係を形づくっていく。だから、けっきょく、死も新しい関係にうつるひとつのきっかけにほかならないのである。」
「思い出はただの観念ではないのである。~いまも、このわたしに働きかけるなにかなのである。」
「いままで数知れぬ動物を自分の手で切って、さんざん食べていたくせに、自分がオオカミにかまれそうになると、なんとかその牙から身をまもって、うまく逃れようとしか考えない人間とか、」
「わたしの苦痛の真の原因は過去のうちに、わたしや他人の誤ちのうちにあるからである。」
「わたしの人生は、わたしなりに幸福をもとめてやまぬ私自身の生活なのであって、他人の人生のためのいきた手びきでもなんでもないのだ。~自分のうちに誤ちが多ければ多いほど、わたしやほかの人たちの苦痛も多くなること、わたしが自分の誤ちを正せば正すほど、わたしやほかの人たちの苦痛が少なくなり、わたしの手に入れる幸福は大きくなることを知っている。~自分自身を知らずに、ほかの生物の幸福と生命とを知ることなど、できる道理がないのである。」
「人は、いつも、いっさいのものごとを理性を通じて理解するのであって、信仰を通じて理解するのではない。」
繰り返し言う感じ。よほど伝えたかったのかな、と思う。いや、だから悲しいことにその理性が私はわからないんだよ・・・!!と思いながら読み進めたら後半が結構好きだった。死生観・・・。理性は愛のこと?なのか?覚悟?行動と責任?ということで仮に結論付けておく。定義していいものなのかとも思うのでむつかしい。ものすごく簡単でもあるんだが。参考にして自分で選ぶこと。うーん・・・これも選り好みに入ってしまうか・・・。いいひとなんだろうな、と思った。
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かなり難解に感じた。強くトルストイの思考が個性的であった。幸せになるとはどういうことか、死とはどういうことか等納得はできないが、読むのに考えられさせられる箇所があった。執筆された年齢になったら再読したい。