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かつてノーベル物理学賞を受賞し、今は多磨霊園に眠る朝永博士の著書。ノーベル賞の季節とは全然関係なく、多摩地域にいた人ってことで興味があって読んでみました。なるべく簡単に伝えようという気持ちが伝わってくる裁判形式での光子の特性なんかは、突出した存在だったことを伺わせるなと思いましたが、物理離れてずいぶん経つ自分にはちょっと難しめでした。。
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「鏡の中の物理学」は、自然法則の対称性について。「素粒子は粒子であるか」「光子の裁判」は量子力学について解説している。
量子力学について、はじめて少し理解できたと思えた。素粒子というのは普通の粒子にはない不思議な性質を持っている。私たちの常識とは目に見える限られた世界の常識にすぎないんだなぁと改めて思った。
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光の不思議な性質を、裁判というまた変わった例えの中でうまく説明している。あくまで例えなので厳密にこういう理由でとは説明していないが、わかりやすい。
もう少し厚い本であればよかったと思う。薄い本なのであっという間に読める。
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(2013.11.22読了)(2003.10.31購入)
著者は、1965年のノーベル物理学賞受賞者です。
いつか読まねば、と思いつつ積読していたのですが、やっと読めました。
物理学、量子力学の入門的作品が三編収録されています。
「鏡の中の物理学」は、鏡の世界と現実の世界で共通して起こりうることとそうでないことの説明と、通常に流れる時間の中で起こる現象と時間を逆転させた時の現象の説明です。
力学的現象は、鏡の中と現実の世界で違いはない。時間を逆転させた場合も違和感のないものもある。
熱現象に関しては、時間を逆転させた場合には、違和感が生ずる。例えば、お湯を入れた器を氷の上に置いた場合、氷が解けて器が沈んでゆく。時間を逆転させると器がどんどん浮いてくることになるので、違和感が生じる。
「素粒子は粒子であるか」と「光子の裁判 ―ある日の夢―」の二編は、量子力学の話です。両方読んでやっと説明したいことがおぼろに見えてきます。
光は、粒子であり波であることは、高校の物理で習ったように思うのですが。素粒子も同様の性質をもつようです。
それだけではなく、A地点とB地点とのあいだに遮蔽物があり二か所に通り道があった場合に、普通に考えれば、A地点からB地点へ移動した場合には、通り道のどちらか一方を通ったとみなすべきであるが、素粒子の場合は、両方を通ったと考えざるを得ない、という話です。何とも不思議な話です。
【目次】
鏡の中の物理学
素粒子は粒子であるか
光子の裁判 ―ある日の夢―
解説 伊藤大介
著者 朝永振一郎
1906年東京生まれ
1929年京都帝国大学理学部卒業
京都帝国大学助手、理化学研究所を経て、
1941年東京教育大学(文理大)教授
1952年文化勲章受章
1956~62年東京教育大学学長
1963年日本学術会議議長
1965年「超多時間理論」「くりこみ理論」によりノーベル物理学賞を受賞
1979年没
(2013年11月25日・記)
内容紹介(amazon)
ノーベル物理学賞に輝く著者がユーモアをまじえながら平明な文章で説く、科学入門の名篇「鏡のなかの物理学」「素粒子は粒子であるか」「光子の裁判」を収録。“鏡のなかの世界と現実の世界との関係”という日常的な現象をとおして、最も基本的な自然法則や科学することの意義が語られる。また量子的粒子「波乃(なみの)光子」を被告とした裁判劇は、わかりやすく量子力学の本質を解き明したノン・フィクションの傑作として、読者に深い感銘を与える。
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1976年当時は優れた啓蒙書であったのだろうが、素粒子や相対論についてかなり踏み込んだ新書が数多く出版されている現在からみれば、いささか物足りなさがある。光子の裁判も趣向は面白いが、ドラマ仕立てにしたことでかえって本質が見えなくなってしまったのではないか。
ただ、対称性のかみ砕いた論議、素粒子は自己同一性をもっていない、通常の言葉は日常的な考え方と密接だから純粋言語である数学のみが現象を記述可能、のくだりは面白かった。
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内容は朝永振一郎によるエッセイ風の量子力学入門。高校の物理の教科書に書いてある二重スリットの実験を裁判風に描いた「光子の裁判」は確かに分かりやすく、「考え方」を知るには入門書として最適。だけど、いやしくも化学の端くれを飯の種にしようって人間がこれで満足しちゃあいけないな。この前出だしを読んで心を折られたばかりだけど、次は「スピンはめぐる」でも読んでみるか。
それにしても、日常感覚が役に立たない世界では、こうも思いこみを排して無味乾燥にかつ馬鹿正直に観測結果と論理を積み上げていかなければならないとは。いかに普段考えていることに論理の飛躍があるかを思い知らされる気がする。世界誕生五分前仮説とか、多世界解釈とか「ふーん、SFとしてなら面白いよね」ということを大真面目に主張できてしまい、その実誰も明確に反論できないとは、これは果たして悲劇か喜劇か。
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物理学という言葉に惹かれ、文系の分際で自分でも理解できる本を探していたところ、学校の図書館で司書さんに勧められ借りてみた。
有名な名前に一抹の不安を覚えたものの、読んでみたら面白くて一気に読んでしまった。
ファンタジーの様な視点が新鮮でよかった。
私たちには「当たり前じゃん」って思うようなことも、理系の手にかかれば数式や法則を導き出してしまえる。なんてかっこいいのだろう。
またその数式が、どんな値を代入しても成り立つのが不思議。
世の中は数多くの数式でできている、というのはあながち間違ってはいないのかもしれない。
薄い本だったが、もっと厚くてもよかった。
それと、物理学をしっかり学んだ人には物足りないかもしれない。
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うーん、朝永先生、なんだかよくわかりません。
最近思うのだが、素粒子の世界を比喩で語るのは間違いなのではないだろうか。粒子だからビー玉みたいなものをぼくらは想像していて、位置と速度を同時に決められないビー玉、と言われたら、は? と思うわけだが、素粒子はビー玉ではない。たぶん。
例えば液体というものを知らない生き物に、水を説明しようとする。手近にある岩の比喩で説明してみよう。その岩は形を自在に変え、どんな小さい管でも通りぬけ、地面に置いておくと染みこんで消えてしまい、金槌を使わなくても2つにでも、100万個にでも分けられて、くっつければ元に戻り、だいたい形がなくて、つかむことができない・・・どんな岩だそれは。
素粒子の世界を表現できるのはたぶん、数学という言葉だけなのだろうと思う。ぼくらは数学の言葉が使えないから、朝永先生たちはビー玉の比喩で教えてくれようとするのだが、ぼくらはなんなんだそのビー玉、というところで右往左往するばかり。比喩を使わずに量子の世界を理解しようとするのは、素人には無理なのだろうか。これだけ本があるのだから、素人向けにそれを試してみる本があってもいい気がするんだが・・・
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隔靴掻痒というか、遠回しすぎるような比喩で、理解しにくくなっているような気がします。この分野は量子力学含め生理的にピンとこないことだらけです。
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ノーベル物理学賞受賞者、朝永振一郎による科学エッセイ。
「鏡のなかの物理学」、「素粒子は粒子であるか」、「光子の裁判-ある日の夢-」の3編を収める。
薄いけれども侮るなかれ。さまざま、考えさせる萌芽を含み、あちこちにスイッチがある1冊である。
鏡に関して、以前、少し考えてみたことがある。左右は反転するが上下は反転しないのはなぜか? 要は面対称なのだ。だから立位正面に置かれた鏡は左右反転した像を映すが、もしも頭上に置かれれば上下が反転しているはずである。
対称なのだと思えば、三次元における鏡は二次元だけれど、二次元では一次元(つまり線)の鏡になるはずだし、逆に四次元になれば鏡は三次元になり、n次元ではn-1次元が鏡に相当するはずだ。
そこから派生して微分、みたいな話にもつながりそうだ、とは思ったのだが、自分の数学的能力ではぼやーんとそんな感じ?と思う程度。ああ、もうちょっと数学ができたらなぁと思ったことであった。
この本の「鏡のなかの物理学」も、もしかしてそんな議論の延長線上なのかと思えば、いやいや、稀代の物理学者、もう一段かっ飛んでいる。
左右反転の話もあるのだが、朝永がさらに例題として出すのは「電磁の鏡」であったり「時間の鏡」であったりする。
「時間の鏡」は時間を逆行して映像を示すものだが、さほど違和感のない像が映し出される場合もあれば、壊れたガラスが元に戻るような、怪しい事象も想定される。とけて流れた氷がだんだん凍るということも、現実的には起こらない。
さて、それはいったいどうやって説明がつくのか? 「神様」は「ぎっちょ」であるのか=偏りがあるのか?
朝永はここで3枚の鏡を使った説明をする。
このあたり、対称性の破れといった話にもつながるのだろうか。
さて、このあたりまでは、ところどころ「む、わからんな・・・?」と思いつつも、どうにかこうにか「感覚的」にも理解できそうであるが、残り2編はなかなか手強い。
素粒子は粒子なのか? 光は粒子なのか、波なのか?という問題である。
特に、「光子の裁判」の方では、スリット実験について、かなり詳しく解説している。2つのスリットを光子が同時に通り抜けたと考えざるを得ない実験結果に関してである。波乃光子という擬人化された存在が裁判を受けるという形式で、感覚的には理解しにくいが、スリリングな理論が展開されていく。
これは、シュレーディンガーの猫にも通じていく話だろう。
真に理解するには、数式的に理解する必要がありそうだが、要は電子や光子はそれぞれが、一つのベクトル空間中のベクトルで表される、ということのようである。それぞれの粒子はx軸でもy軸でもない中間の方向を向いている。観測すれば、つまり強引にx軸、y軸に割り当てようと試みれば、一義的にその位置は決まるけれども、しかし、「観測した」というそのこと自体が、粒子のもとの状態を著しく変えているわけである。
さて、2つのスリットを同時に通り抜けたと「言い張る」波乃光子は、嘘をついた罪で有罪か? いや、それとも自身の「感覚」に囚われた我々が有罪か?
それはまた、��のような問いにもつながっていく。
素粒子物理は宇宙の真理への扉を開くのか?
我々の生きている現実世界と、素粒子の微視的な世界でなぜ一見非常に違った現象が起こるのか? それらすべてを統一した法則の記述は可能なのか?
ここに呈されている問題は、具体的には素粒子論であり、量子力学の疑問である。
中には、オープンクエスチョンで終わり、答えが読者にゆだねられているものもある。
おそらく、そこには科学の根底に関わる視点がある。すなわち、科学は与えられた問いにイエス・ノーで答えるものではない、ということだ。突き詰めて突き詰めて考え、自らが問いを立てること自体に意味がある。
そしてまた、それはもう一つの重要な問題提起につながる。科学は役に立つものでなければならないか、ということである。科学のおかげで日々の暮らしを豊かになっているという見方もあれば、あるいは逆にいらぬ進歩のせいで昔はなかった問題が生じているという見方もできる。だがしかし、本当にそうした近視眼的な見方のみでよいのか?
役に立つ、役に立たないは別として、科学というのは世界の不思議に取り組むもの、あるいは取り組もうとする姿勢自体のことではないのか。それこそが科学の持つきらめきであり、人の「可能性」ではないのか。
半世紀前の偉大な物理学者の問いかけは、現在でもなお、深い湖のように静かに横たわっている。
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素粒子の特性を、一般人にも馴染みのある喩えを使い、非常に明晰にわかりやすく説明した文章が3つ。本当に頭のいい人は複雑な物事を噛み砕いて説明することができるという例の、まさに最高の見本で、特に「光子の裁判」は見事というほかはない。実際、理論の組み立て方は裁判のやり取りと似ているのだと思う。仮説が被告で、検証作業が弁護士と検察のやり取りに当たる。弁護士が勝てば新しい理論は認められたということに。
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科学の本質について考えさせてくれるのと、イメージのつきづらい量子力学についてイメージを持たせてくれる。科学の接し方として、役に立つかどうか以外の方向性がある。それぞれの法則に共通した決まりごと、自然観を追求したいということ。量子論を勉強する前に読んでおきたい。
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最近の若い世代の人にとって、朝永振一郎という名前にはあまり馴染みがないと思う。自分もつい最近まで知らなかったし、今でも具体的に何をしたのか問われると答えに窮するだろう。朝永はノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者で、かの有名な原爆の父オッペンハイマーも評価していたそうだ。どちらかというと、海外の方で評価が高そうである。
本書はその朝永が書いた入門書である。言い回しがいかにも昭和的で回りくどかったりして、その点はあまり好きではないが、素粒子の説明は大変分かりやすく、さらに最後の「光子の裁判」は秀逸だと思う。物理学に詳しくなくとも、理論物理学者が日々どのように思考をめぐらせて新たなる理論を打ち立てていくのかが分かる。朝永のような科学者は、日々脳内で一人裁判を展開して議論を戦わせていたに違いない。
読んでない人は、光子の裁判だけでも読んでみると面白いと思う。
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光子の裁判
波野光子による二つの窓のある建物への侵入事件裁判。
文章の言い回しが古いので少し読みにくいが、光の二重性を面白い物語にしている。
最後に明らかになった弁護人はディラック。
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ノーベル物理学賞受賞者の
朝永さんの本
鏡の中の物理学
素粒子は粒子であるか
光子の裁判
の3本構成で
それぞれ
ミクロの世界では、
右左に区別がある
波と粒両方の性質をもつものがある
光子の二重スリッドの問題
といった、マクロのとの違いの
一番初歩であり、不思議な部分を数式は使わずに、ユーモラスに紹介しているかんじ
そうはいっても、一般の人が読むには少しとっつきづらそうな気もするし
物理を大学でやった人だと、知った内容だけってかんじになっちゃいそう
復習というか、自分が人に紹介しようと思うときに多少参考にはできるかな?てかんじかな
特別おすすめはしないけど、読んだら読んだでおもしろいかな