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磯崎新の文章をはじめ、篠山紀信の写真や三宅理一訳のルドゥーの文章、八束はじめによる歴史的記述などで幅広くルドゥーによるショーの製塩工場を紹介する。ショーはパノプティコンに見えはしないか、という僕の疑問は磯崎によって解決された。磯崎はバロックとパノプティコンの過渡としてショーの半円形プランを捉えている。パノプティコンでは中心と周縁は見る−見られるという関係において、周縁が中心から常に見られる(ように思い込ませる)ことが肝要なのに対し、バロックの中心は王や神など権力者が位置する場所であり、中心が周縁を見渡すことより周縁から中心が常に見えることが求められる。つまり、見る−見られるという関係において両者はまったく対照的である。それではショーにおいてであるが、周縁である労働施設や住居はたしかに中心である監理施設へと開口部を正対させているが、暗く、中心から建物の内部状況を把握することは不可能に近い。一方で監理施設は前面をあの有名な角柱と円柱を重ね合わせたうような柱からなるポルティコで飾られた、求心性の強い建物となっている。このことから磯崎はショーの監理施設の中心性はバロック的中心であると考える。しかしバロックの平面は、その中心をパースペクティブを利かせ引き伸ばし、壮大化する点に特徴があったはずである。ショーの平面は純粋幾何学としての半円に作られていてこれに当てはまらない。プランニングにおけるそっけなさというか冷徹さは、たしかにパノプティコン的要素を胚胎しているのである。