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Edward Said 「Freud and non-European」を読んだが、こちらを読んでなかったと思いだし、また「Moses and Monotheism」を今後読むために読んだ。
創世記において、エジプトに住む事になったイスラエルの子たち。しかし、その後イスラエルの王は彼らを追放しようとする。そのとき、モーゼはヤハウェの声を聞く。まぁ、一物語ですよ、本当に。単調だから、面白くはないし。教養に過ぎず。
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登場人物が増えたりして、内容が把握しづらい。煩雑。なので創世記より星一つ減。しかし最後以外はたのしめた。もっと歴史の勉強をすれば、違った印象にもなるのだろう。
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うん、がんばった。私。
と、とにかく、最後(新約)まで読む!目標。
第一印象は…「良くデキた歴史書」?
「当時」は行間を読む…みたいな。
ほんと…何で、信じるんだろう?
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旧約聖書でもっともドラマなパート、らしい。モーセのエジプト脱出、割れる海の奇跡、マナ、十戒。異教徒(?)のぼくでも知っている有名エピソード満載。契約の書を収める「箱」がLost Arkだな。作り方がこんなに克明に書いてあるとは知らなかった。たいへん面白かった。
面白かったが、神様は徹頭徹尾イスラエルだけの神様であって、神様というより信賞必罰の絶対君主みたいな感じだし、王様というより大量破壊兵器みたいでもある。創造主だというのならエジプト人だって自分で作ったんじゃないかと思うが、なんでこう扱いに差があるのだろう。うーん、神さま、私はあなたがよくわかりません。
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(1977.12.25読了)(1977.11.20購入)
*本の帯より*
エジプトで迫害を受けていたイスラエルの民は、モーセに率いられてこの地を脱出し、シナイの野に導かれて神との間に契約を結ぶ。
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「創世記」に続き、この「出エジプト記」を読んだ。
しかし相変わらず神=ヤハウェの態度が厳しい。
厳しいというか理不尽なのかな。
理不尽そのもののようだ。
一貫した正しい答えがあるようで、ないというか。
そういった点では、ヤハウェは仏教でいう「宿業」そのもののようにも思える。
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創世記に続いて読書。海の奇跡、モーセの十誡など知っている場面を話の中で読むとまた印象が変わった。モーセは有名だが彼を助けるアロンのことは初めて知った。エジプト人への災禍には複雑な思いが湧いた。後半のシナイ契約は現代で守ることは不可能だと思うけどそのあたりをどう解釈しているのだろう。牛、山羊、羊などを捧げるのも現代はされていないか。
まず原典があってそれをギリシャ訳などを参考にしつつ日本語に訳したものだから原典のニュアンスとは相当違うことは必然だろう。日本語の持つイメージにどうしても縛られるし。資料の分析などもそこに密接に関係するのだろうが正直解説は全然理解できなかった。新共同訳も読んで比較したい。
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読了。旧約聖書のいわば第二部。有名なモーセの波割りと、シナイ山での十戒など。後半は、天幕とか台座のつくりかたとかに何十ページも割かれていて我慢できずに読み飛ばし。聖書はウェブでも読めるし、手軽なものだが、聖書より高等批評の方が大事なので、注釈と解説を主にした。(高等批評に対し十分に注意を向けていれば、改めて聖書はより良いものになる)。読む前に、創世記を二度読んでおさらい。一部の民にとっては、エジプトで奴隷のまま死ぬか、解放されて神の手によって死ぬか、の二択である。神の像を崇めたという理由でモーセの指示により殺害された人数は3000人。多過ぎる(まぁ史実ではないだろう)。いわゆる過越の祭りの起源に関する記述。過越、過ぎ越しとは、ヤハウェ(天使とも)が殺しにやってくるので、我が家を過ぎ越される、ということのようだ。鎌を持った死神にしか思えなかった。十戒の「汝殺すなかれ」のトリック。「殺し」はダメだが、罪人を「処する」ならOKとのこと。また「殺すなかれ」は、厳密には「殺すことはありえない」と訳される方が近いとのこと。ここは面白いと思う。「してはダメ」は禁止だが、「ありえない」はそのような行為自体の存在の否定に近い。神の名ヤハウェは存在に近しい意味を持つ言葉だから、こういったところに厳密な聖書の意味が隠されているように思えた。
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偶像崇拝の禁止と一神教、「目には目を〜」の根拠はこれだったのか。安息日にちゃんと休まない人は死ぬという記述もあったりして、恩恵も大きければ罰もまた大きいのが神様なんだよな、というのを戒めのごとく思い出した。
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エジプト人にとって当時家畜を飼う職業は忌み嫌われており、エジプト人とは隔離された場所ゴシェンで過ごさねばならなかった。ヨセフはそれを利用して、エジプト人とイスラエル人が交わらないよう、イスラエル人だけで栄える環境を作ろうとした。
エジプトで信頼を得ていたヨセフが死に、ヨセフのことを知らないエジプト人によってゴシェンにいた奴隷化されてしまった。
『出エジプト記』ではモーセについて語られる。歴史の授業でならっただけでは彼が非常に崇高ですばらしい人間そのものというイメージがあったが、ヨセフほどではない。
(ex.モーセは同胞のヘブライ人がエジプト人に虐げられているのを見て、そのエジプト人を殺してしまう。また、主との対話で自分は弁がたたないからほかの人に任せてほしいと使命を断ろうとしたりするのはなんとも弱腰で意外だった。)
同時に、このあたりから自分の中で、ヘブライ人かそうでないかがかなり重要であり、ヘブライ人でなければ容赦なく殺しても問題ないという感じがして恐ろしくもあった。これが「選民思想」ということなのだろうか。
モーセの律法(十戒を含む神との契約)を全て正確に実行する能力は人間にはない。それは原罪(アダムとイブが犯した罪)の影響によるものであるが、新約聖書では人間の心に聖霊が宿り、その聖霊の助けによって神との約束の実行が可能となる。これが旧約と新約の違いである。