紙の本
漱石の「自己本位」は新自由主義じゃありません。
2007/04/18 12:05
12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
漱石や鴎外の生きた明治時代、国費でヨーロッパに留学できるのは限られた超エリートだけであった。今のように高校生でも修学旅行で海外に行く時代ではない。山崎正和は有名な『鴎外・闘う家長』のなかで、生ま変わったばかりのひ弱な国家=日本が、留学生たる鴎外(森林太郎)に「頼むよ」と手をかけているように思われたと書いている。そして医学を専門とした鴎外にとって留学の意味は自明であった。先進国からすぐれた知識を学び、それを祖国のために役立てればいいのである。
しかし漱石にとって留学の意味は必ずしも明瞭ではなかった。なぜなら彼の専門とする文学は医学と違ってその効用がはっきりしていないからである。文学なんかやって食っていけるか、というのは昭和になっても放蕩息子に頑固親父が投げかける決まり文句として通用した。しかし先進国たるヨーロッパは効用のはっきりした学問だけでなく、文学や美術などの分野でも応分の投資を行っていたから、日本も文学分野で留学生を送ることになった。鹿鳴館で外見だけヨーロッパを真似て失笑を買った政策とどこか共通していたかも知れない。
漱石の悩みは、そうした背景の中で見れば明治の日本にあって生まれるべくして生まれたと言えるだろう。彼は結局は帝国大学の教員ではなく一介の小説家となったが、当時帝大教員と小説家では月とスッポンくらいの違いがあったのである。無論向こう見ずで作家になったわけではなく、朝日新聞社社員として安定した給与を得られるという確証があってのことだが、その頃の立身出世の観念からすれば明らかに漱石の人生行路は世間の価値観から逸脱していた。
といって、漱石を今風の「自分の好きなように生きる」という観念の先駆者と思うのは早計である。文学分野であれ、当時稀な国費留学生として英国に行ったからには、応分の勉強をしなければならない。矛盾しているようだが、私的な分野である文学を勉強して何らかの公共性を追求しなければならないのだ。明治人・漱石はそうした公共性を自明のこととして受け入れていた。
『私の個人主義』にはそうした漱石の考え方がよく出ている。ここで言う自己本位とは国家や公共性という観念が今とは比較にならないくらい強かった時代におけるプライヴェート宣言である。今どきの新自由主義的な自己本位とはわけが違う。個人主義という言葉自体を悪とする風潮が強かった頃の講演なのである。漱石はこの講演の後半で恵まれた階層である学習院(学習院大学ではない。学習院が大学になったのは戦後である)の学生に対して英国の例を引きながら、自由と秩序の両立を訴えているし、また金力には責任が伴うとも述べている。つまりノブレス・オブリージュ(高貴なるがゆえの義務)だ。これまた「自分さえよければ」の新自由主義とは相容れない。
漱石はこうして時代の矛盾のなかで苦しみ悩みながら生きた。そして49歳でこの世を去った(このくらい知っておかないと一流大学には受からないよ、受験生諸君)。
昔の人の文章を読むというのは、こういうことである。時代には時代ごとの支配観念があり、人はそれに従ったり逆らったりしながら生きる。書かれた文章もしかり。背景をふまえて読む能力がないなら、古典なんか読まないことだ。左翼がなぜダメだったかと言えば、何でも階級史観で捉え、それにはまらないと「保守反動」で済ませていたからだ。時代は変わった。そうなると逆に分からないことは何でもサヨクで済ませる輩も出てくる。昔の左翼と今の新自由主義者には、実は相当に重なる部分がある。注意しよう。
紙の本
そんな齢になるまで気がつかなかったのかよ金之助さんよ!
2007/04/10 16:50
25人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私は夏目漱石の「私の個人主義」を読んでほとんど驚倒した。いい年したジジイがはずかしげもなく、こんなことを吐露しているのである。「私は自己本位という思想を得て以降、大変強くなりました」。なんでも夏目漱石は何をするにも他人の目が気になり「こんなことをいったらアノ人はなんて思うだろう」とくよくよ考え、いいたいこともいえず、絶えず悩んでいたそうだ。それがこの齢になって、ようやく「自分は自分。他人は他人。他人にどう思われようと自分が良いと思うことは良いのだ」と思うに至り、長年のストレスから開放されすっきりしたと、学習院大学の学生を前に自らの心境を得々と語っているので去る。おいおい、夏目金之助さんよ、そんなこおとに気がつくのにそんなことに気がつくのに夏目さんともあろう人が、ちと、時間かかりすぎちゃうの? 私なんて「自分本位」の心境に既に小学校3年の時点で到達していたぜ。そんな他人の目ばかり気にしているからロンドンで精神病になったんじゃないの、胃潰瘍をわずらって、それが基で命を落としたんじゃないの。宵越しのストレスは持つな。これが私から夏目君へのメッセージだ。しっかりと受け止めたまえ。それにそもそも「自分本位」でなけりゃ、bk1に書評なんかかけないぜ。
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「現代日本の開化」「私の個人主義」などを収録。「自己本位」など漱石のベースとなる考えがたくさん詰まっています。
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漱石の講演会や新聞での評論、日記や書簡などが収められている本。漱石の考えを直接的に知るには最良の本だと思う。明治時代の日本や日本人について語っている内容は第二の明治時代と呼ばれるグローバル化の中にいる現在の日本や日本人にも悉く通じている。ますます漱石は偉大だなと思うようになった。
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この本に収録されている講演って、本当は漱石のべらんめえ口調で語られたのでしょうね。
録音機材が当時に有ればなあ。
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何かを創り出そうともがいている人、
真似ばかりしてしまうと悩んでいる人(自分です)に
『模倣と…』をそれとなくお勧めしたい
背景のないオリジナルなんてもろいもんだなとひしひし思う
読後、結構へこみつつも夏目節に励まされた…気がする
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夏目漱石の公演記録、日記、書簡などをまとめた本。教師をしていた漱石が当時の教え子達に向けて書いた「愚見数則」は学生のうちに一度は読んでおきたい。甘えた人生観に鞭をいれられるようです。月に一度は読み返したくなります。
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「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「こころ」
どれもこれも夏目漱石の代表作であるけれど、
まったくぴんとこない。
「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。
情(じょう)に棹(さお)させば流される。
意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。
とかくに人の世は住みにくい。」
この文をよんですこし漱石がすきになる。
「私の個人主義」
「現代日本の開化」
講演を文章化したものを読んで、漱石の良さがはじめてわかった。
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中学校の読書感想文のテーマに「ぼっちゃん」が指定されて以来、小説家としての夏目漱石って嫌いでたまらないのですが、やっぱり近代日本を代表するインテリであることには間違いありません。
そのことを確信してしまった本がこれ。
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マードック先生の『日本史』:
”マードック先生のわれら日本人に対する態度はあたかも動物学者が突然青く変化した虫に対すると同様の驚嘆(きょうたん)である。維新前は殆んど欧洲の十四世紀頃のカルチュアーにしか達しなかった国民が、急に過去五十年間において、二十世紀の西洋と比較すべき程度に発展したのを不思議がるのである。”
日本の進歩の成果を西洋諸国に評価してもらえるかどうかを問う夏目漱石、勝手に日本の未来を悲観するマードック先生、二人とも大まかなところの予想はあたってるきがする。これは私が勝手に日本を憂いてるから。
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母校での講義を文字に直したもののようです。
以下は、中の「模倣と独立」のかんそうです。
そのひとは、人間全体を代表しているのと同時に、そのひと一人を代表している。
そこから発展して、
人には、人の真似をしたいという本能(「流行に赴く」と表現されてます。単に圧迫されて嫌々従うのではないということ)と、独立自尊の傾向を併せ持つ。
そういうひとがいる、という意味じゃなくて、一人の人間の中にその両者が存在している。
ということが面白おかしく漱石節で書かれてます。
この人、話し言葉になると余計にリズム感の良さが際立つ気がする。
下駄禁止の話、真宗の親鸞、文展、イブセンの「人形の家」のノラ、のっぺりした紳士、学生のいたずら、例をいっぱい挙げて、「模倣と独立」がどっちも大事だと主張しています。
この話を読んで、カントが似たようなことを言ってたはずと思って本棚をあさり、
「世界市民という視点からみた普遍史の理念」という論文の中にみつけました。
カントが書いてたのは、
人間には、集まって社会を形成しようとする欲求と、
孤立して全てを意のままに処分したいという反社交的な欲求が同時に存在している。
その対立関係が、最終的に秩序を生み出していく。人類を発展させていく。
ということでした。
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夏目漱石は森鴎外と同様に、西洋文明を丸々コピーすることには反対していた知識人であった。今や、西洋的考えを否定することはできなくなってしまった。それほど、日本の中に多くの西洋物が存在する。厳密に言えば、日本は、純日本的なものと中国・朝鮮などの東洋諸国の文化が日本式になったいわばハーフの文化が存在していた中に、明治になって外科手術的に西洋文明を上書きしてしまったと言える。
今まではそうやって外のものを自分たちの良いように上手く吸収して日本になじませる(言わば、守・破・離のような)形式で、中国や朝鮮などの文化を自分たちのものとしてきた。しかし、西洋文明は今、十分に消化されているのか?そもそも、西洋的な考えは東洋とは相容れない部分が多い。例えば、排中律や二項対立。これらは仏教的な考えには存在することが難しい概念である。排中律でどうやって生=死を証明しろ、というのか。
西洋がダメで、東洋が素晴らしい、という議論をしたいのではない。それでは、Binarismにおける第1項と第2項との立場が入れ替わっただけでしかない(「美が望まれるべきで、醜は避けられるべき」が、「醜が望まれるべきで、美は避けられるべき」に変わったところで、根本的なBinarismの構造は変わらない。Parallaxでしかない)。
今は、そこの所を再考するべきなのかもしれない。西洋がどうだ、とか東洋がどうではなく、日本にとって、どう西洋・東洋を吸収すればいいのか?を考えるべきなのではないか。
だから巷に出ている、勝間和代のような西洋に傾きすぎた人間は、ちょっと危険だと思う。そして、自分の親が子どもだった頃やもっと前の頃(「古き良き日本」とでも呼べばいいのか?)の考え(伝統?)を日常的に触れるのが難しいのはさらに怖い、ように思う。
抽象的であまり現実味がないが、こんなことを考えさせるような本だった。
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小説家として好きな漱石が西洋文明について述べた一冊。高校生のときに読んで感銘を受けてしまった。「個人主義」とな何なのか。小説にはユーモアがありながら、進んだ思想の持ち主でもあったことがうかがえる一冊。
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烏兎の庭 第一部 書評 5.27.04
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto01/yoko/kisoy.html
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夏目漱石の講演や評論文をまとめた本。
『私の個人主義』は非常に論理的で明快。論理的思考の訓練にもなります。100年近く前の文章であるということを差し引いても読みやすく、頭に残りやすい論旨である。他人の個性を尊重しなければ本当の個人主義にはならないというのは今も続く命題である。国家が安定しているときは国家主義よりも個人主義に重きが置かれるという主張にも納得。
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