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下鴨神社に行って帰ってきて読みました(鴨長明の「方丈」がある)。
無常観が貫かれていて、読んでよかったです。
疲れたときにはここに戻ってこればいいんだ、という安心感
いろんなものを捨ててね。
下鴨神社は糺の森の雰囲気と合わせて、高野山に似てました。
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面白かった。やはり方丈での囚われることのない生活は憧れる。
何がいいって、意外と緩いこと。たまに噂を聞いたり下に行ったりするのは別にいいし、どうやら乞食と言われてちょっと悔しくなるのも良いらしい。
そこも含めて執心しないという非常に理想的なあり方。
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身の程を知り、何事にもしがみつかず、自然を愛で、足るを知る生活。
が、多くは「無常」に耐えられなかったのか、余剰生産は搾取を生み出し、もはや引き返せないようになった。
現代の無常観は、「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」ではなく、「行く川のながれは絶えずして、ほぼもとの水である」という、無常というより空虚に近い。
同じ「むなしい」でも今と昔ではその意味が異なる。
鎌倉時代、大きな火事、嵐、地震を通して、鴨長明は「完全なものなんてねぇな」って思って、無常を知り、足るを知った。
が、現代(の一部)では、そういったことが起きた時に、「完全なものをつくるしかねぇな」と思っている。無常を知らない。
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2008年3月9日に一度、通読しています。
今回は、二回目です。
(2012年6月26日)
もうすぐ読み終えます。
これは、2012年にこそ、読むべき本です。
読もう。
(2012年8月6日)
ラストがよいね。
信仰に入りきれないから、文学。
(2012年8月7日)
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とりあえず一般小説というカテゴリに入れたけど違うな(^^;)
それはあとで直すとして・・・
『ゆく川の流れは絶えずして もとの水にあらず よどみに浮かぶ泡沫は かつ消えかつむすびて・・・・』
というフレーズは中学だか高校だか、古文の時間に皆さん一部は触れていると思います。私もそうでした。
当時の私は人付き合いが苦手で友人も中々作れず、ひとの輪に飛び込んでいけないのを美化したかったんでしょうなぁ。
無常とか孤独とかがすごくカッコイイと思っていてこの方丈記の一説がいたくお気に入りでした。
さりとて、全文きっちり読みこなしたわけでもない辺りがお粗末さまでしたー。
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2012年は、方丈記が書かれてからちょうど800年らしい。
こないだ、8月5日付の朝日新聞で特集があって驚いた。しかも漱石とのつながりで。
24歳の漱石が、ディクソンに頼まれて方丈記を英訳したのは1891年。
その当時の書簡を読んだりすると、どんな心境だったのかわかって面白い。
鴨長明は、たぶんものすごい寂しがり屋だったんじゃないだろうか。
わざわざ隠遁しておきながら、子どもと遊んじゃったりするし。
ほかの本(無名抄)とかでも、まだ歌のことグジグジ忘れらんなくて、かわいいよな。
長明の、人嫌いで、でも人恋しいカンジ。
この味がわからなくては。
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「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
冒頭が非常に有名で、そのあまり本文がさほど注目されてこなかった古典だろう。
東日本大震災がきっかけとなり、災害文学としての側面からスポットライトを浴びた。
清少納言『枕草子』、吉田兼好『徒然草』と合わせて、日本三大随筆とされる、鴨長明(かものちょうめい、かものながあきら)の作品である。
『繪本 平家物語』を読んだのと、今月のNHK 100分de名著に取り上げられているのとで、読んでみた。
今年、執筆800年の節目でもある。
思っていたよりも短い作品である。
本書は注釈付きの原文に続き、平安京の地図、補注、底本となった写本の影印と翻字、解説を収録している。本文はわずか30ページほどだ。
前半は前述の冒頭に続き、都を襲った火事・大風・遷都・飢饉・大地震の様子を簡潔に冷静にまとめている。そしてこのように安寧のない有様なのであるから、世俗の贅沢に(特に「住」に関して)汲々とするのは愚かではないかとしている。
後段はみずからの生い立ちと現在の境遇を記す。現在では京都市伏見区になる場所であるが、そこに簡素な居を構え、「住めば都」と暮らしている。この快さは住んでみなければわからない、と。
魚は水にあかず。魚にあらざれば、その心を知らず。
鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば其の心を知らず。
閑居の気味(きび)も又同じ。住まずして誰かさとらむ。
なんてあたりは爽やかにすら感じる。
解説では古来、偏屈な人物とされてきたように記されているが、本当にそうなのかな・・・?
本文だけ読むと、合理的で論理的、さっぱりした人物のように思える。
古来言われてきたってことは、それなりの傍証があるのかもしれないが、800年も経ても、「この人は偏屈だったんだ」とか言われるのは嫌だろうなとちょっと思ったりする。
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すべてを捨てて
『シンプルに生きよう』と決め、ひとり悠々自適に過ごしてきたけど、
結局『シンプルに生きる』ということを捨てられない自分に気がついた。
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中学校の授業で冒頭だけ読んだことがあったので、全文読もうと思って手に取りました。
昔も今も、日本の災害の多さは変わらんのですね
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恥ずかしながら序文しか読んだことがありませんでした。
俗世を捨てて安住の場所を見つけたのかと思ったけど、長明は未練たらたらなんですね。
出家した後も悩み続ける人間臭さが共感できます。
きっと僕も長明のように悩み続けるだろう。
800年近い昔の作品だけど未だに強烈に伝わってきます。
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ゆく河の流れは~で始まる随筆。古典の解説本みたいのは読んだことあったけどそのものを古文で読んだことはなかったので、ネット上の解説とにらめっこしながら。徹底して無常観を貫けるのも、ある意味強い意志の表れで、単に究極ネガ思考というわけじゃないよね、と。
中高時代だったらその生き方を表層的にカッコいい!と受け取って斜に構えたりしたんだろうな、と思うと多少は年齢を重ねた甲斐があったと思うwでも無駄な欲を捨てて死生を考えるにはまだまだ早いので、しばらくはここまで無常に浸らなくてもいいやw
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”ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。・・”
下段の注釈に頼りながら、読んでいきます。
私達の住まいも、かりそめの宿?なのでしょうか・・
思いもかけぬ、大火・大風・遷都・飢餓・地震・・
一文づつは読みやすく、心の中を垣間見るようでした。
かりそめの宿も、何年も住み続けると故郷の古びた家となって・・
自分が、どのように生きていきたいのか・・考えることが山積です。
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人口に膾炙した「ゆく河の流れは絶えずして」に始まり、「桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」と閉じられる『方丈記』は、その全編に中世的無常観が漂っている。同じ時代を生きた藤原定家は、奇しくも『明月記』の治承4年(福原遷都の年)の項に「紅旗征戎、吾ガ事ニ非ズ」と記したが、長明は人々の悲惨な境遇にも傍観者ではいられない。例えば、元暦2年に度々起こった地震に際しても、子を喪った親の悲しみに共感せざるを得なかった記述などに顕著である。真の天才芸術家(定家)と、苦悶のディレッタント(長明)の違いであろうか。
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簡単にレビューを書けるような作品ではない。特に出だしは秀逸である。読む度に心に響くものがあり、新しい思いが込み上げる。単なる観察眼の鋭さ、巧みな言葉遣い、短歌的な表現力、だけでもない。自然の猛威、災害の悲惨さなどの無常観だけでもない。これからも何度となく読み返すことになるでしょう。
方丈記 鴨長明 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
A Japanese Thoreau of the Twelfth Century
Minakata Kumagusu and F. Victor Dickins
The Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland
(Apr., 1905), pp. 237-264
英訳『方丈記』
12世紀の日本のソロー
南方熊楠・ヴィクター・ディキンズ 共訳
『王立アジア協会雑誌』1905年4月号に発表
http://www.minakatella.net/letters/hojoki0.html
YouTube - 方丈記 鴨長明
https://www.youtube.com/watch?v=wlH54eIAErE
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あまりにも有名な書き出し。和漢混淆、対句仕立ての文章は拡張高い。
漱石や鷗外が、傾倒していたのもうなずける話だ。『草枕』の冒頭はぜったい意識してるよね。
何より、読みやすい。辞書がなくても何とかなる。それに短いのもいい。だけど何度でも読めるところがまたいい。どの一句をとりあげても名文ですな。
「世にしたがへば、身苦し。したがはねば、狂せるに似たり」人の世を言い表してるよなぁ。とはいえ、働く場面ではいかんです。物事を仕上げるには執着しなくちゃね。