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現代、成功者のレールは、忙しく働き、経済的に成功する という方向に向かっているけれど、そもそも、それを目指すのが正しいのか?
常に、そんなに頑張りまくらなくても、ゆったり自然に囲まれて地球の豊かさを感じながら生きていく という選択も本当に正しい答えのうちの一つなのでは。。?
と悩める。。
人間は常に己の愚かさの故にわざわいと苦悩に苛まれていることに気が付かない
農場に縛られるのも刑務所に縛られるのもほとんど違いはない
我々は精神に必要な滋養物に心を配ることをせずに、肉体にびっくりな滋養物を買うのに出費している
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文教大学広告企画制作サークルの発行誌 『FOGPARTY』Vol.6 において、「本~めくり、ひろがる、せかい」の特集に応じ、学生の皆さんから選ばれ紙面にて取り上げられた図書です。
企画コーナー「成長する本棚」(2Fカウンター前)にて展示中です。どうぞご覧下さい。
展示期間中は貸出利用は本学在学生および教職員に限られます。【展示期間:2012/11/26-12/25まで】
湘南OPAC : http://sopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1261965
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ボストンの近郊、コンコードの町に近いウオールデン。
その池のほとりに、2年3カ月住んだことで、物質文明と精神文明に
ついて、深く考察した作者。
自然の中にいることで、いろんな気づきがあり、物にかこまれた世界に
違和感を感じる。そういえば、山口智子も、南米を旅行した際、
そこで、自然に生きている人たちと出会い、日本に帰ってから余計なものを
捨てたという。
あの、ステイーブン・ジョーンズも「禅」に目覚める中でシンプルなものに
惹かれていったという。
自然の中でゆっくり考える時間も人には必要。
しかし、著者は、森の生活を2年あまりでやめた後どうしたのだろうか?
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ソロー『森の生活』講談社学術文庫 読了。ウォールデン湖畔での自給自足の2年間を綴ったエッセイ。質素な生活を過ごしながら、人生とは何か思索にふける。自然観察の描写・比喩に多彩な文学が用いられており彼の博学さを窺い知ることができる。だが、洞察が深いゆえなのか、少々冗長なのは否めない。
2010/11/19
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19世紀のアメリカで、ウォールデンというインディアンの老女に由来する湖の辺りで自給自足の生活を始めた主人公のエッセイ。四季の移り変わり、湖を訪れる釣り人や野良作業をするカナダ人などとのやりとり。ローマの哲学者やインドのヴェーダ、ギリシャ神話など古今東西の古典を引用し、現代(19世紀)の忙しなさ、虚栄の虚しさを見つめ、思索を深める様子が綴られる。
アメリカにこんな繊細に四季の移り変わりを慈しみ、古今東西の書籍や思想に親しむ知性と魂があったのだと知る。 Waldenは、森の生活と訳されるけど湖の生活だ。実際は。
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今から150年前に、ボストン近郊の湖のほとりに小屋を立てて隠遁生活をしていた著者の、日々の自活記録。
エコロジーっぽい雰囲気だけれど、ソローがスゴいのは、周りのブームに流されてやっていることではなく、完全に自分の独創で、先駆者としてすべてをオリジナルで考えて行動しているところだ。
読んでいて強く感じるのは、この人は、かなり偏屈でプライドの高い理想主義者だったんだろうということだ。口調がやたらと偉そうなのは、翻訳のせいもあるだろうけれど、それにしてもこの、人をバカにしたような上から目線の説教くささは、読んでいてツラかった。
言っていることがやたらと極端でアナーキーなのだけれど、ところどころ、非常に深く共感を感じるところはある。
「一緒にいると鬱陶しいが、言っていることは非常にまっとうでタメになる」頑固爺いを供に、しばし森の中で生活するという疑似体験が出来る感じの本だった。
われわれは、家を建てる喜びを、いつまでも大工にまかせておいてよいのだろうか?
結局、建築ということは、大部分の人々の経験から判断して、どれほどの事に相当するのであろうか?(p.68)
五年以上もの間、私は自分の手仕事による労働だけで自活の生活をしてきた。そこでわかったことは、一年のうち六週間ほど働けば全生活費が稼げるということである。だから私は冬の全期間と夏の大半を自由に自分の研究にまるまる当てることができた。(p.100)
要するに、私が確信していることは、信念と経験から判断すれば、われわれが質素で、賢い生き方さえすれば、この地上で自分一人養っていくのは、さして辛いことではなく、楽しいことだという事実である。(p.102)
人の優しさというものは片寄っていたり、一時的気まぐれな行為ではなくて、無償にして、自分で意識することのない、誠実な心の豊かさのことでなければならぬ。これこそが、あまたの罪を覆う慈愛というものである。(p.110)
私が森へ赴いたのは、人生の重要な諸事実に臨むことで、慎重に生きたいと望んだからである。さらに、人生が教示するものを学び取ることができないものか、私が死を目前にした時、私が本当の人生を生きたということを発見したいと望んだからである。人生でないものを生きたくはない。生きるということはそれほど大切なのであるから、やむにやまれぬ事情がないかぎり、諦めることはしたくなかった。(p.139)
プラトンの名前を聞いて、彼の著作を読まずにいられようか?まるでプラトンがこの町の人で、私が彼に、隣人でありながら一度も会わず、しかも、彼の話しを聴くこともなく、彼の言葉の英知に耳を傾けることもしない、というわけだ。(p.163)
私の生活のやり方には少なくともこんな利点があるのだった。つまり、他の人々はわざわざ外出して、社交とか劇場に行って楽しみを求めなければならないのに、私の生活そのものが私の楽しみであり、少しも新鮮さを失わないということだ。(p.172)
一般的に社交というものはつまらないものだ。互いが会っても別に目新しい、有益なことを身につけるほど時間的余裕もないのに、短時間しばしば会ったりする。一日に三��の食事で顔を合わせ、互いに古くて黴くさくなったチーズをあらためて味わう。こんなわけで我慢までして頻繁に顔を合わせたり、また、互いが喧嘩でも始めないようにするために「礼儀作法と礼儀正しさ」などと呼ばれている、ある心構えのような規則をつくることに同意しなければならなかったのである。われわれは郵便局で顔を合わせ、懇親会でも顔を合わせ、毎晩のように暖炉のそばに集まる。われわれは人が集まる所で生活し、自分勝手に振る舞い、互いに過ちを犯している。こうして、互いに敬意を失ってゆくのだと思う。すべての大切で、心の通ったコミュニケーションを行なうには、そう頻繁に会わなくても事足りる。(p.205)
人間が肉食動物である事は非難されてよいのではないだろうか?なるほど、人間は他の動物を食べることによって、その大部分の生活を維持することができ、かつ、そのようにしているが、これはみじめな生き方である。(p.318)
私は長い間、水を飲むことに慣れ親しんできたことを嬉しく思っている。私は酒など飲まず、いつもしらふでいたい。酒にはその酔い方にも段階がはてしなくある。思うに、水こそが賢い人間にとって唯一の飲み物なのだ。ワインなどはそれほど気品のある飲み物ではない。(p.320)
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普段生活していた文明の真っ只中から抜け、森の中で生活すること2年。長い人生を考えると(ソローは短命ではあったが、、、)2年間というのは、そう長くはない期間である。しかし、その2年間は、その人のその後の人生を変えてしまうほどのインパクトがあったに違いない。私達も、自然の中に身を置くこと、時には孤独になること、それが、その人の人生に深みを与えてくれるのだ、ということを本書は教えてくれる。
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二百年弱前の、今風に言うところのミニマリストが書いた本。いわゆる先駆者である。
刺さる文言はちらほらあれど、全編に於いて冗長すぎて中々読むのに骨が折れた。
例えば、「豆畑」の章では延々と豆の話をしている。どうでもよぎる。豆。畝。虫たくさん。どうでもいい。
注釈も恐ろしいほど多く、内容が入ってこない。
添削すれば7割くらい削れそう。
現代に置き換え鑑みても、その森での生活は再現出来る可能性が極めて低く、まるでファンタジーの世界。
全部で何円使ったとか、僕は寂しくなんかないとか、でも来客嬉しいとか本音を吐露している部分は愛らしい。
結局すぐに結核にやられてしまうソロー。
精神を病んでたのかい。きみは。
厭世的な人達には支持されそうだが、残念ながら何一つ私の糧にはならなさそうだ。