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物語、神話は世界の成り立ちの説明の方法のひとつ。
但し、その時代のその地域でしか有効でない。
哲学、世界の成り立ちの説明方法の別のひとつ。
いつの時代でも、どのこ地域でも有効な説明。
ただ、必ず矛盾が生じる
・・・以下、挫折。興味を維持できませんでした。
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『現象学入門』(NHKブックス)と同じく現象学の入門書ですが、『現象学入門』がある程度までフッサール自身の議論にそくして話が進められていたのに対して、本書は著者自身の立場がよりはっきりと打ち出されています。
「主観-客観」問題は、デカルト以降の近代哲学の中心問題でありつづけてきました。しかし著者は、フッサールによってこの問題は大きく転換されることになったといいます。フッサールがめざしたのは、主観と客観との「一致」ではなく、「確信の成立の条件」を解明することでした。そのうえで著者は、フッサールによってもたらされたこうした問題の変更の意義を、次のように説明します。
ひととひとのあいだで、あるいは文化と文化のあいだで認識の齟齬が生じたとき、われわれはことばやルールによって理解しあいながら共存しうる可能性の原理を問いなおすことになります。もしそのような可能性が存在しなければ、ひととひと、文化と文化とのあいだに共通了解は成立せず、ただ力による世界解釈の押しつけだけが存在することになってしまうからです。現象学における「本質直観」とは、われわれの知覚経験のなかに含まれている普遍的な意味をつかみ出して言葉にもたらすことを意味します。このばあい、本質直観によってつかみとられる意味は、客観のなかにはじめから含まれている「真理」ではありません。むしろわれわれが現実経験の「意味」をさぐることは、確信の「共通了解」をさぐることを意味しています。著者はこのような観点から、フッサールの現象学が人びとのあいだで共通了解を築いていくための方法論としての意義をもつことを指摘しています。
われわれはさまざまな経験を通して、世界についての多くの確信を抱くようになります。その結果、人びとのあいだで「良い-悪い」「快-不快」といった感受性の違いが生じます。しかし人びとは、たがいいの感受性の違いを認めあうようになり、共通了解の新しいルールを形成していきます。著者は、このとき人は自己のエロス的な満足を追求することから、他者との関係の中で新しいエロスを追求することへと変わっていったのだと考えます。共通了解はこうした「関係のエロス」を味わおうとする人びとの努力のなかで形成されていくとされています。著者は、こうしたエロス的原理に基づいて、他者との関係性のなかでみずからの生を「よい」ものとして味わい感受することについての考察を展開しています。
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どこかで薦められていたので読んだが,現象学を学ぶのに最初に読む本ではなかった。
同筆者も「現象学入門」という入門書を別に出しているようだし。
前書きにあるように,前半はフッサール現象学の解説,後半は筆者の思想。前半はそれなりに分かったつもりだが,後半は何が言いたいのかよく分からなかった。
フッサール現象学の中では,「生活世界」の概念の必要性がいまいち理解できなかった。
また,所々現象学に対する批判への反論が挟まれているが,初心者の自分には蛇足に感じた。反論の論理もどこか早足で納得しがたい。
特に前半を通して得た自分の印象は,現象学は,(いわゆる客観的な)真理ではなく,物事の捉え方に着目し,それをどのように・どの程度人々が共有できるかを主題としているのかなということ。この考え方自体は自分にはしっくり来た。
「「真偽」、「よし悪し」の根拠において必要なのは、「完全な認識」ということではなくて、ただ「認識の一致」(共通了解)の可能性ということだけである。」(55頁)
「いま見てきた「認識問題の原理」から言っても、わたしたちは世界に何らかの同一存在が実在することを疑うことができない」(48頁)というのは疑問。疑うこともできるが想定することもできる、という程度までしか導けないのではないか。
「客観存在」というものが一つの想定された観念(49頁)というのはなんだか皮肉。
「本質直感は……一人一人の人間が誰でも試みることができ、それは同時に自分の素朴な直感や感受性を疑って、自分と他人たちの間を貫いている「意味の関係」の秩序を取り出してそれをよく意識するような方法」(101頁)
で、小説や将棋や野球は本質直感には不向き(見たことがない人がいる)ということだが、そうすると本質直感できる対象はあまりないのではないのか。だとすると、本質直感の意義はなんなのか。
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現象学の基本的な“考え方”を、一般的な用語で具体的に解説した名著。素人が哲学を堪能するのにちょうどいい。しかも、内容は高度。とても良い。
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フッサール哲学を骨子に現象学を読み上げている本書。
丁寧に用語や各哲学者の主張を説明してくれているというより、著者の主張に沿って現象学を展開しているといった様相。現象学第一冊目としては少し求めている内容との乖離はあったが、本筋の理解の助けには十分になっている。
認識や理性に依拠して真なる完全性や絶対性に到達するのだという立場から、個々の経験からくる感覚的な世界像に立脚する。うーん、難しい。真理なるものはなく、個々人の世界像間における共通理解に達する可能性というものを探っていく学問である、これはあってるか?まだまだ腹落ちしておりませんので、気になった箇所をまとめるに留めます。
本質直観での文章。
P93:現象学の考え方の根本は、「事物やことがらそれ自体というものはない」(=客観それ自体は存在しない)ということです。したがって、現象学での「本質」とは、ある事物やことがらが人間の性の経験にとって持つ「意味の本質」です。
個々の世界像に依拠している人々がどのように共通認識を持ちうるのか
P105:このとき起こっているのは、何かいままで隠されていた「客観」が発見されたということではない。そうではなくただ、双方にとって「世界についての新しい共通理解」が編み上げられたということにすぎません。
赤ちゃんの「よい、わるい」の認識は、母親との関係性から培われるとか、夫婦間や恋愛を引き合いに説明しているので取っつきやすさがある。その中でも首肯の一文。価値観の相対化における文脈
P155:感受性の違いはともあれ、互いが相手に愛情や好意を持ち、この関係をよくしようという意欲がきょうゆうされていなければならないのです。逆に言えば、いざとなれば別れてもいいと思っているかぎり、互いが自分の感受性や価値観の絶対視を解こうとする動機はどこからも出てきません。相互了解の導かれる経験が、男女関係、友人関係、親子関係などにおいて典型的に現れるのはそのためです。
ハイデガーは死に対する不安が「根本情状性」という主張に対する著者の思想。
P266:私の考えでは、「情状性」の根本的な本質は「不安」ではなく「エロス」(「快・不快」原理)ということです。
哲学というのは頭でっかちに理性で理論武装するようなものかと思ってきましたが、現象学は人間の本能的・感覚的なところに重点を置いているといった印象です。頭がこんがらがったところで、近辺の哲学者を適宜さらっていきましょうか。
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主観と客観がずれてしまうこと
ずれてしまうことは事実としてあるからいいんだけど、その共通了解をつくることは可能なのか?
そして、それはどんな条件であれば可能なのか?
について学んだ。
フッサールの現象学を理解する前に、哲学の歴史(全体の流れ)から学ぶことができたため、カントやデカルト、ニーチェなどたくさんの哲学者の哲学を知っている状態であればより詳しく理解できたように感じた。
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図書館。む図。同じ事柄でも人によって、世界観によって、見え方や捉え方が違うよねってことを、あらためて考えたいなと思っていたときに図書館で偶然手に取りそのまま借りた。
りんごかもしれないの話、哲学の世界で例としてよく挙がるのかな。
正しいとは何だろね。「一致するかどうか」と問うべきではなく、「相互了解に達する可能性の原理があるか」かぁ。まさに意思決定や話し合いの中で実践していることが、それだし、課題・問題に関わる人数、背景が多種多様になり差があればあるほどそれは難解になる。もう少し竹田さんの本を読んでみたい。2024/4/6(土)