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笙野頼子氏の作品を読むのは三作目。短編が5本。最後の、柘榴の底、以外は、著者の私小説(というよりエッセイ)かと思われるが、途中でエッセイとは違うというようなことが書いてある。ノンフィクションに近いフィクションなのかもしれない。ほかの作品と同様、観念と現実が入り交じっていて、難解。正直、途中三作はよくわからなかったなぁ。
●増殖商店街
表題作。夢と現実を、お金という媒体を挟んで行き来している。増殖していく商店街は、欲望の増殖ではなく、「私」の不安の増幅の現れか。
●こんな仕事はこれで終わりにする
猫の話。中身だけ見ると、なぜ私が最初の猫に異常といえるほどの愛情を感じていたのかちょっとわからない。可憐なものだから?自分の弱い部分の投影?
●生きているのかでででのでんでん虫よ
二匹目の猫の話。私の世の中に対して斜に構えている部分がばーっと横並びに書いてある感じ。
●虎の襖を、ってはならなくに
夢と現実とを、言葉という媒体を使って往復。言葉というものが、意味をなさずに襲いかかってくる!?そもそも、タイトルの意味が謎。ならなくに、が言葉の親玉みたいにして攻めてくる。という夢?
●柘榴の底
おそらく、精神的に障害のある、社会不適合者の内面をえぐる話。本人は、奇行や失職を繰り返しているが、それが親への、家庭への恐怖という観念から出てきているという点で、人間失格と似ていると感じた。ただ、人間失格はその本人の行為に焦点を当てているのに対し、こちらはその行為の意識にかなり焦点を絞っている。異肉、やモチ、などの表現で、自分と社会との隔たりを、自分の内部に生じる部分が原因だとしている感じ。結局、親の庇護から逃げられない、という点も人間失格的。この作品が、この作品集では一番面白かった。