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地下鉄サリン事件の被害者遺族へのインタビュー集。あの日犠牲になった人、周りの人、1人1人の人生が想像できてとても辛い気持ちになった。けれど、あの日何が起きたのか、を多少なりとも知ることができた気がして、読んで良かったと思う。
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配偶者が死んでしまったひとから、比較的軽くすんだひとまで、それぞれの角度から事件を振り返る。日常のあっけない崩壊、突然の悲劇、すれ違う人間の狂気、どれも当然ですが物凄くリアルで、どうしようもなく不安になった。
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この作品については批判などもあったが、この根気のいる膨大な時間を要する作業の積み重ねの結果の貴重な記録である。宗教団体が起こした大きなテロ事件をその被害者に面談し状況を聞き取り727ページにも渉る膨大なリポートを書いたことに敬服。何も行動を起こすことなく批判のみに終始する輩が多いが、作家「村上春樹」が成しえたこの功績は大きい。
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地下鉄サリン事件の被害にあった方々の証言は生々しい。
それぞれ実に個性的な方々の証言が興味深い。
そして、村上春樹がむすびの部分で、指摘していることも考えさせられた。
「私たちを含んで機能している社会システムは多くの部分で、個人の自律的パワープロセス獲得を圧迫しようとする。」
「オウム真理教に帰依した人々の多くは、麻原が授与する『自律的パワープロセス』を獲得するために、自我という貴重な個人資産を麻原という『精神銀行』の貸金庫に鍵ごと預けてしまっているように見える」「それはかれらにとってある意味ではきわめて心地の良いことなのだ。何故なら、一度誰かに預けてさえしまえば、その後は自分でいちいち苦労して考えて、自我をコントロールする必要がないからだ。」
バンクスの次のような言葉が引用される「自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに身を委ねるとき、人はいともたやすく目の前の出来事の脈絡を失ってしまう。人生が物語としての流れを失ってしまうのだ。」
「自我を譲渡したその誰かから、新しい物語を受領することになる。」その物語は「粗雑で単純である方が好ましい。更に言えば、できるだけジャンクである方がいいかもしれない」「麻原彰晃にはそのようなジャンクとしての物語を、人々に気前よく、そして説得力をもって与えることが出来た。」
「それに対して、『こちら側』の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を」
そして、ここに小説家としての自分のなすべきことを見ているのである。
この課題は、私にも与えられている課題だと思う。
「まっとうな力を持つ物語」を語ることは、親、教師、友人としてなど、だれにでも与えられている課題であろう。
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以前買ったが、実家においてきてしまっていた。図書館で見つけ、ふと読みたくなり、重かったけどよいしょと借りて帰った。借りてからも、授乳の合間に読むには物理的にも心理的にも重かったため、しばらく放置していた。しかし、読み始めたら全然止まらなくなり、ずんずん読んだ。
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地下鉄サリン事件の被害者や、オウム真理教の(元)信者へのインタビュー集。『システムと個人』をテーマにした作品の多い著者ですが、これもノンフィクションながらその一つと言えるかも。
社会が許容できなくなったカルト集団についてのルポ、という感じです。『神の子どもたちはみな踊る』や『1Q84』とあわせて読んでも面白いかと。
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地下鉄サリンの被害者へのインタヴュー。
事件当日の築地の様子などテレビで観てはいましたが、
どれだけ普通に暮らしていると思っている自分と被害者とは何も違わない、自分にもあり得た事件だったと思う1冊です。
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阪神大震災が起きた2ヶ月後、オウム真理教により、地下鉄にサリンがまかれる。そこに乗っていた被害者とその遺族への約60件のインタビュー集。
そのインタビューで、著者は地下鉄に乗っていた被害者たちへ不運さを同情することはない。そして、彼らがどんな人生を歩んでいたかを丹念に取材する。
著者が知りたかったのは、その地下鉄にどんな人が乗っていて、何を感じたか。それだけだったんだろう。巻末の「オウム論」はおまけのようなものだ。
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今からもう、15年以上前に起きた地下鉄サリン事件の被害者の方々へのインタビュー集。敢行されたのは事件から約2年後、やはり15年近く前になる。
『1Q84』のベースにオウム真理教の存在があると以前から聞いていたし、まだ読みかけ(笑)の『雑文集』にも『アンダーグラウンド』についての記述が多々見られたため、図書館で借りて読んでみた。
オウム真理教に関わる一連の事件の報道のされ方は、当時小学生だった私にも、強烈に残るものだった。
本書を読みながら「あれから15年以上たった今、この人達の生活はどのように変化したのだろう。今も苦しんでおられるのだろうか」と思わずにいられなかった。メディアで流される情報は刻々と変化して、15年前の出来事を追ったりすることはあまりない。
しかし、読後、一番強烈に感じたのは「1995年に抱えていた日本社会の構造システムは、2011の現在も全く改善されていないではないか」ということだ。3月に東日本を襲う大震災があり、3ヶ月たった今もあたふたとしている日本の上層部。その対応は全て、後手であるようにみえる。この15余年、日本は「突発的に起こる危機」に脆弱なシステムを改善する試みをしていなかったらしい。
村上春樹という人物にとって、今回の震災と原発事故は、やはり心を揺さぶる強烈な出来事であったに違いない(それは先日の受賞スピーチからもうかがえる)。数年後、日本の抱えた未曾有の大問題をどのように彼が物語化し、文章化していくのか興味深い。
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1995年3月20日の地下鉄サリン事件の関係者へのインタビュー。村上春樹の真摯な姿が目に浮かぶ。一人一人と向き合う姿勢は感服。読んで、心が苦しくなったし、涙も出た。でも、やはり、知らないより、知っている方がいいと思った。私の中で、オウム真理教、又、他の宗教、まだ、分からないとしか言えない。いつか、なにか分かるだろうか…
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地下鉄サリン事件に巻き込まれた人々のインタビュー。
被害者なのに容疑者扱いされたり、警察や官機構のずさんさが目立つ。
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村上春樹は言う。人は物語なくして生きていくことはできないと。
『物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように。間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。』と。
『物語』。たいへん興味深いキーワードだ。
一見ふわふわとしたメルヘンチックな雰囲気であるが、その一方で、全てを飲み込むブラックホールのような一面も秘めている。
村上春樹はこの本を執筆した頃から今に至るまで、自分の物語を放棄し他者の物語に頼り切ってしまうことに対して、常に警鐘を鳴らし続けている。
物語を受け取る側の人々へのインタビューを積むことで、物語を提供する側としての責任を強く感じるようになったのだろう。
もし今私が村上氏にインタビューされたらと考える。
きっと、いかに自分の物語が筋が通っていないか思い知らされることだろう。
私の物語、って改めて考えてみると、ほんと漠然としてる。
借り物の言葉ばかりで、志や一貫性の感じられないつまらない物語にはしたくないと思う。
誰かに預ければ簡単だし、よほど説得力のある、一見立派な物語を手にすることができるかもしれない。
けれど私は私の物語と一生かけて向き合っていかなくてはいけない。
たとえごちゃごちゃ絡まっていてほぐすのが至難の業でも、その作業だけは怠ってはいけない。
テレビの情報に汚染される前に。自分が自分だと思えなくならぬように。
そうしなければ誰かに物語を提供することなどできはしない。
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淡々とインタビューを載せてゆく。62名のサリン事件の被害者。なにより面白いのがサリン事件について、ではなく、ベールに包まれていることの方が多い村上春樹の人間性を知れたような気がするからだ。そこにある問題意識に村上春樹を垣間見た気がする。
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ちょっとまって時間あったら読む、と途中で積み。
サリンってそんなに記憶がないですが、すんごい事だったんだと
読みたいからちょっと待って(誰に言ってるのか
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読んだのはだいぶ前です。
20日で事故から17年経過したという記事を読み、忘れないように登録しました。村上春樹による地下鉄サリン事件の被害者のインタビュー集。