投稿元:
レビューを見る
本書の「序」には、「哲学の古典が永続的な力を持っていることを、現代の哲学者に説得的に示せるかどうかが、哲学史家の腕の見せ所であろう」と書かれている。著者はこれまでも、スピノザやライプニッツ、ニーチェの哲学から、現代の私たちが哲学の問いを考察するのに役立つ資産を発掘する仕事をおこなってきた。本書もまた、著者による「哲学史のよみ方」を提示する試みだ。
著者の議論は多くの場合、W・セラーズらによって探究された知覚や行為の規範性の問題から出発する。本書もまた、そうした観点からフッサールの現象学を読み解くことから議論が始められる。こうした観点から、デカルトの神の存在証明にも独自の解釈が与えられる。すなわち、無限者の観念は、それとの対比において私たちの有限性と無知を自覚することができるための、つまり懐疑を遂行するための、前提とされていた「真理」の観念にほかならず、不確実性のただ中にあってなお真理をめざすということの意味を支えていた「真理」だと解するのである。
だが、私たちは志向内容をいつも明瞭に構成することができるとは限らない。たとえば難しい知恵の輪を解こうとしているとき、わたしたちはどうすることがこの知恵の輪を解くことになるのかを理解していない。スピノザは、信念は孤立して志向されるものではなく、全体論的認識に支えられ、さらなる認識の前提として活用されると考える。またヘーゲルは、私たち人間は志向の主体であるよりも欲望の主体であり、直接の対象を手に入れてもつねにそれが真の対象ではなかったことを知って、自己の真の姿を探し求めてゆくと考えた。
さらに著者は、カントの倫理学の問題にも踏み込んでいる。カントは自由意志の自律性をみずからの倫理学の根幹に据えた。だが、私たちが自由に行動することのできる場面では、なすべきことが明確であることは稀である。このことを著者は、カントが問題の創造的解決としての自由を捉えていなかったという観点から批判している。「問題」であるとは、何らかの共通の本質をもつ事柄ではない。むしろ問題とは、本質が分からないままに存在しており、私たちはそのつど創造的に解決を模索するほかないのである。