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後藤明生は1963年、31歳の時に埼玉県草加市の松原団地に入居する。草加から蕨は近いけど遠いのである。わざわざ都内にでなくてはならないのだから。あらすじはあってないようなものだけど、現在と過去の行き来がとてもなめらかかつ偶然的で、全く退屈しない。時間軸、歴史をぶつ斬りしていくスタイルがとても滑らか。草加市民は読みましょう。
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何のことはない物語で、現在から少しも時間の変化が無い中で、外套をめぐり、自分と他者との実在が忙しく移転してゆく。ただの脱線話にならないところが、力量か。
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始まりから終わりまで、実は何も動いていない、何も始まらなければ何も終わっていない、そのような一コマに挟み撃ちされた物語。饒舌体は語るべき内容を捜し求め放浪し、その様だけが記されている。それが面白い。
主人公はある日、早起きをする。何もない一日。ただ、夕方に、とある人物と待ち合わせをしている。それ以外には、全く何の予定もない。思いがけず早起きしてしまったのはいいが、半日以上手持ち無沙汰だ。そのとき、ふと外套のことを思い出す。二十年前の外套。それはいつのまにか、手元からなくなっていた。外套はいったいどこへ行ったのか。主人公はその行方を捜すために、半日を費やすことにする。
だが外套が見つかることはとうとうなく、そればかりか、待ち人すらもある手違いで行き違ってしまう。何もない一日。しかし外套の行方を求めてさ迷い歩く先々で、主人公の思考は二十年前から現在までを縦横無尽に行き交い、しかもその奔放さから、絶えず脱線を繰り返す。外套を探す、待ち人を待つ、物語を集約する二つの目的は、それが完全に脱臼されているにも関わらず、饒舌体はその運動をやめることができず、脱線の記録によって小説が織り上げられていく。
何もない。何も起こらない。何も始まらなければ何も終わっていない。ただ、書き出しとして置かれたはじまりと、その逆に対置されたおわりがあるだけだ。だけど、そこに挟まれた無数の思考。物語とは、そのようなところにも潜んでいる。ある語り方が排除してしまう無数のエピソードを、語り方の転換一つで拾い上げてしまった。そこにこの小説の凄みがある。
でもそれが面白い、というのがやっぱり一番大事で、これは話の上手い人のなんでもない駄弁りを聞いている快感にも近い。面白さのレベルだけいえば、相当卑近なところから拾い上げてきていて、それが構造の新奇さと結びついている、というところがよい。読めば絶対に楽しめるし、楽しめるように書いている、そういう小説だと思います。というか、語っている作者自身が楽しそうで仕方がないという感じだから、それが伝わらないわけがないでしょう、という。名作でした。
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「とつぜん」財布が消えたとか、「とつぜん」彼はいなくなったとか言うが、この小説の主人公の場合「あったはずの私の外套がとつぜん消えた」ことが問題になる。しかし本当は「とつぜん」なんてことはない。そこには何らかの境界があるはずで、だから主人公は「あった」と「消えた」の間で、というより(あの外套を着ていた)戦前と(あの外套をなくした)戦後の間で「挟み撃ち」を食らうのである。一種の戦争後遺症。
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心理描写の深さを追求する「内向の世代」作家の一人。ひとつの起点から拡散的に展開する意識・思考の流れを詳述する独特の饒舌な文体が特徴。ゴーゴリの「外套」を中心に物語は展開する。合間に挿入される作者の「運命・偶然」観もまた作品に対するアクセントになっているように思います。
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再読。こんなに面白かったっけ。
主人公が橋の上で友人を待ちながら回想する20年前の外套の行方。語りがどんどん脱線しながら、時系列を飛び飛び過去へ遡る。意味の連続性を保つために理由を用意するという通常の語りでなく、連続性を放棄して連想を優先している。語りの形式と同様彼の外套探索も理由と結果を欠いており、小説の冒頭そして最後に橋の上に立ちまだ登場しない友人を待つ語り手の状況とそれが呼応している。
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ものの本や参考文献、解説なんかを読むと非常にイレギュラーな、私小説における方法論としてはかなりのイレギュラーであるらしいんだけど、世間一般でいうステロタイプとしての「純文学」に一番近いんじゃないかと思うのだった。
そのほかの読解やら技法については各種文庫版の解説を読むのがいいと思うのです。もうそれ以上のものはありません。
主人公の男がふと「あの外套はどこへやったかしらん」と思い出すところから、えんえんと男の過去の形跡をたどりつつ、でも結局見つからない、とそれだけの話です。それだけの話、なんでお前の思いつきにつきあわなあかんねん、と、なんとなく釈然としないままずっとつきあっていってしまうような、そこんところの「書き尽くす」引力がいかにも純文学なのです。
芥川だの太宰だのはまだストーリーがあるぢゃない。「人間失格」なんか今度アニメになるらしいぢゃない奥様。ただそうではなく、なんだかその作家自身の内的独白とゆーか己の喪失を埋める行程というか、なんかそのへんのずるずるとした感じ、文学が文学であるがゆえに忌避される要素。何で忌避されるかと云うと、この辺は言わずもがなですが、このあたりの「リアル」は「おはなし」を求める側からすれば非常に不気味に写ることでしょう。
だからそれこそ、「書き尽くしてある」のが値打ちだというほかないのです。これも小説、いや、これが小説。なんかその辺の大前提を確認する意味で、手にとってみるのも、いいのではないかしらん。
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二十年も前に上京した際に着ていた、そして知らず知らずのうちに何処かへやってしまった外套の行方を巡る一日を描いた作品。外套をどうしても手元に戻したいというようなこれといった理由があるわけではなさそうで、ただ気になるというだけで突き動かされる主人公の赤木。この赤木というネーミングは作中でも幾度となく触れるゴーゴリのまさに「外套」の主人公アカーキィ・アカーキエヴィッチに由来するのだろう。ここでひとつニヤつく。
ただなんとなく気になりつつ探しているうちに生まれ育った朝鮮北部の体験、学生時代の下宿生活や友人たちとの思い出話へと脱線を繰り返す。外套を探すのはいいが理由もままならないわけで、それゆえか外套のことも一瞬忘れたかのように回想に対していちいち真剣であるところが良い。いけないいけないとかつて赤木に下宿を貸していた石田家を訪ねた際の玄関先での一悶着や、石田のおばさんが外套を人の名前と勘違いして「内藤さんならねえ、きいたことある名前だけどねえ」という返答に赤木が面食らう場面はニヤニヤしてしまう。中村質店のおばさんの値踏みの場面やなんやと見ているうちに、そうかこれは失くした外套をキッカケに展開するロードムービーだという気になる。読むというよりは見ている、見ているというよりは付き合うような気にさせられた。
奇妙な一日の使い方だが、意味や理由を持たずに行いに酔うというのは気持ちのいいものでなかなかできることではないけれど、後藤明生はそんな人生へのスパイスの手段を思い出させてくれる。
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まー、ただ、「なくした外套」を探す、だけの話なんです。
ゴーゴリの「外套」やら「鼻」やらが散見されて面白くはあった。季節的にも旬だし。
ただ、文庫の奥付に1972年の作品らしいのですが、
梅崎春生の「ボロ家の春秋」辺りの時代感が・・・・。
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所有している講談社文芸文庫のなかで一番おもしろい。驚きなのが古いことを書いてるのに古さを一切感じない
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北九州から大学受験のために上京してきた20年前に着ていた旧陸軍の外套の行方がふと気になり、探しに出かける一日のはなし。
それだけ。ほんとにそれだけのはなし。
主人公は妻子あり、草加の公団住宅に住む中年のサラリーマンという平凡なのが特徴といってもいいくらいに平凡すぎて魅力的じゃないし、案の定というかやっぱりというか、外套はもちろん見つからないし、だいたい外套を探す小説を書く事自体がゴーゴリの『外套』に憧れすぎて自分も『外套』を書きたいからなのであって。自分の小説を書きたいけどかけないからやむなく模倣する、てわけでもなくて、自分の小説が書きたいとはそもそも思ってなくて、『外套』が好きだから『外套』が書きたいんだってのが可笑しいようなアホなような。
でも、読み進めるうちに、戦中と戦後の断絶の挟み撃ちにされて宙ぶらりんに放り出されたままの主人公の気持ちも何だか段々とわかってくる気がしないでもない。中断あたりで唐突に始まる、兄との「とつぜん」「とつぜん」の大合唱の脳内口喧嘩が混乱していていい。
物語のなさと、
脱線に次ぐ脱線と、
ほとんどが内省的な記憶の中の出来事であることと、
要素だけ抜き出すと読みにくそうなんだけど、なぜだか実にスラスラ読める。饒舌だけど熱に浮かされている訳でもなくて、どこか滑稽ですらあるような軽さが文章そのものにあるんだと思う。
僕なんかが言うのもおこがましいんですがね、こりゃね、傑作ですよ。
「お前は、子供のときから兵隊になりたがりよったとやけん、よかやないか」
と
「バカらしか、ち!」
の挟み撃ち。
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アカーキー・アカーキエヴィチの『外套』を元に、赤木が外套を探すユーモラスな設定。
脇道に逸れまくる注意散漫な語り口は少し苦行に感じてしまったが、意欲的な構成と表題の意味に感心した。
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無くしたものを探すというのは最も無駄な時間ともされている。思考が渦となり人を閉じ込め,外套から戦争へと連想ゲームが展開される。
過度な冗長さは小説であることを疑わせ,文そのものを読むことを強制させる。単につまらない文章であればすぐ目を背けるところを,本作の饒舌はやけに読者を惹きつける。無駄を省いてしまえばほとんど残るものはないだろうが,その無駄の醍醐味を味わうことのできる作品であった。
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もう何年も読もう読もうと思っていてようやく読んだ。物語自体が外套のような造りをした小説。すごいことはすごいが、好きかどうかというと別にそうでもなかった。ただ、まさに京浜東北線で通勤している最中に、京浜東北線の話を読むのはうれしかった。
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