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自我自我していないドライさと、頻出する小学生受けしそうなプリミティブな言葉(鼻くそとか乳房とか)とが好相性だったし、ところどころ笑いのツボもあったけど、個人的にあの手の息の長い文体はうらめし…
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「ペルソナ」は匿名性や等価性といったものが構造としても表されているが、やや型に嵌った感もある。それに較べて「犬婿入り」はもう少し奔放な感じがするが、細部まで読み込めなかったので口惜しい。
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芥川賞受賞作品であったがすんなりとはわからない不思議な小説であった。ドイツのことには全く触れられていない。
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多摩川べりのありふれた町の学習塾は〝キタナラ塾〟の愛称で子供たちに人気だ。北村みつこ先生が「犬婿入り」の話をしていたら本当に〈犬男〉の太郎さんが押しかけてきて奇妙な2人の生活が始まった。都市の中に隠された民話的世界を新しい視点でとらえた芥川賞受賞の表題作と「ペルソナ」の2編を収録。
ある日、黒い犬はお姫様をさらって森に入ってしまい、本当に嫁にしてしまったと言う子もいれば、お姫様のご両親が黒い犬がお姫様のお尻を舐めているところをたまたま目撃してしまい、ひどくお怒りになって、黒い犬とお姫様を無人島に島流しにしてしまったと言う子もいた。
P84より
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2編収録。
・ペルソナ
ドイツに姉弟で同居する道子。二人はそれぞれ留学中の身である。ドイツ中世文学をやる弟、道子はドイツ現代文学を研究中だが、成果なく、奨学金を得られなくなり細々したバイトに明け暮れている。
自分に向けられる差別、自分以外の外国人に向けられる差別、日本人の奥さんたちと弟が持つ差別感情。道子は常にそれらを感じながら生きている。
作者の体験から出てきた作品なのだろう。肌感覚の嫌な感じがうまく文章から伝わりゾクゾクする。
・犬婿入り
面白すぎる。だが笑って済まされるものではない不穏な物語だ。民話にありがちなエロさ、不潔さ、理不尽さをきちんと備えた、しかしちゃんと現代の話である。なんのメタファーか寓意かわかりそうでわからない。作者の只者ではない力量に感服するほかない。
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この作家の特徴でしょうか?
文章がとても長い。1つの文章にたくさんの情報が入っている。
「ペルソナ」も芥川賞の「犬婿入り」も間なのか溝なのかを書いてあるんだな?と思いました。
「ペルソナ」の最後にどちらでもない自分になった道子はその後どんな人生を送ったんだろうか?
「犬婿入り」は本人たちとその周りの人たちのギャップが面白かったです。
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違うタイプの二編で、私にとっては二編とも居心地が良いとは言えない話だった。
ペルソナは、国や文化や性別による差別・偏見が根底に常にあって、次から次へと襲ってくるそれらにあてられたようで、孤独や葛藤が渦巻いているのもあり少し沈んだ気持ちになる。
犬婿入りは、良くも悪くも性が猥雑に散らばっていて動物的。そこを見て見ぬ振りはできず、不快感を薄っすらと刺激される。最後は本当に結ばれた者同士で関係が成立して丸くおさまるので良かったのかな、と思いつつも置いていかれた感じがある。
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人は自分と共通点のある似通った人とは仲間になりたがるけれど、ちょっとでも異なる人とは区別したがる。
生まれた国や言語、文化、風貌、立ち振舞い等あらゆる基準により自分とは異なる者を「異物」と見なし排除し、時に攻撃する。
まるで多数決で多い方が正義となるかのように。
『ペルソナ』でのドイツに住む日本人・道子に対して、表情が乏しく何を考えているのか分からない、と言って傷付けたり、表題作の風変わりな塾教師に対して母親達が無責任な噂話を広めたり。
個人的には芥川賞受賞作の表題作より『ペルソナ』(これも芥川賞候補作)が好き。
道子が日本人の顔になるために化粧をする姿(素顔ではベトナム人に間違えられるため)や能面(ペルソナ)で顔を隠すことにより柵から解放され堂々と歩く姿がとても印象深い。
長年ドイツで暮らす多和田さんも、ドイツに住み初めの頃は色々と苦労したのだろうか。
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遅読の私なのだが実にすいすい読み進めた。
二冊目にして「多和田葉子流」に慣れたのは
思考の形がどこか似ているのかしら?なんて
多和田女史の研ぎ澄まされた言語感覚と
深い洞察力を前にして とても言えない。
1993年芥川賞受賞の「犬婿入り」。
エロチックな有機物のにおいに満ちているが
妙に乾いた空気感。
「異質な存在」も人々の「言葉」次第では
そうでないものになり
何者なのか 何物なのか
わからないまま時は過ぎていく。
「ペルソナ」には「ドイツで生きる私」が
ちょっと痛々しく描かれている。
ある韓国人に対するドイツ人の反応をきっかけに
「東アジア人」の自分がよくわからなくなっていく。
能面をかぶったまま街を歩き
日本人を体現しようとしたものの
誰も日本人だと思ってくれない。
ペルソナ=外的側面のせいで
何者でもなくなってしまうという恐怖。
私は海外に住んだことがないくせに
何度も行っているから知った気になっている
情けない人間だが
異国において自分が誰かよくわからなくなる感じは
なんとなくわかる。
以前 ミュンヘンで
商店街のウィンドウを眺めながら歩いていた時
妙にくすんだ女性の像が突然目に飛び込み
ぎょっとした。
平たく表情のない顔。凹凸の少ない身体つき。
それは鏡に映った私の姿だった。
一瞬 時間が止まるというか 血流が止まるというか
身体が地面から浮いてしまったような
気がしたことを覚えている。
20世紀末 多和田女史は異国にあって
アイデンティティを喪失した共同体は
やがて断片の集まりでしかなくなる
という不安を感じたのではないだろうか。
21世紀に入って20年。
その不安が現実となった世界に私たちは暮らしている。
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多和田葉子氏の、芥川賞受賞作。この著者のことは知らず、初めて読んでみた。芥川賞受賞作によくある、なんとも不思議な小説だった。著者は、芥川賞だけでなく、今まで数々の文学賞を受賞しているようだ。
2作の短編小説が入っている。1つめは「ペルソナ」という題で、ドイツに留学中の姉弟の姉の一人称の視点で描かれる。外国で外国人としての暮らし、現地日本人との話、自分のアイデンティティ、など。2本目は、中年独身で、傾きかけた古民家に住み自宅で小学生の塾をしている女性が、犬のような男性と暮らす話。犬婿という民話は私は聞いたことが無かったが、普通の人間の女性が、犬と結婚するというような話のようだ。この女性宅に転がり込んでくる男性は、ちょっと変わっているので、塾に子供を通わせる親の間でも話題になっていた。実は以前、その母親の一人の夫だったそうで。
この不思議な小説は何を伝えたいのだろう?不協和音的な心もとなさが、面白いと言えば面白いが、奥が深すぎるのか、響いてこなかった。
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多和田葉子の中編集。表題の「犬婿入り」と「ペルソナ」の2作品が収録。
以前に読んだ「献灯使」が心に残ったので、芥川賞受賞作品である本書を手に取ってみた。
「犬婿入り」は芥川賞受賞作。39歳の学習塾を開いている女性を中心とした不思議な物語。
「ペルソナ」はドイツに留学している姉弟の話。姉の視点から日々の生活が描かれ、外国で日本人として暮らす姉の心情風景が描き出される。
「犬婿入り」は、芥川賞受賞作らしく、非常に難解であった。実際に犬が婿にくるような話なのであるが、それがエロティックというか、気持ち悪いというか、心にざわざわ感が残るというか、何とも読後の印象の不思議な物語だった。
「ペルソナ」も理解するのが、非常に難しかった。移民の多いドイツであるが、日本人や韓国人などの「東アジア人」はドイツ人や他の移民達から何となく差別を受けている。例えば、「東アジア人は表情がなく、本当の気持ちを顔に出すことは無い」などといった、差別とは言えないほどの些細なものだ。
おおっぴらに差別はされないが、誰もが心の中に壁を作り、それぞれの人たちが持つ「東アジア人」に対するステレオタイプを押しつける、あるいはそのように接してくる。
この微妙な空気のなかで息が詰まりそうになりながら主人公である道子の心情を、独特な筆力で筆者は描き出す。この心情は道子と同じくドイツで暮らす筆者の心情にも通じているのだろう。
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「犬婿入り」(多和田葉子)を読んだ。
「ペルソナ」「犬婿入り」の二編。
前回これを読んだのはもう四年くらい前で、日常生活に潜む緊張感とか不条理性とかそういった多和田葉子の世界にすっごく感激した記憶があり今回もやっぱりすっごく感激したけれど、と同時にリラックスして笑える自分がいた。
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春樹の次(寧ろ春樹以上⁉)に、ノーベル賞に近いとされる作家に初挑戦。話題の”献灯使”からとも思ったけど、とりあえず芥川賞作品から。中編2作を収録していて、表題作は後半なんだけど、なんせ前半が辛かった。『~った』がひたすら多用される文章の意図も何となくは分かるし、人種問題も理解はできるんだけど、物語としての魅力が…。表題作も、唐突に犬婿が入ってきたり出ていったりで、実際問題良くは分からんのだけど、何となくおかしみはあってまだ良かった。
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これが多和田葉子の世界、という短編2編。
純文学はその作家の個性がわかると、あるいは立ち上がってくるものがわかるとなかなか面白いものです。芥川賞の「犬婿入り」の雰囲気もそうですが「ペルソナ」の方はその入り口という感じでしたから、より理解しやすかったですね。
「ペルソナ」は作者の分身のような道子さんの、ドイツ留学における生活のもろもろの遭遇と心模様を描いています。移民を認めているドイツには様々人種が集まっている。わたしたちがヨーロッパの人種を判別しがたいように、自分たち日本人や韓国人、中国人を東アジア人としてまとめられる経験をする。違和感や嫌悪感を感じる人(道子さんの弟)もあるが、道子さんは平気だ。しかし自分が「何者か?」ということにはとてもこだわる。しかし、その個性を究めるともう日本人と見られなくなるという皮肉な結果になりました。
人種のパッチワークの中にいるからこそ、それがわかったのか。「犬婿入り」では日本の中の出来事です。ごく普通の町に変わった行動をする女性が塾を開いている。親は眉を顰めるが、子供には人気です。北村みつ子先生だから「キタナラ塾」のあだ名がついたのか。いえ、きたならしいとえっちなことがとめどもなく子供を引き付けるからです。で、尋常じゃないと思われる次第がいろいろと起こってくるのですが、異質なものの存在を認めるのには、普通の町ではもう見て見ぬフリが出来なくなり、受け止められなくなるのです。
すなわち異質なものと折り合いをつけて生きていくのが簡単なのか、大変な困難を伴い、身を削るような思いをするのか。それでも何とかしなければなりません、地球は狭くなったので。
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表題作のつもりで読み進めていってたら全然違う作品で焦った。
さて、解説にもあるとおり、二作品を収めたこの『犬婿入り』は「溝」がキーワードになっている。つまり境界線のことだ。
「ペルソナ」では信頼の置ける弟の和男でさえ、主人公・道子とは合同な意見を持っているわけではない。
特に序盤は、意識的にさまざまな国の名前が登場する。母語である日本語が、だんだんと自分の体から解離していく。日本人らしさや、外国人らしさ、といったステレオタイプには軽微な齟齬がある。同じくらい執拗に、肉の厚みについて述べられる。それもその一点が明白に羞悪な瑕瑾であるかのように。また、「ニガイ」は一貫してカタカナで表記されていた。途中わずかに登場する黒人の話と何か関係があるのだろうか。
表題作の「犬婿入り」。安部公房の作品群に似た雰囲気が離れない。水平線が分かつ二つの世界がぐるぐると混ざり合っていく感覚。忘れた頃にやってくる「電報」の言葉。何が普通で何がそうでないのかが判らなくなってくる。三人称的な視点で読者は自分を凝視する。伝染していく獣の体臭。みつこもだんだんと臭いに敏感になっていく。特に序盤は、文章が息継ぎすることなく進んでいく。非日常にいざなう導入催眠のようにも思える。