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〈わたし探し〉の質の変化を分析して、面白い。(石原千秋氏推薦。『教養としての大学受験国語』233頁)
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[ 内容 ]
テレビゲーム、伝言ダイヤル、プリクラになぜ若者たちは熱中するのか。
電子メディア社会の中で「遊び」はどう変容したのか。
斬新な視点で論じつくす。
[ 目次 ]
第1章 “遊び感覚”とは何か(鳥と少年;「遊び」の簒奪;当世「お買い物ごっこ」考;笑いのエチカ)
第2章 「物語遊戯」の冒険(ホラーの快楽―ケースM;ポリゴンの迷宮―テレビゲームの快楽)
第3章 「メディアごっこ」の憂鬱(誘惑のミミクリー;「おたく」の反乱;ポストモダンの“わたし”探し;同調のメディア)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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受験生のころ、問題文としてお会いしたことがある文章。
「遊び」というものを捉えなおすのには、ちょうどいい読みやすい本だと思います。
しかし、少し前の本なので、最近の本と合わせて読まれることをお勧めします。
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1999年刊行。社会学の範疇かな?「遊び」を取っ掛かりとして、現代の青少年の実態を切り取ろうとする。が、エビデンスが…。著者は埼玉大学教養学部教授。
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テレビゲームやプリクラ、あるいはアイドル・マニアの生態を手がかりに、現代の「遊び」のあり方を論じた本です。
シーソーで遊ぶとき、交互に上げ下げするという「遊び」の目的のなかに、遊び手が取り込まれることになります。ここでは遊び手は、シーソーの両端に置かれたおもりとなっており、遊びを構成するひとつの項の位置を占めています。「遊び」や「ゲーム」のルールは、単にその遊びの「文法」を規定するのみならず、その遊びに固有の目的へと人びとを動員し、命じる機能をもっていると著者は考えます。ルールが指定する行動をとり、それによって「ゲーム」と呼ばれる構築物を保持することが、遊びの「モラル」だと著者はいい、こうした「遊び」のなかでは「これは遊びである」というメタ・コミュニケーションが成立しているということに著者は着目しています。
また著者は、テレビゲームが少年たちにあたえる影響を危険視する論者たちが、テレビゲームを現実のシミュレーションであるとする誤った認識に陥っていると指摘します。ゲームの主人公は、そのゲームの世界観を一定の遠近法のもとで見通すために指定された特定の視点であるにすぎません。プレイヤーは、ゲームの世界で展開される、育児や戦闘、探索や謎解きといった個々の場面を構成する項として振舞うことが期待されています。現代の特異な事件を引き起こしているのは、現実と虚構を混同させるテレビゲームの悪影響ではなく、「これは遊びである」というメタ・コミュニケーションが正常に機能しない現代の社会の病理だと考えなければならないと著者は主張します。
本書でとりあげられる話題はかなり古いものですが、「遊び」の本質についての考察をもとにていねいにこれらの事象を分析しています。