紙の本
教師のプロが語る学校の昔、今、そして未来
2001/03/26 20:39
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投稿者:澤木凛 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の諏訪氏は知る人ぞ知る「プロ教師の会」の代表である。プロ教師の会は以前深夜のB級映画劇場でやっていた(もちろん、そんな名前ではない)映画の監修がプロ教師の会だった。この映画(タイトル失念)は学校内で起こる問題を妥協せずにプロ魂あふれる教師が挑んでいくというしろものでクールな主人公がなかなかよかったのを記憶する。主人公の教師役には長塚京三、諏訪哲二氏の写真はどことなく似ていて雰囲気を醸し出している。
この諏訪氏はもうすぐ定年退職なわけだが現代教育にもの申すということでこの本を書いたみたいだ。生涯一教師にこだわった彼はどうやら定年まで一教師を選んだようで今も教壇に立っているが、生徒の質が1985年あたりを境に大きく変わったと指摘する。戦後間もないころは勤勉で学校に通うことが喜びですらあった「農業社会的な生徒」が大半を占め、その後団塊の世代あたりから「産業社会的な生徒」がでてくる。彼らは教師と自分たちを対等だと思い、教師の言うことが絶対だとは考えなくはなった。そして現代の「消費社会的な生徒」の出現である。これが85年あたりだという。彼らは自分の快楽や利益に直結して動く。教師の立場は三の次くらいだ。自分がしたいように動き、そのことになんの疑問も感じていない。
「産業社会的な生徒」の最後である私が感じるのは、現在の自己中心的な生徒の出現は起きるべくして起きた現象だろうということだ。新しい種は突然出現したように見えて実は徐々に現れている。そしてある境界を境に大量に発生する。社会全体の流れは「ルールを守って組織に依存する」というしくみから「個人の利益優先、組織から独立する」の方向へ移っている。ただ、日本という社会の脆弱な部分はこの「組織からの独立」が上手く行かなかった点にある。組織にはしがみつきながら個々の利益を求めるようになったのだ。責任を果たさないのに権利を要求する、そういう風潮のみが残った。
その中で生まれてきた新しい世代の生徒は確かに歪だと思う。自分のしたいことを求めるのであれば学校という枠組みに無理矢理入っている必要などない。皆がいくからという理由で学校などと言う旧型の組織にしがみついてその組織を無視して闊歩する。子供は大人の縮図だと言うがまさしくその通りの状況が起きているのだろう。諏訪氏はプロとして自分が出来ることがなにか常に試行錯誤してこなしている。こういうプロの仕事をしても成立できない組織、それが今の学校であるということを我々もしっかりと認識しなければならないようだ。
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[ 内容 ]
校内暴力、大学生の急速な学力低下、小学校にまで波及しつつある学級崩壊、凶悪化する一方の青少年犯罪など、教育問題はこの数年、解決のための手掛かりすら得られないまま、さらにその混迷の度を深めつつある。
自由で個性的な人間を作ろうとして出発した戦後教育は、結局、肥大化し過ぎた「自己」を扱いかねている生徒を大量に生み出してしまった。
戦後日本の急激な変化に翻弄された生徒と教師の変容を歴史的にたどり、学校現場で本当に起こったことの全体像を正確に描き出す。
[ 目次 ]
第1章 戦後日本の子ども観(子どもを見る視点;教師が教師だった時代 ほか)
第2章 危機の発端と正体(「個人」の時代の始まり;学校共同体の消失 ほか)
第3章 肥大する「自己」(消えた「外部」;「個」の日本的自立 ほか)
第4章 溶解する現場(生徒の「私」性と「公」性;リーダーたちの困惑 ほか)
第5章 教育の死(「荒れる」小学校;「消費社会的な子ども」 ほか)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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外部的な力によって「挫折」を経験しないと、子どもは全能感をもち自己中になる。挫折させ、自分より大きな「外部」が存在しているということを認識させて、共同体的価値観を子供たちの内面に導入しなければ、ルールを破っても罪悪感を抱かないこどもになってしまう。家庭や学校は個性重視の教育ではなく、共同体的な価値観を教えるようにしよう。という内容。
筆者は教師で、彼の豊富な経験からこの理論が導きだされている。「常識的に」見れば、この主張は至極まっとうだ。
けれども、「共同体的な価値は、内面化することで初めて意味を持つ」ことに筆者が何の疑問も抱かないのはなぜなのだろう。確かに殺人はとても悪いことではあるし、やったらとてつもない罪悪感が私を襲うだろうけれど、殺人が、”本当にいけないことか”は場合によるのだと私は思う。もし、自分の家に連続殺人犯が侵入し、襲ってきたのなら(殺るか殺られるか選択をせまられたなら)、あなたは家族を守るためにも、殺人犯を殺すべき、である。このように内面化された道徳観が役に立たない場合がある。しかし彼はこのことを全く考慮に入れていない。
つまり私が言いたいのは、共同体的価値に従わないほうが個人としても全体としても幸せになれる場合があるかもしれないのに、共同体的価値が本当に合理的であるかを再検討することもなしにそれをそのまま子供たちに注入するということが、果たして最善といえるのだろうか。ということである。
私はむしろ、何が最大の価値であり、どのようなルールが人々を幸せに出来るのか、常に生徒に問いかけ、深く議論させていく方法しかありえないのではないかと思う。
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http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480058218/
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1999年刊。
本書の初読は2006年だが、彼の他の著作は既読で、内容は既視感漂う。
なるほど、本書の言うように、現状、一面では学校が教師の献身的努力に依拠するのだろう。
しかし、著者のいう超越的自我を、家庭において破壊という処方箋だけで、問題を解決するのは不可能と思える。
教育システムを構成する教師群が、保護者から見ると他者としか評価されず、子対教師の構図の際、多くの保護者が子の弁護・味方として振る舞うからだ。
しかも、教員は絶対的な数を揃える必要があり、残念ながら玉石混交といわざるを得ない。玉のレベルを上げるという方法は取れないのだ。
結局、教師が各保護者との間で個人的信頼関係を構築する必要があるが、担任持ち上がりが不明確である点。教師団かも明確でない。そして、文教予算配分の厳格化によって、教師1対生徒30との構成が、地域的特異的例外を除いて、概ね堅持されていることからみて、困難な局面もあろう。
さらにいえば、無謬性が一定程度許容される公務員という資格・地位では、信頼確保が図れるのだろうか。無謬性は維持するか資格保持には厳格に対処、あるいは無謬性はない(対生徒への個人的な責任を肯定)が、資格保持は広く容認するのいずれかが求められるのでは…。