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もうスキ。ダイスキ。たまらなくスキです。すてきなイギリス映画観た感じですよ。
なんてことはない、その辺にいそうな方々の日常が描かれているのだけれども、
たまらないです。もう読んで。ぜひ読んで。すぐ読んでっちう感じです。
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もうタイトルからして、そそりますね。
友がみな我よりえらく見える、そんな日、しょっちゅうです。
友どころか、すれ違うお姉さんさえ眩しく。
ネットでふと見るサイトさえ眩しく。
ネットサーフィン中に自分と照らし合わせてマジ凹とかよくあります。
そんな日に買ってみて、そんな日に読んでみたわけなんですが。
癒されてしまったぞちくしょう。
してやられた。
ノンフィクションで何の作為も感じさせず、お前を癒すぞという押し付けがましさがないからこそ、なんとなく温まってしまったようです。
取材している上原氏の軽いツッコミみたいなのは時々入りますが、それは思ったことをただ思ったままに書いたまでで、決して胡散臭いメッセージ性などないのです。
なのに全体が暖かいのは、人間性でしょうか。
出てくる人々も、けして不幸ではなく、可哀想でもなく。
淡々と、ただ暮らしている。
とても人間らしくて暖かい。
悲観はやめよう。
あたしもただ、暮らしていける。
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以下のページで感想書いてます。
http://blog.livedoor.jp/subekaraku/archives/25739652.html
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正にタイトル通りの、友だけじゃなく全ての人間が自分より優れて見えた日に手に取った作品。どんなに辛い境遇でも、自分で慰める術を見つけて生きている人たちのノンフィクションです。自分を支えられるのは自分だけ、というのがテーマのようなんですが。大変無様で甘ったれたことをいいますと、その自分を励ます方法すら思いつかないから、他人が皆自分より偉く見えるんです。そういうこと見つけられる人は、どんな恵まれない状況にいても十分偉いと思います。いろんな人の、自分を立て直す例があげられてますが、その中に自分にあった方法があるかと言えばそうでもない。そこまで答えを示せというのは無理な話なんですけどね・・・。返って自分が情けなくなってしまったりして。
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上原隆氏による、世の中に生きる市井の人々を照らすノンフィクション・コラム。読むと、たくさん知り合いが増えたように感じる本。何度でも読み返したくなる一冊。
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ノンフィクション。全14話。
劣等感を持った様々な人々の生活のルポ。
例えば、離婚して孤独に暮らす中年男性や、容姿にコンプレックスがあるため男性と付き合ったことのない中年女性など。
この本のおもしろいところは、彼らの歩んできた人生や、今現在の生活を淡々と取材しているところ。彼らの生きる姿勢を非難したり、かといって同情したりするわけでもない。ありのままの姿を伝えている。
この本を手に取ったのは、タイトルに惹かれたからなんです。これは、石川啄木の『友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ』っていう詩からとったようです。この詩すっごく好きなんですよね〜。だからこの本に惹かれてしまいました。
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リストラ、夫の浮気、父子家庭、46年男性と付き合ったことのない女、登校拒否、うつ・・・
ありふれた話であると同時に、ありきたりの同情の言葉を浴びせられ、偏見や無理解の奈落にいる人々。
淡々と彼らの生活の記録が綴られている。
私はそこに温かさを感じる。
その立場に置かれたことのない人のどんな同情の言葉も、彼らには聞き慣れたただ辛いだけの言葉になるだろう。
彼らはただ、一般に「不幸」と名づけられる生活の中で黙々と生きている。
どんな名前をつけられようと、人間には「生きる」か「死ぬ」かぐらいしか決定権を持つことはできないのだ。
そして彼らは、時に自責し、時に絶望し、時に諦念し、それでも「生きる」ことを選んだのだ。
特別な人の特別な生活ではない。
ありふれた人々のありふれた生活。
それが「生きる」ことだ。
希望ではなく「ただ生きる」意志。
[ノンフィクション]
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人はみんな自分を励まして生きている
http://www.touchingword.net/detail.php?id=555
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なんとなくフラーっと自分の元にきた作品。
「楽だからというアンフェアな理由で、すでに消滅している概念を平気で使うメディアが、現実を生きている人のことを正確に伝えられるはずがない」
上記の記述は「あとがき」からの引用だが、最近自分が社会に対して常に違和感を感じてはいたが、どう言葉にしてよいかわからず、ムベー、メターとうずくまっていたが、この言葉によってだいぶスッキリした感じがした。
ふと、この作品を読む寸前に読んだ志賀直哉氏の「城の崎にて・小僧の神様」における巻末の解説にある一節を思い出した。
「自分を熱愛し、自分を大切にせよ」
「自分は自分の過去を顧み、自分を熱愛し、自分を大切にし、自分を尊敬して来たという自身を持つ事が出来る。然し同時に絶えず自己嫌悪にも陥入った。自分ほど駄目な奴はないという風にも思った。然し遂に自分を見放しはしなかった」
「こんな時代」だからこそっと言っている時点で、作られた「普通」の中にいることを意味している。「こんな時代」とか「あんな時代」とかじゃない、人間はもっと本質的なものだ。と思える作品。
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「努力している」「頑張っている」と公言する事もあれば、自分の心の中で言い聞かせることもある。時には、人にそういってもらいたいが故に、必死な自分を見せ付けることもある。そのときのなんとも言えない安心感と慰めと虚無感が共存する。
どんな生活をしていうようと、どんな暮らし向きであろうと、どんな状況下であっても人は生きねばならない。だからその人自身は懸命に生きているのである。
人は、上を見ては嘆き、下を見ては安堵を得る。その上、下は自分本意な基準に過ぎないのだけれど。そして、永遠にその基準など普遍化することなどできないものだが。
作品を読み始めたとき、多かれ少なかれ何か登場人物たちと自分の現状を比較し、自信を取り戻していた。その当時、弱っていたからなのかもしれい。しかし、読み進めれば、進めるほど、自分が如何に弱く、脆い人間であるかを再認せざるをえなくなった。ここに書かれている人たちのほうが、断然強く、自分らしさをもって生きている。
アイデンティティ教育、「自分らしさ」が誇張される現代の世の中において、人はそんな事を教えられなくても、強調しなくても、自分らしく生きている。ただ、それをどう自分が感じているのか、それが重要なことなのではないだろうか。
他人ではなく、自分がどう思うのか、思えるかなんだと思う。
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日本のボブ・グリーンこと、上原隆の著作。「普通」の市井の人々の悲しさ、辛さに焦点を当てたのが本作。
たしかに「普通」の人々の記録であるし、目になかなか入ってこないのが他人の苦労であり不幸である。他人の不幸は蜜の味などとしたり顔で言う人もいるが、本質的に人間は他者に関心がないではないかな。むしろ、本当に市井の人々を捉えるのであれば「ガラスの幸せ」に焦点を当てるべきだと思う。
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ホームレス同然の生活を続け妻子からも捨てられた芥川賞作家、アパートの五階から墜落し両目を失明した市役所職員、その容貌ゆえに四十五年間、一度も男性とつきあったことのない独身OL…人は劣等感にさいなまれ深く傷ついたとき、どのように自尊心をとりもどすのか。
読むとなぜか心が軽くあたたかになる、新しいタイプのノンフィクション。
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人は自分で培ってきたやり方によってのみ、困難な時の自分を支えることができる。
私よりひどい生活をしている人もいっぱいいる。私よりも孤独な人もたくさんいる。私より大きな不安を抱えている人もいる。そういう人と比べたら、私はまだずっとまし。
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ホームレス同然の生活を続け妻子からも捨てられた芥川賞作家、アパートの五階から墜落し両目を失明した市役所職員、その容貌ゆえに四十五年間、一度も男性とつきあったことのない独身OL……人は劣等感にさいなまれ深く傷ついたとき、どのように自尊心をとりもどすのか。読むとなぜか心が軽くあたたかになる、新しいタイプのノンフィクション。
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ひきこもり時代にお世話になった。文章に作者の個性がない、とてもいい意味で。前向きに生きよう!みたいな押し付けがましさが嫌な人にも。