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教養系新書では、漫画やアニメや特撮ヒーローの正義の味方がまず言わない、多様な意見に接することができる一例ですね。
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◯旧優生保護法一時金支給法が可決された今、基礎から学びたい人におすすめの一冊。優生思想、優生学をその起こり?を世界史的な視点から丁寧に説明されている。その流れの中で、我が国における優生学の位置付けが見えてくる。大変分かりやすい。
◯優生学まではいかないものの、日々を生きる中で、例えば職場においては仕事に対する能力が絶対的な価値を持つことになるが、その能力を持たない者に対しては不要な人間であるかのように扱い、排除することは往々にしてありうる。
◯この辺りは生活のためであるので仕方ないとは思うものの、全く関係はないのだろうかと考えてしまう。
◯昨今のパワハラなどの議論の根底には、こういった人間が無意識に抱く整理する思考や清潔感があるのではないか。
◯そうした身近なことから考えに対しても、この本で語られている、未だくすぶり続ける優生的な思想に対する示唆はとても参考になる。
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人種についての勉強から、発展して優生学へ。
これまでの優生学=ナチズム=ホロコーストという単純な理解を大いに覆す、素晴らしい良書だった。
優生学は「邪悪」な、いわばヒットラーのような悪の権化によって勧められたのではなく、当時としては近代化を進めるという目的の中で「合理的な」方法として多くの先進国が採用したことが丁寧な各国の優生学史比較によって浮き彫りになっている。
ドイツにおける優生学の遷移とナチズムへの継承、「福祉国家」として名高い北欧で「積極的」に優生学が採用された理由、「戦後」に優生保護法が確立された日本、などの考察は素晴らしい。
そしてそれらは「過去にあったこと」ではなく、現在も、今後も大きな社会的課題として向き合わないといけないと本書では指摘されている。
当時、優生学は社会が批判の目を向ける中で国家が暴走したものではなく、むしろ歓迎されて、社会が進んで「不良な遺伝子」を社会的に取り除いて行くムーヴメントがあった。
その中で、「社会が抱える違和感に気づけるのか」が本書の投げかけるメッセージであり、アメリカ主導の「本人自決による選択的中絶」「遺伝情報産業」とどう向き合うか?を問われている。
また、人種差別=優生学、ともならないこと、一方で根本にある価値観=生きる人間と死ぬべき人間を分ける、は同じということも大きな学びとなった。
一点、苦言を呈するならフランスについて言及した第4章において、「フランスではドイツと異なり家庭医が中心の医療体制だったためそれほど優生学は政策実現されなかった」という論調で書かれている。
その他の章の多角的な分析とは異なり、この章だけ肩透かしを受けたような、「それだけ?」という感想だった。
それならば別建てで「なぜ他の先進諸国では優生学は政策的に進められなかったのか?」「社会構造・文化・宗教・経済状況などを比較して優生学に歯止めがかかった事例」という反対側からの目線を描くことで、この本の厚みはもう少し出たのではないか、と思う。
優生学についてはその他にも専門書は多数あるようだけど、学びたい人はまずこれを手に取るのがお薦め。
発行から20年を経過した現在も入門書としてリーダブルであるのは何よりの良書の証明だが、言い換えれば社会における課題とそれに対する批判が20年変化していないことも大いに驚くべき。
人種差別と並行して、優生学についてあと何冊か読みたい。
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旧優生保護法の問題から学びなおしたが、優生学、優生政策、優生思想など、歴史的経過も含めて、整理された良著である。着床前診断など、優生学の問題は形を変えてきているので、その意味で倫理的にも整理が必要な分野である。
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優生学についての前提を教えてくれる。
欧米と日本における優生学の歴史、ナチスとの安易な結び付けによる誤謬。事実に基づくフラットな記載でとても勉強になった。
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ーー優生学の実像が、優生政策をナチスのそれに集約させてしまう旧来の解釈図式からはるかに隔たった、「合理的な近代化政策」の一種であったことを明確に論証してみせたことが、本書の特徴の一つである。(p.278 おわりに)
この一文に、この本を読む意義は集約されている。
一方で、
ーー過去の何が問題であったのかを明らかにし、それらを一つ一つ精算していくことが必要である。(p.275 生命科学の世紀はどこへ向かうのか)
とあるものの、日本くらいそれが苦手な国もちょっと見当たらない、と個人的には思っている。
事実、1995年に「優生保護法」が「母体保護法」に改正された際は、
ーースピード決着が優先されたため、強制的不妊手術をはじめとする優生保護法下での人権侵害や、反人権的な優生条項を放置してきた国の責任が、国会の場で問われることはなかった。(p.229 日本ーー産後の優生保護法という名の断種法)
という。
だからなのかな、と思うのは、自分の中に「内なる優生思想」が根深く巣食っていて、不断に思い返していないとあっという間に排除の原理が自分の言動に顔を出してしまうこと。何となくだけれど、自分の母親が選択的妊娠中絶を複数回経験していて、そのことを「お前たちを守るためだった」と繰り返し話していたことと無関係ではないのかな、とも思う。当時の母が置かれていた、家庭状況、経済状況、そしてこの本を読んで知った、1980年代の社会状況。それらを考え合わせると、一体、どこらへんに母にとって「選択」の余地があったのだろう、と思えてくる。自由意志……たしかにそうなんだろうけど……
迷惑かけるのが分かってるから、最初から排除しておく、という発想は、生殖医療の分野に限った話ではない。むしろ、それ以外の場面で語られる言葉が生殖医療の分野にも滑り込んでくるんだろう。しかも、括り出しが福祉の水準を向上させる、と考えられていたという経緯もある。
けど。
迷惑……
迷惑かぁ……
程度の大小はあれ、誰でも誰かにはかけてるよなぁ、迷惑。
どこからが「大きい」迷惑で、どれくらいまでなら許容範囲なのか。どこにも線引きはないから、忖度し、空気を読み、同調圧力に膝を屈し……ということになるんだろう。
一方で、ガイドラインがあったらあったで、殺伐とした世の中になることも予想がつく。全てがビジネス、という社会が、その延長線上にあるのかな。
1人の当事者として、全ての子どもが生まれてくるべきだ、とも言い切れないし、生まれてくるべきでない子どもがいる、とも言いたくない。
優生学が投げかける問いには、いつもここでつまづいてしまう。
まだその程度のことしか考えられない。そういうところに、自分は立っていることを突きつけられる本だった。
けれども、そういう中途半端な人間だからこそ、これから社会がどっちの方に傾いていくのかにアンテナを立てておきたいと思う。娘たちが当事者となったときに備えて。
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面白かった。
優生政策はナチスなど極右政権だけに見られるものでなく当時の先進国で必要な政策として広く実施されていたとのこと。
ちょうど当時
・進化論を始め科学理論の発展がキリスト教価値観を壊したこと。進化という考えが新たな価値観を与えたこと。
・皆教育により知的障害者や発達障害者の数が初めて明らかになったこと。
・第1次、第2次大戦の時期と重なり、富国強兵が各国の重要な政策であったこと。
・一方で医療はまだ未発達であったため、原因不明の病気に対し過度に遺伝的要因であるとみなされたこと。
という要因が重なり、病気の原因となりうる遺伝子を社会の害悪とみなされ、優生政策が取られたとのこと。
歴史の流れの中で、タイミングが重なり、不幸な政治が行われたという事実には考えさせられた。
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20年前の本なので分野的には古めなのかな?と思ったけど、読んでみるとそんな感じはせず、現在にも通用するまさに良著という感じだった。現在でも「優性思想」というとナチス=絶対悪であるという風潮があるが、優性思想自体にはナチスと関係なく「合理的な近代化政策」として各国で採用されてきた歴史があり、ナチスの優性思想はその中ではやや特殊なものだった…ということがまず示される。そして、優性思想に基づく法律・障碍者の不妊手術等は日本や北欧でも戦後も長らく続いていて、優性思想=ナチスという図式は70年代以降に確立していったものだという。その後の優性思想は名前を変えながらも出生前診断と中絶、遺伝子科学の発展等で新たな局面を迎えているとのことだけど、発行当時といまでも状況は大きく変わってはいないように思える。
いままで、遺伝にかかわらず障碍者や精神病の家族がいる人との結婚を(お世話の問題抜きで)強く反対されるという話の感覚がよくわからなかったんだけど、親の世代ぐらいだとまだ「民族優性思想」で健康な人と結婚し健康な子供を次世代につなげるべきという社会の同意と常識があったんだなというのが理解できた気がする。個人的にも、優性思想というのは人間が普遍的に「役に立つ人」「好ましい人」を目指したり好いたりする感覚と地続きなのだから、その帰結だけを激しく攻撃しても決してなくならないだろうという思いは前からあってもやもやしていた。はたしてこの本でも「優性思想=ナチス」で終わらせるのではなく、現代の自分たちがどのように付き合うのかを考えなければいけないという問題意識がはっきり示されている。よりよいものを目指すという本能や、合理的選択にあらがうことはどこまでできるのだろうか。考えさせられる本だった。
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遺伝子は資源である。
どの国でも1970年をピークに優生なものを作ろうと言う取り組みがされてきた。
このような取り組みは善意でされていることが多いが、それは間違った想定外の結果を生む可能性がある。
福祉の負担を無くすというとても真っ当な取り組みであるが、そこにおける自分の力が及ばないところで何かされている、不確実な要素が多すぎると言う部分がタブーになっているのでは?とも思った。
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子どもができれば親は安産を祈願する。生まれてくる子が健やかであることを希う。一方で、この願いは「健やかでない子」の否定を含意する。
無垢な願いに、残酷なジレンマが内在している。こうした倫理学的側面に興味があって手に取った。これはおそらく、優生学というより、優生思想というやつだろう。
戦中戦後と異なり、国家プロジェクトとしての優生学が展開されることは想像しにくい。だが、本書もやんわりと指摘するように個人主義と効率至上主義は草の根で優生学の背中を押しそうだ。欲望がある限りそうだ。
だって、健やかな子の誕生を願うことだって、欲望にほかならないのだから。
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- 優生学=ナチズム、アーリア人第一主義、ユダヤ人排斥 というような発想に安易に結びつきうるのが現代だが、そのような単純理解だと見落とすことが多い
- 国の政策として行われてきた断種、その他各種優生政策については、特に日本ではちゃんと顧みられていない、ということを認識することが大事
- 各国の断種法で、自己決定を前提とする建前はあったが、実際には本人に意思決定能力がないとみなしたり、あるいは施設から出る条件、公的補助を受ける条件とするなど、自己決定とは言えないような環境、強制に近い形で行われていた
- 現代においても、出生前診断と中絶、という観点で見ると、本人・カップルの自己決定を前提としているが、本当にそれが自己決定といえる環境なのか、という疑問が残り続ける
- もし障害児が生まれたらそだてられる環境なのか、医師などから誘導的な声掛けは本当にないのか・・・等々
- さらに、ゲノム解析や生物学の発展によって、遺伝子情報を活用した医療や健康維持のニーズは高まり続ける。その中で、優生思想に陥るリスクは常にある。どこがラインなのか、ということを考え続けることが必要になるのではないか
- 特に、自己決定が本当に自己決定としてなされるためにはなにが必要なのか、あるいは何がそれを阻害しているのか、ということは、優生施策に限らず多くの場面で、特に福祉の世界においては持っていなければいけない視点ではないかと思う。