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あるメディア系企業の経営者の方がオススメしていてよんだのだが、こりゃ論文だぁ。真面目に読みすぎると骨が折れます。オススメされた手前読了。途中、経済学の変遷に関して要約している部分がためになった。しかし、なんか本書全体が各論の寄せ集めを脱し切っていない印象で読後に新しい世界観の夢を持てるって感じではなくて読後感がいまいち。いってることはもやっとわかるんだけど、実態のない理想論的に聞こえたしまった。
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自分のいる社会にとって一体何が課題となっているのだろうか、を考えようと思って読んだ本。
新古典派とケインズ経済学の対立を超えた道として、社会的共通資本という概念を打ち出していて、経済学の考え方を基盤としたこの問題意識を理解しないと、本書の主張を理解するのが難しいと思う。
農業、教育、医療が社会にとって重要な「資本」であり、農業の経営単位の拡大が重要であることや、都市のあり方についての観点など、これらの「資本」についての指針は示唆に富んでいるが、それがなぜ重要か、これらの示唆がどのような問題意識や理念に裏打ちされているについては、主張の基盤となる経済学の考え方を理解する必要あるため、引き続き考えていきたい。
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国家の経済活動の基盤となる「社会的共通資本」の観点から、農業、都市、教育、医療、金融、地球環境について語る新書。
特に前半は自然を崇め、そこで生きる人々を讃える古い価値観が強調されており、学者の文章としては気持ち悪さを感じたが、教育の章と金融の前半は読む価値がある。
一昔前の学者の文章を読むと、若い学者の書くものとは異なる分野の教養に支えられていることが多く、その意味では新たな発見も多い。
結局、制度学派経済学の主張の要旨はよく分からなかったが、その主張の基礎にある多様な知見には目を向ける価値があるように感じた。
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社会的共通資本という概念枠組み(フレームワーク)は良いのだが、思想内容には共感できないところが多かった。
筆者が農民を好きなのは伝わってきた(笑)
あと、「大学の先生は、いいご身分ですねえ」と言いたくなった。さんざん「大学の自由」と言いつつ、「大学の社会的コスト」については一言も言及しない。都合の悪い話はしないんだねえ。不誠実だ。
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豊かな社会とは
すべての人々が先天的、後天的資質と能力を存分にいかし、それぞれの持っている夢やアスピレーションが最大限実現できるような仕事に携わり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化水準の高い一生をおくることができるような社会。
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9月27日、宇沢弘文先生が亡くなったニュースを読まなければ、この本は積んだままだったであろう。
経世済民が経済学の根本思想であるということを考えされられる論考であった。
社会的共通資本という言葉の意味を理解することは、一定限度の前提知識を有するために、この本を読むにも多少の骨折りはいるだろう。
しかし、自由主義経済が、世界中で行き止まりを長らく叫ばれているなかでは、宇沢氏の指摘はとても有意義であり、多くの人が知りうるべきものと考えられる。
宇沢さんが、農家の青年と知り合ったことで、人間的に様々な刺激を受けたと書かれた文章を目にして小躍りしてしまった。
大学教育を受けていない人にも、必ずエネルギーを与えてくれる一冊であるはずだ。
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社会的共通資本の考え方は、このような歴史の捻転をなんとか是正して、より人間的な、より住みやすい社会をつくるにはどうしたらよいか、という問題を経済学の原点に返って考えようという意図のもとにつくり出されたものである。(p.43)
農業が若者たちにとって魅力的でなくなってしまったもっとも大きな原因は、農業に従事することによって得られる職業的充実感が少なくなり、知的な意味でも、社会的な意味でも、存在感が極めてうすいものになってしまったことにあるのではないだろうか。(p.68)
自動車の社会的費用について、第二の構成要素は、自動車事故によって惹き起こされる生命、健康の損失をどのように評価したらよいかという問題である。自動車の利便の一つが、各人が必要に応じて、手軽に自動車を利用できるということである。とくに、自ら居住する場所から直接に自動車を利用できるという利点は大きい。このことは同時に、自動車利用にともなう直接的危険がきわめて大きいにもかかわらず、それを、日常性の観点から小さく意識することが多い。(中略)自動車事故にともなう生命、健康の喪失にかんする社会的費用は、このような新古典経済学の枠組みのなかで考えられるべきものであってはならない。むしろ、このような自動車事故が可能なかぎり最低限に抑えられるような道路構造を想定して、このような道路をつくるために現実の道路を恵贈するためにどれだけ費用がかかるかということによって、自動車事故にかんする自動車の社会的費用が推測されなければならない。このことはじつは、どのような道路構造が望ましいものであるかということに関わるものであって、究極的に、どのような都市構造を私たちは求めているのか、どのような交通体系が望ましいのかという問題に関わってくるものである。(p.107-110)
教育は、人間が人間として生きているということをもっとも鮮明にあらわすものである。一人一人の人間にとっても、各人の置かれた先天的、歴史的、社会的条件の枠組みを超えて、知的、精神的、芸術的営みを始めとして、あらゆる人間的活動について、進歩と発展を可能にしてきたのが教育の役割である。(p.124)
大学は、他の教育機関と本質的に異なるものとなる。知識の探求、他の実利的、実用的な目的からまったく独立して、知識の探求のみをおこなう場として、大学の本来の存在理由がある。このような大学の目的から、大学人の行動様式、習慣、基本的性向にかんしておのずからである共通のパターンが生み出されることになる。それは、学問研究が、自由な精神にもとづいて、しかも科学技術的に細心の知識を用いておこなわれるような環境のもとではじめて実現可能となるものだからである。そこには、大学以外の教育機関にみられるような規律、規則の類いは存在する余地はない。(p.151)
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2015/02/04:読了
社会的共通資本というのは納得できるのだが、書いてある個別事例が、いまいちピントこない。
例)農村-三里塚農社 聞いたことない。
成功例じゃないと思う。
都市-自動車の社会的費用
日本の都市のうち、東京都区内、大阪市内は、鉄道社会だと思う。
増田 悦佐さんの分析のほうがピンとくる。
例) 日本文明・世界最強の秘密: 増田 悦佐: 本
参考
コモンズに生きる人間〜『社会的共通資本』 : ブックラバー宣言
URL : http://syunpo.exblog.jp/21928241
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すべて第一章の「社会的共通資本の考え方」に戻り、通底するのは人が幸せに生きていく為の経済活動とはどうあればいいのかという問いの書だったと考える。本来経済学(学とあるものはすべて)は、人が幸せにあるために問い・積み上げられていくものであるはずなのに、今の社会はいわゆるお金が増える=幸せというように、主体が人からお金に倒置されてしまっている。
その背景には、国や企業という組織の枠組が古くなってしまっていて、その枠組そのものの定義が揺らいでいる為なのではないかと思う。もっと突き詰めるなら人存在そのもの。そのために価値定義が確立している(と思われる)お金が主客転倒した形で引っ張る世界になっているのではないか。
この本はそういう観点から考えると、「社会的共通資本」という概念を立ち上げることで、もう一度、お金に使使われるのではなく、その「社会的共通資本」という枠組みの中で道具として使うものに戻すことを論じたものと捉える。
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医療、農業、教育などを資本主義でもなく官でもない社会的共通資本とする社会の提示をする宇沢さんの
思想はいまこそフラットに発想の源泉とすべきかもです。
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「社会的共通資本」のお話。「ソーシャルキャピタル」という言葉の方がよく耳にする。感覚的に理解しているつもり、なところがあったので初めて宇沢本にあたる。しかし悪い意味で裏切られた、あくまで本の構成として。新書とはたまにこういう裏切りがあるからして、やはり買うにはひける。いずれにしても経済学の方面からきた概念なのだということは承知した。こういう人の考えはそれこそ大講義室で内職しながら聴いてみたかった。岩波赤の感触。
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2000年刊。著者は東京大学名誉教授。◆表題の社会的共有資本とは「全ての人々が豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会の持続的・安定的な維持を可能にする社会的装置(抄)」で、教育制度・医療制度・金融制度の社会制度、環境、都市・交通機関・電気ガス水道電話の社会的インフラなどを意味する。◇また、何を社会的共有資本とするかは、地域の歴史・自然・文化・経済・技術に即し政治的に決定する。◆本書が示すのは、経済学的思考方法を用いて、社会的共有資本が、自由の貫徹を許容すべき対象でない点だ。
◆つまり、読了済みの倉阪氏「エコロジカル…」での問題意識とは次元が違うとの理解に。倉阪氏は、具体例を上げつつ、環境問題の是正のため、経済活動の分析において、排出物やロス、廃棄物を費用に含めて検討すべきとする。◆が、本書(つまり宇沢氏の立ち位置)は、フリードマンらマネタリストの世界的・社会的亢進への反駁・批判の意味が大。金融制度項目で生き生きと書かれる彼らへの批判がこれを雄弁に語る。◇この宇沢氏の、皆でハッピーになるために、各々自制心と自省心、倫理感と弱者への共感を持つべきとの姿勢は素敵。
ファンと言ってもイイ。が、故に気になる箇所も。社会的共通資本を政治的決定する点と、社会的共通資本の目標の具体化過程だ。◇前者は農業に端的に。著者と同じく環境と農業の関連をいうならばともかく、既得権維持にしか作用しないと、著者に批判的ならどうか?◇後者は教育が想起。教育の具体的目標は何。例えば、ノーベル賞輩出の増。将来の主権者たる国民の判断能力を増進。全体の底上げ?。芸術・文学を含む人間の生きる張り合いを増す能力を身につけさせること?。◇これに著者は何も答えてくれない(著者なりの理想社会像がある故だろうが)。
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ゆたかな社会とは:すべての人々が、先天的・後天的資質と能力を十分に生かし、それぞれの持っている夢とアスピレーションを最大限実現できるような仕事にたずさわり、その私的社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会。
これに必要な基本的諸条件は
①美しいゆたかな自然環境が安定的、持続的に維持されている
②快適で清潔な生活を営むことができるような住居と生活的、文化的環境が用意されている
③すべてのこどもたちが、それぞれの持っている多様な資質と能力をできるだけ伸ばし、発展させ、調和のとれた社会的人間としての成長しうる学校教育制度が用意されている
④疾病、障害に際して、その時々における最高水準の医療サービスを受けることができる
⑤様々な希少資源が、以上の目的を達成するために、最も効率的、かつ衡平に配分されるような経済的、社会的制度が整備されている
自動車の社会的費用:自動車の所有者や運転者が負担すべき費用を歩行者や住民に転嫁していること。これが放置されると自動車を利用するほど大きな利益を得るようになり自動車需要は増えていく。
学校教育が果たしている3つの機能:社会的統合、平等主義、人格的発達
大学の意義:学問の研究と学生の教育。教育は副次的。研究といっても特に、規律・規則がなく自由な精神にもとづいて行われる点が企業などとの違い。
日本の保険システムのゆがみ:人件費、設備維持費の赤字分を検査料、薬剤料などから出る黒字で補填している点。医療的最適性と経営的最適性の乖離。
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本文より
現行の医療制度について、そのもっとも重要な問題点は、保険点数制度に基づくら診療報酬制度である。この診療報酬制度のもとでは、医療の供給体制を長期間にわたって、望ましい状態に保つことはほとんど不可能であるといってよい。
日本の医療制度の矛盾するを一言で言ってしまえば、それは、医療的最適性と経営的最適性の乖離ということではなかろうか。
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過去の論文などをまとめたもののようだ。そのためか、農業、都市、教育、医療、経済、環境を取り上げているが、それぞれのテーマでは細かい議論に入り込んでいる印象が強く、全体としてのまとまりが感じられなかった。
共有地の悲劇は、オープンアクセス、コミュニティの規約の制約を受けないことを前提としている。コモンズでは人々の集団またはコミュニティが確定され、その利用に関する規制が設けられているため、共有地の悲劇は発生しない。空海による満濃池の大修築と溜池灌漑の管理のコモンズ制度は、持続可能な農の営みであった。