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原発をめぐるシステム、制度、人間などについての問題点の包括的な指摘。
実際に、携わっていた著者だからこそ言える、リアルな危惧。
2011年3月11日の震災、およびそれに続く原発事故を期に、高木仁三郎が再評価されることは想像にかたくない。
ずーっと、警告し続けてきた人が、ずーっといたのである。
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市民科学者の故高木氏の著作。物理学者など、原発を研究する人たちが、いかに放射能の恐ろしさをあまり配慮せずに、原発を扱っているかが伝わりました。
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原子力の本質はあの八月の閃光だ、「絶対的な破壊」だと著者は主張している。
力は別の力に変えられる、破壊の力も平和の力に変えることができると信じて、科学は進んできた。
原子力技術にまつわるさまざまな問題点も、未来の技術が解決してくれるだろうと信じて、色んなことを置き去りにしながら進んできた。
では何を置き去りにしてきたのか。
原子力事故が起きた背景には何があったのか。原子力問題の根本には何があったのか。
それが明らかにならない限り、日本の原子力行政は最悪の事故を招いてしまうかも知れない。
その危機感が、余命幾ばくもない著者を執筆に向かわせた動機だ。
原子力の問題点を原子力産業の歴史から始めて、丁寧に明らかにしている。(1 議論なし、批判なし、思想なし 2 押しつけられた運命共同体)
3 放射能を知らない放射能屋さん
原子力産業の中にもさまざまな分野があり、放射能の危険性を充分認識して慎重に扱っている分野もあれば、放射能の危険性に鈍感で無神経に扱っている分野もある。
そして原子力の開発の主流である炉物理学や原子炉工学の分野の人は、放射性物質の扱いが化学者の目から見てぞんざいで、それが原子力の安全性の欠落に繋がっているのではないかという指摘はショックだ。
以下本文要約
「化学物質を扱っていると、教科書通りでないことがしょっちゅう起こる。慎重に扱っているつもりでも、放射性物質は予測できない動きをして、いつのまにか実験室を汚染してしまったり、揮発を起こしたりする。
そういう経験を経ながら、放射性物質というのは非情に難しいものだと放射化学者は学んでいく。
放射化学者は放射能がいろいろな状況で漏れてしまうことに敏感だ。
その危険について発言もするが、工学的に放射能を扱ったり、計算上で数値としてのみ放射能を扱ったり、物理法則の上だけで放射能を扱ったりする核物理学者はその感覚がよく分からないようだ。
物理学者は非常に考え方が緻密だ。
彼らは物理現象を綿密に解明し、化学者が見逃したことまできちんと測定する。
けれど、物理学者は実際に自分の手で放射性物質を扱うことについては、まったく訓練ができていない。
彼らは、放射能物質の微妙な扱いにくさを知らないで、計算だけで済ませている。
科学技術庁(現・文部科学省)にも本当に放射能のことを知っている人間は少ない。だから、放射能の扱いの無神経さを取り締まれないでいる。
計算で見積もるよりも放射能は漏れやすいのだ。」
「炉物理とは中性子が原子炉の中でどのように振る舞い、原子炉の中でどのような反応が起こるかを調べる学問だ。炉物理学者は、原子力の現場の第一線で原子炉の設計をする。彼らは、原子力産業の頭脳の中心に位置している。彼らはマクロ量の化学物質や化学反応の扱いには長けているが、ミクロ量の物質を扱うセンスはまったく持っていない。マクロ量とミクロ量では違う扱い方をしなくてはならないということも知らない。
彼らは放射能物質にまつわる知識や理論は豊富に持っているが、実際に事故の時に問題になってくるような放射能や、日常的に汚染が問題になるような放射能の微妙な取り扱い、放射能に生じる微妙な難しさを理解していない。
実際に手で持った経験がないので、全て計算だけで組み立てられている。
計算上や理論だけで放射能を理解することはできない。実際に放射能を手で扱えば、はるかに厳しい世界が見えてくるのだ。」
4 個人の中に見る「公」のなさ
日本では、現在の政府の方針に沿う言動だけが公益と認められる傾向がある。個人の倫理観や、社会の持っている健全なチェック機能は公益と結びつかないように言われている。政府の計画が絶対で、一人一人の人間はそれを実現するために従うことのみを求められるとしたら、文化も教育もあったものではない。個人の倫理は消え去ってしまう。
「公」とは、政府や各種行政機関などの公的機関や、役職を持つ公人などの狭い意味ではない。
「公=パブリック」は、人間の持っている個人を越えた普遍性のことだ。
「公」と「私」が同時に矛盾なく存在できる方法はあるはずだ。
5 自己検証のなさ
普遍性を追求する技術の分野で、物事を曖昧にしたまま自己検証をしないでいるのは問題だ。
日本の原子力産業は自己検証能力がない。事故調査委員会でも、事故の責任だけでなく、自己検証がなされなかったという問題が明らかになっていない。過去の事故も、「想定外」な出来事が起きたので、事故が起きた施設を作った人に責任はないということにされた。けれど、その想定が妥当かという検証はされなかった。事故調査の徹底より、自己防衛を優先したのだ。
調査には、厳しいチェックを行い徹底して究明する自己検証型の調査と、これ以上ひどいことにはならなかったということを立証したいが為の防衛型の調査と、二通りの調査がある。
国や関係機関による調査は、被害はこの程度ですんだ、国の安全審査はそこそこ健全な機能を果たしていたと証明するためにするので、防衛型の調査になりがちだ。
事故調査委員会が作られる場合でも、文部科学省が最初から結論の方向性を想定して、その線に沿って調査が行われる。
どういう結論が出ても恐れない徹底調査がされたことは原子力産業内ではほとんど無い。大抵は大体こんな事だろうというシナリオで済んでしまっている。それでは、同種の事故を起こさないという保証が充分得られない。
6 隠蔽から改ざんへ
データの隠蔽や事故隠しは、どの産業でも昔からよくあることで、それほどの悪意が無くても自分のマイナス行為については小さく言いたがるものだ。
原子力産業内ではこれが顕著で、事故隠しの体質、秘密主義の体質と厳しい批判を受けてきた。
1970年代から1980年代頃までは、大きな事故が起こっても外部に隠され、随分時間が経ってから内部告発によってかろうじて明らかになるというパターンだった。
1990年代に入ってから起こった「もんじゅ」や東海再処理工場の事故では、隠しきれないほどの規模の事故だったので事故そのものは公になったが、自己の進行状況や情報は隠されたり、事故を小さく見せかけるように意図的���編集した虚偽情報を発表する方向に変わってきた。
事故の隠蔽の質が変わったのだ。
データ隠しというのは、ちょっと失敗しちゃった、不都合をやってしまった時に、それを積極的に言わないで黙って隠しておくこと。それで済めば隠しおおせる場合もあるかもしれない。
しかし改ざんは積極的に嘘をつくことだ。安全を立証するために、なかったことをあったことにする。虚偽報告は、隠蔽よりも次元の進んだ意図的な悪質行為だ。
技術者にとって観測した数値は絶対だ。改ざんは技術にとってはあってはならないことだ。人によってデータの解釈が異なることはあるだろう。しかし、観測した生のデータを書き換えたら、技術が存在しなくなってしまう、基礎の破壊だ。
改ざんが行われるようになってきたということは、それによって安全性が損なわれるというレベルに留まらない。技術者の基本的な倫理が問われる、根本的な問題だ。
「捏造は、技術者にあるまじき事です。…略…技術というのは、自分で実際に計算した数字や実験的に確かめた数値に基づいて事を運んでいきます。それを勝手に別の数値にすり替えてしまうようなことをやって、平気でいる。これは技術の倫理、技術の公的性格という観点からは、とうてい許される行為ではありません。…略…国はこれを、結果としては大して安全性を損ねていないからと安易に済ませているようですが、とんでもないことです。「安全文化」という言葉を口にするならば、その根本に関わる重大な問題であって、徹底的に究明されなくてはなりません。」
7 技術者像の変貌
日本は技術立国と呼ばれ、科学技術によって戦後急速な経済成長を成し遂げてきた。
しかし、JCOをはじめとするさまざまな事故。阪神・淡路大震災で露わになった建築の耐震設計の甘さや都市構造の弱さ。H-2ロケットの相次ぐ失敗。
これらの出来事が、日本を支えてきた技術にもろさが内包されているのではないか、という疑問を出した。
技術の基本には、実際に物に触れ、その物の感触の中でやりとりをして、そこからさまざまなことを感得し、学び取って工夫をすることだ。
サイバースペースにあるヴァーチャル・リアリティーの世界での数値制御や画像処理で全てすますのは、リアリティーの感覚が相当違う。
現在の技術はコンピューターを使った計算技術やサイバースペースを使ったシミュレーション無しでは立ち行かない。
IT技術時代の技術者には新しい倫理が必要だ。
リアリティーが薄れる世界でモラルをどう保つかが問われている。
8技術の向かうべき所
「本当に原子力安全文化というなら、機構の枠組みではなく、関わっている人間のありようがどう変わるかということが問われるべきですが、国の側は、個人個人の技術というものをどう捉えるか、あるいはその個人が集団として集まって企業体をなすときに、その技術の公的性格というものをどう捉えるか、そういう根源的なレベルに戻って考えているわけではないのです。ただ安全第一主義と言うことを標語のように捉えているだけなので、なかなか徹底した改善には至りませんでした。」
安全とは、技術に内包されていること。大きく構えて考え��ようなことではない。
パッシビズムの技術
人為的な介入が無くても事故が収まるようなシステムを念頭に置いた設計。重力によって水が高いところから低いところに流れるとか、熱も高いところから低いところに伝わるとか、そういった自然法則に充分に依拠したようなシステム。太陽熱のように自然の循環の中でエネルギーをまかなっていくシステム。
原発は自然の法則に逆らったシステムの典型。
自然を制御することは不可能だ。
時代を逆行するのではなく、自然を支配するのでもない、大きな事故や破綻を招かずに済むシステム。これからをどう生きるか。
原子力事故の賠償は民間企業が払いきれるものではない。社会的責任を負いきれるものではない。
だからといって、国が民間企業の事故の責任を肩代わりするのはおかしい。
これまで安全神話を宣伝してきたのに、いまだって東電は大事な広告主だから主要なメディアもあんまり原発のこと悪く言えないでいる。
これだけの事故を起こした会社が社会的責任から逃れていいなんて、ありえない。
その一方で、福島第一原発で作業している人達は、そこまでしなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。
民間企業の従業員なんて、本来国家的責任とは無縁の筈なのに、いま「国のために」将来深刻な健康被害が出るかもしれないリスクを承知で作業している。
原子力はリスクが大きすぎる。何か起こったときに、一部の民間人にリスクを押しつけるようなシステムは間違ってる。
「原子力ありき」という前提で全てが決まっていった。
日本の原子力産業は国が主導で作っていったから、原子力に否定的な意見は排除されていった。
電力の選択肢が欲しい。
自分で使う電気を、原子力発電所で作った電気か、火力や水力発電所で作った電気が、風力や太陽光発電などの再生可能なエネルギー発電所で作った電気か、選ぶ自由が欲しい。
原子力産業への政府補助を削って、電力の選択の自由のための補助をしてくれればいいのに。
そしたら電力会社もいまある原子炉は老朽化するまで使うだろうけど、リスキーな原子力発電からは段階的に撤退するだろ。
原子力発電の縛りを無くせば、将来もっと良いエネルギーが見つかるかもしれないし。
参考図書
『原子力の社会史』吉岡斉 朝日選書 1999
飛岡利明 原子力推進 推進派と反対派の議論が必要
『原子力eye』 原子力産業側が出している雑誌。超原子力推進派。いまでもあるのかな。
「原子力事故の災害評価」についてもうちょっとkwsk
ガルシア・マルケス ラテンアメリカの作家 ノーベル文学賞を受賞した。
原子力資料情報室 脱原発を目指すNPO法人
グレン・シーボーグ
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[ 内容 ]
日本中を震撼させたJCOの臨界事故をはじめ、数々の原子力施設の事故から明らかになった国の政策や原子力産業の問題、技術者の姿勢を問い、これからの科学技術と人間のあり方を考える。
生涯をかけて原発問題に取り組み、ガンで逝った市民科学者・高木仁三郎が闘病中に残した最後のメッセージ。
[ 目次 ]
1 議論なし、批判なし、思想なし
2 押しつけられた運命共同体
3 放射能を知らない原子力屋さん
4 個人の中に見る「公」のなさ
5 自己検証のなさ
6隠蔽から改ざんへ
7 技術者像の変貌
8 技術の向かうべきところ
[ POP ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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「核施設と非常事態 地震対策の検証を中心に」で再注目されている高木仁三朗さんの遺作。
原発事故の根底には日本人の持つ「自己の抜け落ちた客観性」という技術観があると高木さんは言う。これは役人の「公共性」に対する考え方にも通じ、「脱原発」を掲げる原子力資料情報室の設立のさいに「それは政府の理念と違うから公益性を欠いている」という彼らの言葉にそれを痛感したという。
あとがきに次のような記述がある。
「なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO自己からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです」
高木さんは自らの危惧が他ならぬ日本で現実になるのを目にすることなく大腸癌で亡くなったが、震災後の日本で原子力産業が生き残る道があるとすれば、それは高木さんのいう「パッシブセーフティ」、つまり大災害の際に外部的な動力を必要とせずに稼働を停止する技術を追求することだと思う。
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企画コーナー「今、原発を考える時」(2Fカウンター前)にて展示中です。どうぞご覧下さい。
貸出利用は本学在学生および教職員に限られます。【展示期間:2011/5/23-7/31】
湘南OPAC : http://sopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1324430
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2000年の夏に書かれた原発の隠蔽、改ざんは、その後も続いていたんですね。福島原発事故は、起こるべくしておこったように感じる。高木さんが心配した通りになってしまった。
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「会社の理念」にひたすら忠実に働くとは異常なことなんだ。
本来、自分の行いが社会にどんな影響をもたらすのか、どんな意味があるのか、という自分のもたらす公益を考えて働かなくてはならない。
それがなく、皆がただ誰かの言う「理念・方針」にしたがってだけいるから、誰も責任がとれなくなってしまうんだ。
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11年前に上梓されたこの本に書かれていたとおりのことが、今回福島で起こった。
こと原発のことだけでなく、ある意味でこの本は「日本文化論」としても読めるのではないか。
「公」の意識とはいかなるものか、今ほど一人一人に問われている時代はなかろう。
全ての日本国民必読の書。
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放射化学を勉強する必要性を感じた。
出版は著者が亡くなった後とのこと。
口述筆記だったという。
論述の内容はその通りだ。
具体的にどうするとよいかが見えてなかった。
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今回の原発事故で、企業、政府の隠蔽体質がはっきりと現れていたけれど、
この体質は本当に昔からで、著者がこの本を著した後も何も変わっていないように思えた。著者が今のこの状態を知ったら、何を思うだろう。政府や原子力関連事業に携わる人達の体質はこれからも変わる事はないのだろうか。
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闘病生活(大腸がん)を送りながら口述筆記し最後の著作となった書。「原子力の名において技術者の主体性がそがれるようなプロセスがある」「そこにはカルチャーがない」(P115)という指摘、とても興味深かった。
日本には「公共性」がないのではないか、というのです。企業の体質も、日本独自の「私小説」にみられる耽美的で破滅的な美のありようも、公共性のなさという点でまったく同じなのではないか、と(P106)。
本当の安全文化とはどういうものであるか、技術だけでなく、文化の面から考察した書。
「後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。」
最後まで科学者として反原発の姿勢を貫き、この国の将来を危惧していた高木さん。今の状況を見たら何とおっしゃるか…。
わたしたちは、原発がどれだけ危険なものか、いやというほど思い知った。本当の安全文化を構築しなくては。そのために一人ひとりが、考え、行動しなくては。
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市民科学者として著名な高木仁三郎氏が、福島第一原発事故よりもずっと以前に人類に向かって発信していた警告の書。名著である。もっと早く知っておくべきだったと深く後悔。
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フクシマの惨事から半年が経過しようとしている。
何もできない私はしばらくの間、余暇を読書にあてることとした。
核に関わる書籍との付き合いは不思議と焦燥感にかられる。
ゆえに一気読みになってしまう。
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日本の原子力政策のトップダウン的性格に起因する、責任の所在の曖昧さ、実際に放射性物質を取り扱う技術者の認識な甘さや、データの改ざんや捏造等杜撰な管理体制等をするどく指摘されていた。どれだけ科学技術が発達していったとしても、その技術を扱うのは不完全な人間であるということを忘れてはならないと思った。