紙の本
冴え渡る大塚「まんが論」
2001/10/22 11:30
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投稿者:森亜夫 - この投稿者のレビュー一覧を見る
第一部は大塚英志担当の「まんが論」、第二部はササキバラ・ゴウ担当の「アニメ論」である。内容は通史という形でなくて、中編の作家論を複数載せることにより、「まんが・アニメ」を浮かび上がらせる。前半の大塚のまんが論は、いつものように、とても刺激的である。手塚治虫、梶原一騎、萩尾望都、吾妻ひでお、岡崎京子を論じているのだが、その中でも、萩尾望都論と吾妻ひでお論は圧巻であった。女性性の受容というテーマから、萩尾望都を論じる手つきは、フェミニズムと通じるものがある。また、吾妻論は、「オタク」の男性たちのセクシュアリティを鋭く分析する。この著者の「性」に対する一貫した問題意識に、読者は「まんが」を読む際の新たな視点を獲得できるだろう。実りの多い書である。
ただ、残念なことに第二部のササキバラ・ゴウの「アニメ論」には、一貫した問題意識というものが感じられない。よく知っている。詳しい。しかし、それだけのような気がする。それはもちろん、ササキバラの責任ではなくて、まんが論と比べてアニメ論がまだまだ始まったばかりの揺籃期にあるということが原因の一つだろう。
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二人がそれぞれ漫画とアニメについて語っているんだけど、手塚という座標軸を元に語っていて、しかもその継承者ということで考えているから、なんか大塚英志のほうは話が狭い。夏目房之介のほうがスケールが広い。この本あんまりお徳感がない。あと、こういうオタクが開き直った本、つまりサブカル大事じゃんよ系の本の読まれ方って二種類あると思うんだけど、一つは同志がよく書いてくれた、ってやつで、もう一つは一般の人に向けて読んでくれ、ってやつ。で、後者の読まれ方を期待するなら、中にいる人が書いちゃダメな気がするんだよなあ。俺、自分は一応マンガやゲームとかに関してはぎりぎり非オタクサイドだと思っているんだけど、それは非オタクサイドが愛するマンガやゲームを中心に読んでいるという気がするからで、そういう読み手は潜在的にたくさんいるんだけど、その一人を代表して言わせてもらうと、この本はなんか臭うんだよなあ。「動物化するポスト・モダン」も臭気がある。それって主観的な問題かもしれないけど、でも夏目房之介はそういう感じしないから、その差があると思う。とりあえず、この本はペラペラ。新潮新書のリーズナブルなお徳感に慣れてくると(あれはダイジェストを作るのが巧い編集者の技量なんだろうと思うけど)、こういうテーマでお徳感がない本はキツイ。
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この本を読みはじめてようやく気付いたけど、やっぱり自分が経験したこと以外を吸収したり理解したりするのはかなり難しい。少なくとも(今の)自分にはできないみたい。
建築にしろ映画にしろ植物にしろ動物にしろ仏像にしろ、まんがにしろアニメにしろ、本を読むだけじゃ何も分からない。実際に見なきゃ分からない。
若いうちは読むことより、見ることの方が圧倒的に大事なんじゃないかと思うようになった。読むことはそのきっかけに過ぎない。見る方が楽しいし、しかもそう思うことで読むことのプレッシャーも無くなる。きっかけに過ぎないのだから。
■手塚治虫(鉄腕アトム)戦後〜
特徴:記号的でありながら「死」や「成熟」といった生身の身体性を描いている点。
→記号的な絵が写実的でない⇒現実を描く作画技術として必要であった?(戦争体験)
■梶原一騎(巨人の星、あしたのジョーなど) 60年代後半〜
特徴:「教養小説」=「成長物語」
■萩尾望都などの「団塊世代」の女性マンガ家(二十四年組)
特徴:「内面」の発見→フキダシの中と外と使い分けることにより可能になる。
時代背景:「言うなれば、60年代という時代は、女性たちが大衆レベルで自分自身で語る言葉を捜し、確立していく時代だったのです。そしてその最後で発見された二つのことばこそが、少女まんがと左翼運動の延長に成立していったフェミニズムだったといえます。」(74頁)
■吾妻ひでお(ニューウェーブ)70年代〜
特徴:吾妻ひでおの「ロリコンまんが」は手塚的「記号絵」に「性」をプラス→日本人の性表現に大きな変化を与えることとなる。
■岡崎京子 80年代後半〜
特徴:不在の(記号化した)「私」をもった「私達」を描く。
時代背景:バブル期(社会の大きな転換期=終末観)
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ササキバラ・ゴウの書いたアニメ論の方が面白かった。
作家別に別れているので理解もしやすい。
ガイナックスとか富野由悠季とか詳しい出自を知らなかったのでちょうどよかったな。
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以前、毎日新聞社からでた「シリーズ20世紀の記憶」の「連合赤軍 狼たちの時代」を読んでいたとき、よど号ハイジャック事件の日本赤軍の犯行声明の文の最後に「我々はあしたのジョーである」と書いてあったという事実にかなり驚いた。戦後史上の大事件と漫画がこんなに密接につながっていたという認識はもっておらず、あらためて60年代のサブカルの重要性を痛感した。
本書はサブカルの代名詞たるアニメ、漫画がどのような思想的背景をもって展開してきたかを叙述し、戦後日本の展開にも重要な示唆を与えてくれる。
「あしたのジョー」で死んだ力石徹の葬儀が実際に行われていたという逸話は知っていたが、その主催者が寺山修司であると本書で知った。
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もう12年たっているとは! しかも読んでなかったとは! な本。アニメの宮崎駿の下りが非常に素晴らしい。
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まさに教養としての、歴史や描き方から見た 漫画・アニメ論だと思った。
普段はあまり気にしていなかった、記号としての漫画やアニメとして、作家としての、手塚、宮崎、出崎、冨野、ガイナックス等々、時代の人のそれぞれを解説している。
分析的に見ればこのような見方もできる本ということで、ストーリには入れ込まない本だと思う。
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漫画
(1)成熟の困難さをめぐる「アトムの命題」―記号的な身体に付与されてしまった“死”と“現実”。
成熟出来ないキャラクタライズあるいは“身体の発見”による、達成されないビルドゥングスロマン。
(2)女性性の表現をめぐる「フロルの選択」―身体(性)の発見から内面(自意識)の発見へと辿り着いた少女漫画における“戸惑い”。
性をどのように受け入れるかという模索。
アニメ
(1)“日常”の面白さの発掘。表現の進化
(2)思春期向けの作品づくり。「大人社会」への批判的な眼差し
(3)プロアマ境界線の崩壊
(4)メディアミックス
前半の大塚さんの文が面白かった。
アニメについては、特に目新しいことは書かれていなかった。
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マンガ・アニメの歴史の中で、その転換期を作ったクリエイターを中心に据えて糞真面目に深く分析を加えた本。ゴメンというしかないのだが、期待していなかった分だけ感銘を受けてしまった。なるほどそういうことか、と肯首する主張が多い。偶然だけど、読んだこと観たことのある作品がほとんどで、その点も良かったね。
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本書のタイトルになっている「教養」とは、現代日本文化の一部であるマンガやアニメについての常識程度の知識といったものではなく、サブカルチャーを「語り、伝えていくというその「立場」そのもの」を問題にする視座を意味しています。
全体は二部構成になっています。大塚が執筆する「第1部・まんが論」では、手塚治虫、梶原一騎、萩尾望都、吾妻ひでお、岡崎京子の5人が取り上げられています。手塚のマンガが、傷つくこともなく成熟することもない「記号的身体」を問いなおすというモティーフを秘めていたことが論じられ、「記号的身体」と「生身の身体」との相克の歴史として、戦後のマンガ史を解釈するという議論になっています。
ササキバラが執筆する「第2部・アニメ編」では、宮崎駿と高畑勲、出崎統、富野由悠季、ガイナックス、石ノ森章太郎の五組が取り上げられています。戦後マンガ史についての独自の解釈に基づく第1部に比べると、それぞれのクリエイターたちの仕事の意義の客観的な解説になっているように思います。
興味深く読みましたが、「教養としての〈まんが・アニメ〉」というタイトルにも関わらず、戦後のマンガやアニメの概要を知るという目的にはあまりそぐわない本だという気がします。大塚はべつのところで、サブカルチャーに「正史」という概念が必要なのかという疑問を提出していたことがあったように記憶していますが、批判されるべき正史すら存在しないという現状が、果たしてサブカルチャー論において望ましい事態なのだろうかという疑問を覚えます。
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2001年刊。漫画・アニメ論を漫画誌編集者らが論じる。対象は①手塚、②萩尾望都、③吾妻ひでお、④岡崎京子、⑤梶原一騎(漫画)の一方、①宮崎駿と高畑勲、②出崎統、③富野喜幸、④庵野らガイナックス(アニメ)。補論・石ノ森章太郎。手塚的記号的表現はよく論じられる(ただ、漫画の記号的表現は手塚より前から)が、本書は漫画表現に含まれる主題、「成熟」について検討。手塚は成長・成熟しないロボット(アトム)の悲哀、梶原は成長を拒絶する矢吹ジョーを、成熟=女性の身体性の気づきとする萩尾につき、作品解説とともに論を展開。
岡崎は24年組論の発展と、吾妻は彼の先駆的描述、つまり記号的表現に欲情しつつも、その表現にすら直接的接触のできない男性を論じる。他方アニメ。①富野に関しては、大人になることを模索したザンボットに対して、ガンダム以降は大人になることすら拒絶し、神(超人的なニュータイプはその例)になるしかないところまで行き着く。特にイデオン。②もののけ姫以降、物語を紡がない宮崎(オープンクエスチョン表現か、話の中で問題解決しない等)に対して、アニメ(映画)を自己の主張を説明・説得する媒体と捉え続ける高畑と、作劇の違いが鮮明化
ジョブナイル(成長物語)を描き続ける出崎。破滅するしかない夷形を描く石ノ森を解説。さらには、アマとプロとの境界を融解させたガイナックスの説明が興味深い。ガイナックスは、仲間うちに向けられた表現を良しとしているらしいが、個人的には、エヴァ等で描写されるあからさまな既視感(オマージュ)を楽しめない自分がいる。別の作品なら別の表現があるでしょう、言いたくなる。リメイクと目される「ウルトラマン」最終回と「帰ってきたウルトラマン」最終回とが違う世界観で見ることが出来たように…。
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漫画やアニメを網羅的になのかと思ったら、意外にもそれぞれ4人ずつに焦点を絞って、というものだった。ということは、ガイドとしての意味合いはあまりなく、まあタイトルから考えたらその通りなんだけど、教養としての論文という体裁。それぞれ最初の一章ずつを読んでみたけど、もう少し肩の力を抜いた内容を求めていた。積読へ。
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戦後のマンガとアニメを、10人の作者+Iアニメ会社(ガイナックス)にスポットライトを当てながら、その意義を説きつつ概観するもの。
特に興味深かったのは、梶原一騎(あしたのジョー)、富野由悠季(ガンダム)、石ノ森章太郎(仮面ライダー)あたりの解説。