紙の本
文学青年に読ませてはいけない快著です
2002/01/15 20:35
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投稿者:伊豆川余網 - この投稿者のレビュー一覧を見る
一読、永年抱いていた「文学」というつかえが降りた。遙かむかし文学部を選びながら、大学生時代どうして小林秀雄が評価されるのか、わからなかった。どうして文学史というと中村光夫なのか小田切秀雄なのか、分からなかった。すべては「青春」に感染し、その価値の高め方がうまかった、もしくは、しつこかったということだったのか。それを諒とした時代だったのか。この本は「青春」という幻想を「近代文学」の価値基準にしてしまった文学者たちの悲喜劇を描いていると言っていい。見物はその真面目くさった「自我」にあきれながらも、年来の重しをはずされてほっとする。上記3名のほか江藤淳、吉本隆明、花田清輝、山本健吉、平野謙はじめ、かつて教科書や参考図書で読まされた多くの批評家が、当人たちの共感敵対とは関わりなく、「青春」という病との関わりで分かりやすく登場する。村上龍や村上春樹の出番もあるが、このお歴々の登場させ方の方が面白い。
著者の射程はいわゆる「近代文学」にとどまらない。明治近代に入って「自我」を見出し、これをを描きうる文体を創り出したという「近代文学」の幻想こそ「青春」の病症なのだがら。式亭三馬も滝沢馬琴も自我がなかったから自我を書かなかったのではない。そんなものに価値を見出さなかったというわけだ。著者がおざなりに寛政とか文化とかの年号を示さず、意図的に西暦だけで江戸の戯作者と明治の文学者を比較しているのもいい。「20世紀初頭の日本文学に起こったことは、意図的に」「大人の視点をはずすこと」「女の視点をはずすこと」だったに過ぎないのに、そこから生まれた「青春」のみが価値を与えられ、批評の基準に据えられた。太宰治も三島由紀夫も、その空気を吸わされた。そのため恐らく当人たちの天賦からすればほかの時代でも個性的な大作家になったのに、20世紀初頭に現れたために勝手に「青春の文学」者に祭り上げられてしまったのだ。
著者も引いているが、小説も書いた冷徹な批評家斎藤緑雨の35歳の早世が惜しまれる。何しろ漱石と同年生まれである。緑雨は、「大人の感覚」の持ち主だった。「ですます」など駆使しなかったが(長生きしたら用いたに違いない)、時代の病とは無縁だった。
本書の副題は「1960年代試論」。つまり、戦後の経済成長が高まりをみせ、世に「青春」の文字が溢れ出た時代の検証が原点にある。著者が「青春」時代を過ごしたこの季節は、同時代人やその追随者がどんなに再生を願っても、もう戻らない。いったん大衆化した「青春」は、もう知識人の主題には成り得ず、誰もこの「病気」に好んでかかりたいとは思わないからだ。まことに新しい世紀の第1年に相応しい、傑作評論である。
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終焉なんて
2013/02/11 15:04
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投稿者:帝國グマ - この投稿者のレビュー一覧を見る
三浦雅士って人は今井裕康っていう別のペンネームでドラゴン(村上龍)の本の解説をやっている。そうですその解説をしたというドラゴンの本とは「限りなく透明に近いブルー」なんです。ほんとなんであんな乱交本の解説を・・・・・。
ちなみにこの三浦さんは高卒で青土社の「ユリイカ」の編集者まで登り詰めた苦労人。そんなこんなと考えを収束させれば「青春の終焉」というタイトルもうなずける。
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これが青春だ!
2001/11/07 18:07
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投稿者:神楽坂 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「青春」とは、人生のいつ頃を指すのだろうか? 当人が青春だと思っていれば、いつまでも青春なんだという人もいるが、一般的には中学、高校、大学の間の何年かをいうと思う。しかし、本来の意味での「青春」はもはや終わっている。「青年」および「青春」という概念は産業資本主義とともに誕生し、しかも、「青春」はブルジョワ階級の青年男子にのみ許された特権であったというのだ。だが、60年代から70年代にかけて、「青春」自体も終焉を迎えた。
考えてみれば、単に未熟な人間でしかなかった子供が「少年少女」という特権を得たのも、近代に入ってからだった。今、青春時代を過ごす若者ならば、実感しているのではなかろうか? 自分たちが何らの特権も持たず、非日常的な時が流れているわけでもないことを。70年代の青春ドラマの熱気が現代に通用しないのは、学生たちのせいではなかったのだ。
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わが三浦雅士は、本書『青春の終焉』のあとに『出生の秘密』(2005年)を書き、そして、それに連なるさらなる衝撃的問題作を、ちょうどいま文芸誌「群像」で連載中で、それは「孤独の発明」という、奇しくも1982年に書かれたポール・オースターの小説と同じタイトルですが、小林秀雄論を書いています。
青春も青年も、明治20、30年代(1887年から1906年)の日本文学を覆った流行語であって、青年という言葉は北村透谷や国木田独歩が実質を作った後に夏目漱石の『三四郎』や森鴎外の『青年』を誕生させた。そして大正時代の白樺派やそれに連続する太宰治や小林秀雄たちは、漱石・鴎外などの作った青春というシナリオどうりに実人生を生きた。
その自己意識のドラマを告白することが近代文学ということであり、その挫折と劣等感の深さがイコール近代的自我というものだった云々、ってなことを彼一流の博識を駆使して手品のように縦横無尽に展開していて、いやあ、もう、超面白くてますます好きになってしまいました。
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三浦雅士の文章は読みやすい。高いところから、「これでどうだ」という風に高説を垂れるという感じがない。一例をあげれば、誰もが感じるであろうことを言うときにはわざわざ「気が引けるのだが」と前置きをしてから語りだすというようなところに、著者の人柄が感じられ、身構えずに本に向かうことができる。500ページもある本書を息つく暇もなしに読み終えてしまった。
読み終えて、ふうっとため息をつき、「おれも青春していたのか」と、苦笑してしまった。何事にあれ、その渦中にいるものには事態は分明ではない。そこから離れ、距離をおくようになってはじめてそのものの姿は明らかになるのである。とはいえ、自分にとっての所謂「青春時代」が既に遠く過ぎ去ったことを言おうとしているのではない。日本近代文学の話である。文学だけではない、「芸術も思想も、いや学問さえもが若さに酔っていた」。世界中が「青春」を謳歌していたのだ。少なくとも60年代までは。
柄谷行人に『日本近代文学の起源』という著書がある。あとがきに倣っていうならそれは「日本」「近代」「文学」の「起源」についての考察であった。括弧をつけたのは、批評の対象がはたして自明であるかどうかを疑ってかからなければ「批評」など成立しようがないといった意味である。現象学的還元ともいうべき柄谷の姿勢は書かれてあった内容とともに鮮烈な印象を残した。『青春の終焉』にも、それに似た思いを感じさせられた。「青春」にもまた起源があったのだ。起源がある以上終焉もまたある。生まれたものは死なねばならない。それが自然の摂理というものである。
括弧を付されているのは青春だけではない。「故郷」も「教養」も、その起源を明らかにされていく。何ゆえ、起源を問うのか、という問いにはマルクスの「ラディカルということは、ものごとを根本からつかむということである」という言葉が用意されている。「ラディカルの語源は、ラテン語のラディクス、根、である」。急進的という意味はそこから派生してくる。そして、人間が人間らしくあるためには根源的にならなければならず、それは急進的にしかありえない、といういかにも青年好みのテーゼが、若きマルクスの声として響いてくる。
起源を問えば、それまでの権威は覆され、価値は転倒する。ここでも、多くの権威がひっくり返されている。「日本近代文学は青春という病の軌跡にほかならない」というのが、本書の主題であるが、その視点から眺め直したとき、これまで考えられていたようには明治維新はそれ以前と以後を切断していない。逍遥によって否定された馬琴や、子規によって無視されることになった香川景樹が精緻な分析のもとに新たな相貌を帯びて浮かび上がってくる。バフチンのドストエフスキー論を接点とし、小林秀雄と対比されることにより、太宰の「道化」が裏返しの意味を持って迫ってくる。
それにしても、だ。あれほど光り輝いていた「青春」という言葉の凋落ぶりはどうしたことだろう。著者は言う。根源的であるというのは、「失うものは何もない」という立場に立つことである、と。今あるものを土台から根こそぎ破壊し尽くした後に来る解放感への期待が、青年にその立場をとらせる。大江にまではあった、その意識や感情が村上春樹にはない。「失うものなど何もない」という意識が何の意味ももたない時代がきたのである。副題に「1960年代試論」とあるが、さすがに三浦雅士。常套的に60年代をノスタルジックに語ったりはしない。60年代に終わりを告げることになった「青春」という特異な時代の病理についての、文芸評論の形を借りた、これは優れた考察である。
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"街に満ちあふれていた青春という言葉が「1970年をまたぐと同時に萎んでしまった」! どうして?確かにそのように思います。著者も私も自分が青春期を過ごした1960年代へのこだわりがあります。安保・大学闘争には世界は変わるというロマンがあり、「青春」が光芒を放っていました。70年代に入ると、「青年」は「若者」と呼び替えられ、「青春」は終焉してしまったとの主張。難解な本ではありましたが、理解できる部分を読むだけでも自らの過去への挽歌として説得力がある素晴らしい本でした。「青年」はYMCAがユースを「青年」と翻訳した1880年に始まり、「青春」は1905年に小栗風葉が『青春』を発表してから。そして、青春が文学のテーマとなったのは、藤村、独歩、透谷からで、漱石の『三四郎』、森鴎外の『青年』に至って小説の最重要主題となる。それまでの「青春」は流行語にすぎなかったが、大正から昭和にかけて、「座標軸に、すなわち人生の基準」に転ずる。その転換を演出したのが小林秀雄だとのこと。「青春」を主題軸として15章、日本文学史が、近代の世界史が解かれる。小林秀雄、ドストエフスキーから馬琴の八犬伝に遡り、またマルクス、ルカーチ、エリオット、サルトルそして、大江健三郎、村上春樹、なんと鉄腕アトム、少女漫画にまで至る。そして「青年」の時代から今は「少年」の時代なのだ、そうです。
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大学生の頃から興味はあったが尻込みしていたのを、数年越しにようやく読んだ! 自分の成長を感じる……
1960年代に全盛を迎えた「青春」概念の実態について、文学作品の批評を中心に、政治や経済や哲学や社会にも言及しつつとにかく雑多にパワープレイで取り組んでいる。
20世紀初頭の花袋とか太宰とか小林秀雄とか(&ドストエフスキー/バフチン)を論じていた前半はともかく、さらに時代が遡って近世や中世の落語や戯作、連歌を論じる後半はこちらの知識と興味が無さすぎてキツかった。終盤の数章で持ち直したけど。