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最初のページから、普段忘れ去っていた大事なことに気付かされました。
一言一言の重みが感じられる、ふと開いて読みたくなる詩集。
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最近詩集ばっかり手に取ってる。
長田さんの詩はアメリカ小説みたいにキッパリしてる。洗練された言葉遣いが魅力的。
食べ物の詩が多いのも、好き。
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エッセイって言うかそのまま詩集なんだけど
わざわざカテゴリ作るほどでもないのでエッセイで
友人に借りる
以前、合唱サークルでこの人の詩にメロディをつけた「世界は一冊の本」という曲集の初演をさせていただいたことがある
それと初めてのブックフェアで同じ名前の詩集(絶版)が売っていたことがある、そのときは買わなかった
でも、なんだか縁があるなあと言うことで読む
全体的には好きではなかった
特に改行が少ない詩、なんだか下手に理屈っぽくてだめだった
自分にとっては半端な理屈に見えたんだよなあ
「絶望のスパゲッティ」と「ファーブルさん」は好きだった
前者はその皮肉が、後者はその純粋さが気に入った
しかし詩はもろに好き嫌いがでる気がする
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five
「朝食にオムレツを」
別れたことは正しいと今も信じている。
ずいぶん考えたすえにそうしたのだ。
だが今朝は、このオムレツを一人で食べねばならない。
正しいということはとてもさびしいことだった。
・・・
淡々と綴られてゆくレシピの最後の4行が。
seven
「ファーブルさん」
理解するとは、とファーブルさんはいった。
はげしい共感によって相手にむすびつくこと。
自然という汲めど尽きせぬ一冊の本を読むには、
まず身をかがめなければいけない。
・・・
この最後の4行もまた。
同じくsevenから
「ぼくの祖母はいい人だった」
読み書きはできなかったが、おとぎ話、つくり話、詩を
誰よりも知っていて、ゆっくり歌うように物語った。
「何がなくともさ」と、祖母は言った。
「好い物語をいっぱいもってるものが、この世で一番の果報者だよ」
祖母の時代は息苦しく、大人も子どもも倖わせじゃなかった。
だが、無限につづく平日にあっては、悲しみも祭日である。
「何もかも過ぎるだ」祖母の言葉を、いまもおぼえている。
「けど、そうなくちゃならねえことは、そのまま残るだよ」
eight
「少女と指」
街を歩く。街を歩きながら、物語のなかを歩いている。街を歩いていると、いつとはなくそんな思いにさそわれる。
歩くことが、読むことなのだ。街を歩く。街を物語として読んでいる。微笑一つ、みごとな短編なのだ。
・・・
詩はここから急激な展開を迎える。身がすくむ言葉の並び。
同じくeightから
「ルクセンブルクのコーヒー茶碗」
・・・わたしが夢見る理想の生活のすべてが、この詩には詰まっている。
詩人・池井昌樹氏の解説がまた素晴らしい。
「私たちは誰もみな美しいものに打たれる瞬間がある。音楽や絵画、御馳走、異性・・・・・・。しかし、遥か昔、私たちがまだ幼い子どもだった頃、何の理由もなくただ恍惚と我を忘れるひとときのあったことを思い出さないだろうか。たとえば満開の躑躅の根方、遊戯の手をハタと止め、一心に水陽炎に見惚れていたあのひとときを・・・
帰りたくなったらいつでも帰っておいで。詩が、自然が、私たちにそう告げているようだ。最早私は口を閉ざすべきだろう。この自然を、もっとも信頼に足るこの自然の息吹を、どうかこころゆくまで全霊に浴びて頂きたい。」
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今年の5月に亡くなった長田弘(おさだひろし)さんの自選詩集。実は初めて読む詩がほとんど。ビッグイシューに書評を書いていていた岡崎武志さんが褒めていたので、買ってみた。
私がよく取り上げるような社会に訴える詩はない。
岡崎武志さんもいうように「大げさなことは好まない。声高に主張しない。毎日を大切にし、普通に生きていく」詩ばかり。
例えはこんな詩だ。
言葉のダシのとりかた
かつおぶしじゃない。
まず言葉をえらぶ。
太くてよく乾いた言葉をえらぶ。
はじめに言葉の表面の
カビをタワシでさっぱりと落とす。
血合いの黒い部分から、
言葉を正しく削ってゆく。
言葉が透きとおってくるまで削る。
つぎに意味をえらぶ。
鍋に水を入れて強火にかけて、
意味をゆっくりと沈める。
意味を浮きあがらせないようにして、
沸騰寸前サッと掬いとる。
それから削った言葉を入れる。
言葉が鍋のなかで踊りだし、
言葉のアクがぶくぶく浮いてきたら、
掬ってすくって捨てる。
鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら
火を止めて、あとは
黙って言葉を漉しとるのだ。
言葉の澄んだ奥行きだけがのこるだろう。
それが言葉の一番ダシだ。
言葉の本当の味だ。
だが、まちがえてはいけない。
他人の言葉はダシにはつかえない。
いつでも自分の言葉をつかわねばならない。
岡崎さんがどんな推薦文を書いたかは思い出せなかったけど、その気持ちだけは長く長くのこって、久しぶりに覗いた本屋でこの文庫本を見つけて、条件反射で手に取っていた。
詩と映画は、見て読んで見るまでは、何も言えない。というのは私の信条です。結果、いい詩にたくさん出会えた。
「あのときかもしれない(四)」の「遠く」の言葉が、私を苦く苦しめた。
「ブドー酒の日々」は、ワインを飲む日のためにポケットに入れた。
「ユッケジャンの食べかた」の最終行に出てくる「チョター!」から韓国貧乏旅行の日々が滲み出てきた。
「嘘のバラード」には誰かが曲を進呈していたことを想像した。嘘なんか言わない。ほんとさ。本当でも嘘でもないことを、ぼくはいうのだ。
「誰が駒鳥を殺したか」ぼくじゃない。ぼくが言った。
いけない、いけない。言葉に溺れちゃいけない。長田弘さんが1番嫌っていることだ。「ひそやかな音に耳澄ます」
「冷ヤッコを食べながら」
2015年10月5日読了
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なんとなく元気が出ないので、きれいな言葉を感じたいと選んだ詩集です。とても良いひとときでした。温かくておおらかで優しい。自己嫌悪で尖っていた心が少しまるく削れました。わたしもおおらかになりたい。優しい人になりたいです。
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読みやすかった。構えずとも、ふっと情景に連れ出して記憶を思い起こしてくれるような言葉だなあと思った。それでいて油断すると煙に巻かれる。
「ひとはねこを理解できない」「ファーブルさん」「梅干しのつくりかた」が特に好き。『食卓一期一会』からの詩はどれも好き、レシピのなかで詩を語る。