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言語学者であり活動家のノーム・チョムスキーの本。今の民主主義は、メディアにコントロールされているという観察。
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他の国のほうが規制されてるから何だっつーことです。アメリカにおけるメディアの歴史が垣間見られたことに★3
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メディアにコントロールされ、伏せられた歴史の真実を洗い出す。メディア論というよりはアメリカ現代の批判が中心だ。
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思想書なんで、推薦の☆はつけない方針で、とりあえず最初のままのみっつ。
この人の理論は結構頷けるものが多い印象。著作を全部読んでいないので断定は出来ないけど、これは結構面白かった。
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チョムスキーお得意のアメリカ批判。言語学のチョムスキーだけに、9/11以後の言葉を通じたメディア権力を解読している。ものすごく納得するし、アメリカ内部からこのような知性があらわれることを評価したい。
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前から気になってた本の一つ。ノーム・チョムスキーさんです。
どこで僕はこの人を知ったのかよく覚えてないですけど、去年小論の授業かなんかでネタとしてあげられてた気がします。
民主主義には2つの概念があり、ひとつは一般的にとらえられている、一般市民が自分たちの考えを社会に反映でき、情報も開かれている社会。もう一方は一般市民に彼らの問題には決して関わらせてはならず、情報も限られた一部の人(特別階級)にしか管理されないといった社会である。
そして、現実は後者が優勢であり、この本ではそのことについて書かれています。
後者の民主主義には、2つの「機能」があり、ひとつは特別階級による実行を行う機能である。もうひとつは、一般市民が「とまどえる群れ」として、「観客」に徹するという役割だ。たまに選挙という方法で支持表明はするがそれ以外はまったく関与しない「観客」になることが機能だと言っている。
それを実行するために、組織的宣伝が有効に使われている。それによって「とまどえる群れ」たちに肝心なことから注意をそむけることが可能になる。彼らを決して参加者にしてはいけないのだ。また彼らはまったくそのことに気づかない。なによりすごいのが、これが自由の下で行われているということだ。財界という金も知識も労力もある相手ではこれができてしまうから恐ろしい。
そうした組織的宣伝に対する抵抗策として平和運動などが行われ、それは権力に懐疑を持ち、確実に見極める能力を獲得してきたという啓発された証だと筆者は述べている。
言論の統制もなく、情報も開示された時代であるにもかかわらずこうした情報の偏りが起こってしまう現実を訴えているチョムスキーさんはかっこいいです。彼は、どんなに批判されようが、脅迫状の一通を受け取ろうが気にならない、そんなものは現在抑圧されている国に比べればまったく比較にならないと言っています。自分の本が出版禁止になろうがそんな些細な抑圧では言論統制されてるとは言えないと。これくらいの覚悟がないと一国(しかもアメリカ!)の批判はしちゃいけないのかもしれませんね。
しかし、そんな彼の意見を東大出身のマイミクゆうくんが「ただの趣味だ」と一括し、ボコボコにしていたのがとても笑えましたw一度生で対面させてみたいです。
「とまどえる群れ」まっしぐらの僕に喝を入れてくれる本でした。「メディア・コントロール」は思った以上にサクッと読めましたが、二個目の「火星から来たジャーナリスト」は背景知識もないせいかいまいちつかめなかったです。またいつか読みなおしてみよう!
TVばっか見てる人!一度読んでみるといいかもしれません。
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思弁的な本ではない。言語学の権威としてのチョムスキーをまだ僕は知らない。この本に現れるチョムスキーは反戦理論家としてのチョムスキーである。
タイトルから一目で想像がつくと思われるが、「メディアに踊らされているぞ、気をつけろ!」といった啓蒙・政治の意味合いの強い本である。こういった事柄を扱うことに個人的な関心は実際、薄いのだが、思弁にとどまらず実社会で活動する良心的知識人として世界的に有名な、ほとんど唯一と言っていいチョムスキーは、知っておくべきかしら、という動機で読む。
「政治、経済、イデオロギーのシステムにおける諸問題の分析、実行、意思決定、管理をするこれらの人々(専門知識をもつ特別階級)は、人口のごく一部でしかない」「愚かな大衆は自分で状況を理解する頭がないと見なされて、指導者の意のままに未来へと誘導されるのである」
「愚かな大衆」を「オタク的指向のある人間」、「指導者」を「アーキテクチャの設計者」と読み替えると、よりアクチュアルに感じられる。(べつにイコールで結んでいるわけではありません)
そういった状況は、民主主義社会を「人民が権力を所有し行使するという政治原則。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態」(大辞林より)と素朴に理解するのではなく、「一般のびとを彼ら自身の問題に決して関わらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理」する社会として、現実的な状況から導かれるきわめて現実的な(そして正しかろう)認識を優先させることで理解されるだろう。
*
三つに分かれているセクションのうちの最後に、ジャーナリストであり本書訳者である鈴木主税のチョムスキーへのインタビューが載っている。あまりの婉曲的な語り口にびっくりする。
ヴェトナム戦争時のアメリカにおいて、知識人が一般大衆を巻き込んで反戦デモを行ったという理解は正しくない。闘ったのは大衆だけであり、「知識人は闘わなかった」。これは意外だった。
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私達は「民主主義社会」で生活していますが、この「民主主義社会」には対立する2つの概念が存在していると著者は書いています。本書のP11より引用すると、1つは、一般の人々が自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響を及ぼせる手段を持っていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会。もうひとつの概念は、一般の人びとを彼ら自身の問題に決して関わらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間のあいだだけで厳重に管理しておかなければならない、というもの。彼は、悲しいかな、後者の世界で私達は生活していると説いています。
確かに、9.11のテロにより、アメリカのみならず日本など西側諸国で高度なセキュリティに関わる問題に対して情報を厳重に管理する代わりに、自国民の安全を確保することになっていったように思います。しかし、イラク戦争に向かうまでのストーリーは、それの蓑隠れにして戦争の口実までも、それが真実であるかのように報道され続けると疑う余地がないような世論を形成されたのではないかと思うと、それは実に恐ろしいことで、民主主義国家でありながら、秘密主義的な社会に住んでいることへの不安を感じます。そんな風通りの悪い状態を打破するために、何ができるのでしょうか?
先月、アメリカに新しい大統領が誕生しました。就任直後の支持率はあのケネディ大統領に次ぐ高支持率で、アメリカの人たちのみならず世界中の人たちが大いなる期待を持っています。彼の選挙期間中のスローガン、「Yes, we can」。支持者の人たちがとても熱狂的にこのスローガンを叫んでいましたね。
スローガンについて、本書に次のような説明がありました。スローガンとは「それが何を意味しているか、誰も知らない」が、「誰も反対しようとしないスローガン、誰もが賛成するスローガン」、それこそが「それが宣伝を成功させるポイント」だと説いています。確かにそうですね、この言葉を聞くと、自信喪失気味な世の中に希望がわいてくるような気がします。
しかし、冷静になってみると、「Yes, we can」には動詞、目的語がない。著者が言うように、「それが何を意味しているのか」、分からないのです。しかし、それはスピーチの中で説明されているのしょうし、私たち自身も思っています。先の見ない経済不況、一向に改善の糸口が見えない地球環境の問題、泥沼化する国際紛争、テロの脅威。。。動詞と目的語のないが希望に満ちたこのスローガンに意味を持たしていく時期が来ていますね。本書を読んでそんな風にも感じました。
ノーム・チョムスキーさんの言葉はとても鋭利かつ奥が深いので、また別の本を読んでみようと思います。
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知識人とは、彼の様な人の事を言う。
本物の優しさを、彼は体現している。
大事なのは、本質を見極める眼。
「弱い者いじめはいけない」というシンプルな行動原則。
他人が生きるのを邪魔しちゃダメなんだよ。
卑しい利害を取っ払って眺めてみれば、「一番のテロリストはアメリカ合衆国なんだ」という事に誰でも気付く。
久し振りにTVを観た。
北野武、爆笑問題、石原都知事、東国原県知事、橋本県知事が「教師の体罰」について話していたんだけど、全く議論と呼べる代物でない、不毛な内容の与太話に、違った意味で驚かされた。
本当に下らない、犬のウンコ程度の価値しかない会話の連続。
何かを「教える為に」、殴るのが良い・悪いなんてね、外から見た人間には解らないのだよ?
当人同士の関係性の問題なんだから、そこに関与するのは適当ではないんだってば。
いい歳したオヤジが6人も集まってるのに、なぜ誰もそんな簡単な事に気付かないのか。
あえて議論するのであれば、「教師の質」を問題にしたほうがよっぽどよかった。
大分の事件をもう忘れたのか。
教師たる資格を与えるシステムが機能していない、あるいはシステムそのものが腐りきっているのが露呈したのがあの事件だったはずだ。
子供はね、気付いてるんだってば。
「クズみたいな人間から教わる事なんか何もねーぜ」って。
子供の教育に関するシステム作りに、妥協は絶対に許されない。何よりも優先させて議論を発展させていくべきだと思う。
何が大事で、最優先すべき事柄であるのかを解っていない大人がこの島国には多すぎる。
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この本は現在の社会は実は自由ではなく、操られた社会であるという事を説明しながら現在の社会は自由ではなく、我々も実は自由ではなく操られた存在である。
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言語学者のノーム・チョムスキーのメディア論。
ただし、メディア論ではあるが、アメリカの軍事に関する報道への批判が中心である。
主張は、メディアが観客民主主義の原因となっているというものだ。
官僚とアカデミズムは、互いに連携することにより聴衆をあおってきた。
たとえば、敵国を立ててその敵国へ向かっていくアメリカという劇を、アメリカ国民は幾度となく見せつけられてきた。
冷戦構造が崩れた後は、中東の特定の国を敵国と見立ててきた。
日本では言うまでもないが、自由の国であるアメリカでさえも、メディアは真実よりもドラマを伝えてきた。
この本はやや古い(2003年発刊)ため、2000年代のイラク戦争におけるメディアのあり方については述べられていない。
冷戦後の敵国の見立ては所詮仮想的なものであり、イラク戦争においてはそれが隠しきれないものとなった。
その頃の米国メディアについて知ることはできないのは残念。
逆に言えば、その頃の米国メディア論に触れられれば、イラク戦争前後での変化が見られて面白いと思う。
イラク戦争前のメディアの概略を知る上では優れた本だと思う。
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この人のメディア、アメリカ、民主主義に関する著作を読んでみたいなあと思いつつ、どれから読もうか迷ったので一番薄そうな新書からトライ。
これ、日本では2001年の例のニューヨークのテロの後に刊行されて売れた本ですが、実は1991年に書かれたものがメイン。
その段階で、エスカレートするマスメディアの恣意的報道や二つの民主主義がどんどん乖離していく様について警鐘を鳴らしている。
まあでもこれは取りかかりの1冊だなという印象。
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メディアの役割とは何か?ジャーナリスティックな目線ではなく、世論形成の道具としてのメディアに焦点を当てて、9.11や湾岸戦争などの戦争を考察している。
世論という虚空をつくること。それにより、スケープゴートを作る。
それにより、市民の組織的な運動を防ぐ。それこそが今のアメリカである。
そのスケープゴートに対して、アメリカは全くもって異なる対応を行う。
その典型はイラクだ。今やサダム・フセインを悪者にする一方、かつては友人と称したり。。テロ国家と言って他国に侵攻するアメリカこそがテロ国家であると説く部分が衝撃である。
アメリカが今の位置を停止するのは一体いつになるのだろうか?また、それに代わる国家が出てくるのか、それとも全く別のスキームになるのか?
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テロとは何なのか?
アメリカの本来の目的は何なのか?
アメリカを初め西側諸国の行ってきた大量虐殺大量殺戮、
占領・思想統制のもたらす貧困や飢饉、
その結果の数え切れない死者・・・
これらはテロとして、
決してカウントされない。
しかし、9・11は満場一致で「テロ」
福音書の引用が続く
「偽善者とは、自分に当てはめようとしない基準を
他人に押し付ける人のことである」と。
ただ「主体」が違うだけ。
今後の世界経済を動かし、世界を軍力により牛耳っている側を「私」とし、
その「私」を脅かす存在を「テロ」と呼んでいる(正確にはでっちあげている)
「私」が振りかざした暴力は「ヒーロー」となる。
作り出され思い込まされている「善」と「悪」の
どちらに属するか(属させられるか)による。
アメリカにとって9・11のよる死者は
良い踏み台として利用されたと思う。
アフガニスタン進攻(どう考えても侵攻だけど)
石油や水戦争だと言う意見もある。
しかしこの戦争でアメリカにもたらされた最高の功績は
恒久的に中央アジアにアメリカの軍事基地を築いた事。
これに尽きるそうです。
そして沖縄を想う。 日本を想う。
日本は半世紀前に、
全ての決断をアメリカに委ねたのだ。
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2010/02/02
一九八四年/メディア・コントロール
をまとめて。
いやー一九八四年。こんなに面白いとは思わなかった。
読み終わって1つ思いだしたのは『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』であったのですが。
独裁者の手から星を救うべく、人質となったしずかを救うべくピリカ星に乗り込んだドラえもんたちが目にしたのは、街中に張り巡らされた独裁者ギルモアの肖像。
その全てが実はそれこそテレスクリーンばりの監視装置になっているという。その目をかいくぐりながらのび太たちは街を駆けぬけていくわけですね。
つまり現代はある意味『私たちの前に姿を現しつつあるのは、単一の「ビッグ・ブラザー」ではなく、無数の「リトル・ブラザー」たちが市民生活をたえず監視し、必要に応じて介入してくるような、より複雑で厄介な世界なのだ。』(東浩紀)とでも言いましょうか、それはつまり、我々が「自由」であると思わされている社会でもあるのでしょう。
実のところは様々な情報のやり取りで、我々は常に丸裸であるかもしれないのにも関わらず。(だって個人情報保護法つったってあなた、少なくとも我々の個人情報は一企業の管理化に置かれているのですよ。)目に見える権力が、目に見えない権力の形に移行してきただけで、本質的なところはそんなに変わっていないのである。多分。
しかしそれでは我々の生きる世界と一九八四年のオセアニアとピリカ星では「自由」にどれほど差があるのか、
といえばおそらく大きな差はないのだろうなあと思ったのですね。
もちろん、人々が「自由」だと思っているか、「自由」だと思っていないか、という質の差はあれども。
ここでチョムスキー。
我々大衆(とまどえる群れ)が
例えば選挙で『いったん特別階級の誰かに支持を表明したら』
『あとはまた観客に戻って彼らの行動を傍観する。「とまどえる群れ」は参加者とは見なされていない。これこそ正しく機能している民主主義社会の姿なのである。』
ふと考えてみれば実はそういうことなのである。我々が夏の衆院総選挙に行ったところで、結果を知った我々は再び観客に戻っている。鳩山首相のツイッターをフォローして参加した気になっている。
『彼らが自分たちの問題の解決に参加しようとすれば、面倒を引き起こすだけだ。したがって、彼らにそんなことを許すのは不適切であり、道徳原則に反する。われわれは、とまどえる群れを飼いならさなければならない。』『そこで、とまどえる群れを飼いならすための何かが必要になる。それが民主主義の新しい革命的な技法、つまり「合意のでっちあげ」である。メディアと教育機関と大衆文化は切り離しておかなければならない。政治を動かす階級と意思決定者は、そうしたでっちあげにある程度の現実性をもたせなければならず、それと同時に彼がそれをほどほどに信じこむようにすることも必要だ。』『とまどえる群れについては、つねに彼らの注意をそらしておくことが必要である。彼らの関心をまったく別のところに向けさせろ。面倒を起こさせるな。何があっても傍観しているだけにさせるのだ。例外は、真の権力者の誰かにたいする支持を表明させるときだけだ。そこでならとまどえる群れに選択をさせてもよいだろう。』
ここまで書いて、そもそも「自由」という概念のない一九八四年のオセアニアと、「自由」な議会制民主主義で動く今の日本と世界の大部分の差はどこにあるのやら、権力者がただただ交代して行き、我々はとまどえる群れであり続けることは、オセアニアとどこが一体異なるのか。さあ。
以下混ぜられなかった部分。(子ブッシュが悪の枢軸扱いしていた、サダム・フセインのかつてのクルド人虐殺を全力で支持していたのは、親ブッシュであり、イギリスであるという事実は表には出てこない。インドネシアによる東ティモールでの大量虐殺の情報が表に出るのを妨害したのはアメリカとイギリスと日本であった。『負けた国だけが「悪いことをした」といわされる。第二次大戦後の東京裁判が行われたのは、日本が負けたからです。ワシントン裁判などというものは開かれませんでした。毒ガスを使ったチャーチルに対する戦争裁判もありませんでした。』「私たち」が他人に対して行う残虐行為は決して「テロ行為」にはならないのである。我々はとまどい続ける。自由とは。)
なんだかまとまらなくてすいません。
参考
東浩紀「情報自由論」
ウェブサイト→http://www.hajou.org/infoliberalism/index.html