紙の本
彼を名審判たらしめているのは、このShowmustgoonの精神に違いない
2003/10/05 12:30
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投稿者:念仏の鉄 - この投稿者のレビュー一覧を見る
2002年ワールドカップの決勝戦。敗退が決まり、ゴールポストにもたれて動けなくなってしまったドイツのGKオリバー・カーンのところに、わざわざ自分から出向いて握手を求めた主審が、本書の著者であるピエルルイジ・コッリーナだった。ビッグゲームを仕切る彼の姿は、一度見たら忘れられない。それは、見上げるような長身とスキンヘッドという印象的な容貌のせいだけではなく、彼のジャッジが、常にこのようなこまやかな心遣いを備えているためだろう。
本書は、そのコッリーナが審判生活を振り返った半生記だ。当然、2002年ワールドカップをはじめ、いくつものビッグゲームが登場する。日本がトルコに敗退した時、日本のキャプテン宮本に「自分たちのしたことに誇りを持っていいと思う。悲しむんじゃない。胸を張れ」と話しかけたエピソードも記されている。
もっとも、98年ワールドカップや2000年欧州選手権では、彼は予選リーグの笛しか吹いていない。チームが上位に勝ち上がった国の審判は、大会後半には外されてしまうのだ。サッカー大国の優秀な審判ほど主要な試合を担当できないという大いなるパラドックスに耐えなければならない寂しさも、本書には記されている。2002年大会におけるイタリアの早期敗退は世界中の人々を失望させたが、コッリーナを決勝に送り込んだという点においては、サッカー界に貢献したわけだ。
審判の知られざる日常、喜びと苦しみ、イタリアの審判制度の仕組み(彼のような世界最高峰の審判でさえ、二週間に一度の合宿講習を受けて技術向上に努めているという)など、それぞれに興味深いが、もっともスリリングなのは、やはり試合の経験談。それも、予想を超えたトラブルに巻き込まれた時に、彼がどのように対処してきたか、というトラブルシューティングのケーススタディである。
一度は認めたゴールが実は副審の見間違いとわかった時(しかも試合はインテル対ユベントスの首位攻防戦)。ホーム側ゴール裏の荒れたファンがGKに物を投げつけ、危険きわまりない状況に陥った時。試合中に大雨が降って続行が危ぶまれた時。コッリーナは、待ったなしの難問に直面するたびに、サッカーの常識にはないような解決方法を見いだして、試合を無事終わらせることに成功する。この種の困難な状況を打開するには、ただ正確にジャッジするだけでは充分ではない。コッリーナは正確さと同じくらい、選手が能力を発揮し、試合が円滑に進行することを重視する。彼を名審判たらしめているのは、このShow must go onの精神に違いない。
私生活やCM出演についての感想も記されているが、昨年大阪で放映されたというタコ焼きのCMについて言及されていないのが、唯一残念な点である(笑)。
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世界一有名な審判 コッリーナさんの自伝
審判の立場からの視点が新鮮で面白い。
試合へのアプローチの方法や
コントロールの方法などが書かれている。
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一つ質問させてください、12年前の2002年6月18日(火)、皆さんどこにいたか覚えておられますか?
私は富山駅にいました。前々職での金沢への仕事の帰りに、飛行機の関係で富山空港に向かう途中。そう、2002年ワールドカップ・決勝トーナメントの「日本 vs トルコ」を駅前のオーロラビジョンで観ていました。
全てを観れたわけではありませんでしたが、試合終了のその瞬間、すべての音も色彩も消えたような、そんな世界を画面越しに感じたのを今でも覚えています、、なんてことを思い出したのは、こちらを久々に読み返したから。
その2002年のワールドカップ、決勝の審判でもあったコッリーナさんの、自伝的なエッセイ。2003年の本ですから、ワールドカップ後すぐの本となっています。
今から振り返ると、なんとも懐かしい選手の名前などてんこ盛りなのですが、スルッと落ちてきたのは次のくだり。
“「準備をする」ということは(中略)偶然に任せない、という意味”
業種を問わず、仕事を進めるにあたって、共通の認識ではないでしょうか。そして準備とは身体的な意味合いのみでなく、
“(準備とは)何をしに行くかということの認識でもある”
との“心構え”も含めてのことだと話されています。
このような“想い”をベースにされているからこそ、あれだけの実績を残す事が出来たのでしょうか、そして根底にあるのは“サッカーへの愛”、審判は経済的には決して裕福とは言えません、好きでなければやっていけないとの要素も強いようです。
そんな“審判という職業”の実態についても、ご自身の経験を交えながら丁寧に描き出されています。サッカー観戦にあたって、審判の立ち位置や考え方に触れることができて面白い、そんな一冊です。
なお、2002年大会で笛をとった試合の一つ“日本 vs トルコ”戦についても言及されています。試合終了の笛を吹いたのちの“10秒間の完全な沈黙”と、それに続く嵐のような拍手。それはとにかく結果を出したというチームに感謝の気持ちの表れであろう、、そしてそれは今までの私には沸き起こったことのない、感動的な瞬間だったと。
“自分たちのしたことに誇りを持っていいと思う。悲しむんじゃない。胸を張れ”
当時のキャプテン宮本選手へのこの一言は、今でも震えます。当時富山駅前で感じた想いと、どこか共通していたからかもしれません、なんて。
さて、2014年ブラジル大会もいよいよ大詰め、残すところはあと2試合。それぞれが胸を張れるような、そんな“自分たちらしさ”を失わないサッカーを見せてくれることを、期待しています!
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選手も間違える、監督も間違える、審判も間違える、それが蹴球だ。
最近、得点の機械判定の研究を中止した世界蹴球協会。
正しい判断だと思う。
球と枠だけの関係なら機械判定できるだろうが、
そのまわりの選手が、反則をしているかどうかは、
球と枠と同じ正確さでは判定できないことが推測できる。
球と枠だけ正確に判定しても、まわりの人による反則が判定できないなら、
意味がないことが分かってもらえるだろうか。
これまで、神の手が、単なる誤審の問題だと思っていた。
しかし、あるテレビ番組で、
イギリスとアルゼンチンのフォークランド紛争がなかったら、
神の手がこれほどもてはやされることはなかったはずだと分かった。
つまり、審判以外の人間が間違えるということがないのであれば、
審判が間違えるということが問題になるだろうけど、
審判以外の人間が間違いを犯しているのに、
なぜ、審判だけが問題視されるのかという点だ。
権限があるからというのなら、
戦争を決断する人の方が権限が大きい。
選手も間違える、監督も間違える、審判も間違える。
それなら、お互いに人間どおしとして尊重しあうことによって、
解決の糸口がつかめないだろうか。
孤独な審判。
話題はまだまだつきないような気がするので、続編に期待します。
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おそらくスポーツの審判が書いた本は日本では極めて少ないはずです。
そのため本書は非常に貴重な一冊です。
そして著者は世界的な審判であり、審判引退後もFIFAに深く関わっている第一級の人物です。
結果としてスポーツに真剣に取り組む方々は必読の一冊です❗
少なくとも高校生のほんの一時期ですが、非常に熱心にスポーツの審判に取り組んだ私には激しく共感できる話がたくさんありました‼️
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『しくじり審判』を読了後、無性に本書が読みたくなった。これは2002日韓W杯決勝主審を務めたコッリーナ氏の自伝である。審判資格を持っている諸氏には第5章「審判の世界」から読むことをお勧めする。「割当」を受けている審判なら第2~4章を我が事のように読めるはずだ。そして、日本という治安の良い国で審判できることの幸福を思わずにはいられない。観客に背を向けて走る副審の背中を傘の先端で狙われるなんてゾッとする。しかし、そんな環境で育つ審判は、かなり精神的にもタフになるのだろうな~