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カイエ・ソバージュシリーズの第一巻を買ってから8年も経ってしまったが、ようやくいま、全五巻を読み終えた。8年の間、理解できなくなっては投げ出し、暫くして最初からまた読み直すという繰り返しであったが、不思議と途中で諦めようと思ったことは一度もなかった。
これは私だけの感覚なのだろうか。長い時間、理屈を考え続けていると、だんだん頭が熱くなってくることがないだろうか。私にはそのとき同時に、脳の表面は活発に動いて熱くなっているけれども、脳の奥の方は、実はちっとも動いていないのではないかという実感が残っている。
中沢新一が「流動的知性」だとか「対称性思考」などと定義し、言葉を尽くして説明しようとしているのは、この頭の内側に広がる脳の未開発の部分を動かすには、通常の思考パターンとはまったく別の回路を開く必要があるということだろう。
三次元の世界に住む私たちに、四次元の存在を直感的に把握することができないのと同様に、日頃、脳の表面しか使っていない私たちには、この新たな思考回路をすんなりと理解することは難しい。
中沢新一は『虹の理論』以来ずっと、私たちにこの新たな思考の姿を伝えようと努力してきた。その表現は時に難解なものとなり、論理展開についていけない自分の頭の堅さに辟易することも多々あるけれども、それでもなお諦めずに頭をフル回転させていると、ふと、これまで経験したことのないような頭の動かし方を一瞬だけ実感することがある。そのとき私は、ようやく脳の奥に一筋の光が届くのを感じるのだ。
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河合隼雄さん、あるいは茂木健一郎さん、からのつながりで、本書を知ることになり、読んでみた。
中沢新一さんに対しては、正直言ってあまりいい印象をもっていなかった。
なんだか、節操なくいろんなことをしている人、という気がして。といっても、それってずいぶん昔、90年代か?、のことだけど。
対称性とか非対称性って、時々耳にするけど、ものごとって、抽象化していくと、対象が少なくなっていって、ひとつまで抽象化するといろんなものを無視しなくてはいけないけど、2つなら、対立関係とか、類似性とか、相互依存関係とか、表現できるので、そのへんにしておくと、いろんな考え方ができるという意味で。
本の中では、さまざまな例示をもとに、対称性について述べています。
抽象化作業の使命は、いったん抽象化したものは、今度は、それを目の前の個別具体的な事象に当てはめて、何かしら物事を変化させることにあるんじゃないか、と僕は思うのだけど、本の最後で中沢新一さんも、「対称性人類学を想像する仕事は、まだ端緒についたばかりです」とおっしゃっています。
期待したいところです。
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5冊のシリーズの中で、話口調が少なく一番読みやすかった。
昔、中学校の頃に自分の中に仏教が流行っていたことを思い出した。ちょっと、内容にノスタルジー。
自分は分裂症気質なため、意図的に非対称的な考え方をするように心がけて、秩序を保っているとことがあると思う。
音楽でいえば、
ロック=非対称的 ヒップホップ=対照的かな。
それにしても、人間は無意識においても2項対立からは逃れられないのか。
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Ⅰ人類最古の哲学 Ⅱ熊から王へ Ⅲ愛と経済のロゴス Ⅳ神の発明 Ⅴ対称性人類学
本書は著者が数年にわたって大学で行った講義がもとになっている。「比較宗教論」という授業で5冊のシリーズものである。この5冊を読むのに1年以上かけてしまった。本シリーズから神話に興味をおぼえた。シンデレラの物語の奥深さを知った。神話の中で他の動物が人と同じような扱いを受けていることを知った。国家が誕生する過程を見た。志賀直哉著「小僧の神様」を題材に、純粋贈与という考え方に触れた。(本当に純粋な贈与というのはありうるのだろうか。相手が喜ぶところを見たい、そんな思いだけでもだめなのだろうか?)神がつくり出される過程、そして宗教へと至る道を見た。そして、著者が唱える対称性人類学という考え方に触れた。それが私の体の中でふに落ちるものにはまだなっていない。それでも、この中に取り上げられた内容が大切であるということは直感的に分かる。本シリーズを読んでいる1年の間に、「河童のクー」という映画を観た。憲法について自分なりに学んだ。環境問題は改善される様子がない。9.11テロ以降、決して格差社会が緩和されるわけでもない。問題は山積している。新たな科学技術に頼るばかりでなく、何らかの新しい発想が必要なのだと思う。その一つがきっとこの対称性という考え方なのだろう。
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カイエ・ソバージュの最終巻。
結構、評判らしい本シリーズであるが、この最終巻まで、たどり着けた読者は、何%くらいだろうか。
第4巻までで、論じられてきた神話、国家、経済、宗教の起源をこの5巻では、統合し、理論化し、その今後の展開を展望していく。
のだが。。。。
書いてあること自体、それほど違和感があるわけでないし、大筋において賛成というか、自分もおおむね同様のことを考えていた。
が、なんだか読後感はよくない。
なんでだろう。
言葉の使い方とか、定義の仕方とか、議論の進め方のファジーさ、とそれを覆い隠すようなレトリックかな。
例えば、キーコンセプトとなる「対称性」という言葉の定義が、今ひとつはっきりしないまま、進んでいく。しっかり定義してあるというかもしれないが、いわゆる物理学とかでの定義とは違うので、読んでいて混乱してしまう。
また、現人類となったときの脳の構造変化が、しばしば言及されるにもかかわらず、その辺の生物学的、進化論的な説明はほとんどない。(意識と無意識の進化の説明についても、違うのではないかと思う)
で、中沢氏は、レヴィ=ストロースの構造人類学をベースとした「対象性人類学」を宣言するわけなんだけど、それって、新たに名前をつけるほど、新しいのか?と思ってしまう。
レヴィ=ストロースに、経済人類学の議論やポスト構造主義の議論を足したものという以上のものがあるのだろうか。
一神教と資本主義と国家の構造が同様であるみたいな議論とか、20年くらい前に、ニューアカがはやっていたときには常識に属することだったのではないかな?
ニューアカとか知らない若者向けの温故知新か?
それをさも新しいものかのように提示するあざとさとか、主語がいつのまにか「私」から「私たち」になってしまう不気味さとか、つまらないことが気になった。
このシリーズも4冊までにして、4冊目に全体のまとめを最後につければ、良かったんじゃないかな。。。
まあ、そこまで悪い本ではないけど。4冊めまでが結構面白かったので、残念。
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序章 対称性の方へ
第1章 夢と神話と分裂症
第2章 はじめに無意識ありき
第3章 “一”の魔力
第4章 隠された知恵の系譜
第5章 完成された無意識―仏教(1)
第6章 原初的抑圧の彼方へ―仏教(2)
第7章 ホモサピエンスの幸福
第8章 よみがえる普遍経済学
終章 形而上学革命への道案内
著者:中沢新一(1950-、山梨市、人類学)
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中沢新一 「 カイエソバージュ 5 」
新しい形而上学の世界を見出そうとした本。新しい形而上学の世界=自然化した形而上学=既存の形而上学+対称性無意識。形而上学=世界の原理を思惟や直観で探究
「神話は無意識のおこなう思考である」神話的思考から対称性の論理を抽出
*無意識の行う作動→心の中で不変の作動
*無意識の行う対称性=高次元性=無限性
対称性無意識=心=自然→一神教+自然→神即自然となる
神話的思考の本質=対称性=同質=つながり
*神話=心の構造から生み出された
*生と死を一緒に包みこむ対称性
*三次元より高い次元の空間が必要
*全体と部分が一致する構造
*対称性が無意識の活動に結びつく
無意識
*いっさいの心的現象の基体=心の本質
*対称性無意識=クラインの壷と同じ構造
*無意識=流動的知性 → 対称性
対称性
*交換→贈与 *言語→詩 *人間=宇宙の一部
*部分は全体と常に一致=全体のバランスを壊す個人的利益は否定
資本主義=対称性と非対称性のバイロジックな協同作業
交換=分離→ 贈与=結びつけ
*贈与されるモノを媒介に 人と人をつなげる流動性
*交換の原理が それに代わるモノや人を分離=非対称
一神教=一の原理が支配している世界
*バイロジックに終止符→人間と非対称として神を持つ
*人間と神が分離
*一の原理が精霊の世界を制圧→一神教が発生
*一の原理のない世界は 純粋贈与を行う宇宙的な力
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これは、かなりすごい本だった。
この本を読むと、何故、神話や夢というのは、冷静な思考からしてみたら不可思議な形をとって表現されることが多いのかということが、とてもよくわかる。
もう、世界の見え方がすっかり変わってしまうぐらいに衝撃的な内容が、当たり前のように整然とまとめられた上で、語られている。
アリストテレス式の論理学や、コンピュータの演算では、「人間である」と「ヤギである」は同時には満たされることはない。それが、あらゆる論証をおこなう上での、大前提であり決まり事であるけれども、神話の論理というのは、その点を完全に無視して、「AでありBである」を矛盾なく受け入れる。同じ場所に、複数のものが同時に存在するということが可能になっている。
前に「パラレルワールド」という最新宇宙論の本を読んだ時に、「3次元を2次元の中に封じ込めるホログラムと同じ原理で、4次元以上のn次元空間は(n-1)次元の中に圧縮して封じ込めることが出来るという理論が、今では常識として考えられている」というような話しがあったけれど、この「対称性人類学」で説明されている、「対称性を持った神話」の構造というのは、ほとんどまったくそれと同じことを言っているのだと思った。
般若経や華厳経の仏教思想を、宗教ではなく、対称性をベースとして考えぬかれた知恵なのだととらえる見方はとても面白かった。今後、重要性を増すのは、交換にもとづいた経済ではなく、贈与による経済だと語られているけれど、WikipediaやLinuxのようなボランタリーな活動というのは、まさに対称性への揺り戻しが起ころうとしている、一つの顕れである気がする。
【特に面白かった話し】
・中央アフリカのレレ族では、イニシエーションとしてアリクイを食べる。レレ族はあらゆるものを「右=男=人間性」と「左=女=動物性」の2種類のいずれかの分類に分ける。アリクイ(穿山甲)は、全身が鱗でおおわれた哺乳動物で、鱗は魚を思わせるが、木によじ登り、くるくる体を丸めて木にぶらさがって眠ることもある。形は哺乳類というよりも、卵生のトカゲに似ている。ほかの哺乳類は一度にたくさんの子供を生むが、このアリクイは一度に一匹しか生まない。人間を襲うことも、逃げることもなく、狩人が通り過ぎるのをじっと聖者のように待つ。この動物はレレ族の動物分類学のどこにも所属しない「例外者、怪物」である。この怪物的な動物を、許された少数の男だけが、儀式の中で食べることで、その力を取り込むことをおこなう。(p.124)
現実の世界を支配している思考では、生きていることと死んでいることは同じではありません。生と死のあいだには、およそ考えられる限りでもっとも深刻な非対称性がある、といっても言い過ぎではありません。しかし、神話はそんなにも異質な生と死のあいだにさえ、同質性と対称性を見出そうと努力するのです。(p.31)
同じ場所に複数の存在が同時にいても、ちっともおかしくないような世界のことを、神話は語ろうとしています。ひとつの椅子に私が座ってしまえば、もうそこにあなたが座ることはできません。二人が同時に座れるようにするためには、どうすればいいのでしょう?こういう場合に数学では、どう考えるかというと、二人の人間を四次元とかもっと上の次元をもった空間に埋め込んでしまえばよい、と言うのです。こういうことは、数学者の考え出した知的なお遊びのようにも思えます。ところが、こういう三次元よりも高い次元が実在していることを、神話を語っていた人々はごく当然のこととして認めていたようなのです。(p.39)
無意識は、非対称的な関係をまるで対照的であるかのように扱おうとします。分裂症にしめす一例では、「ジョンはピーターの父である、だからピーターはジョンの父である」というタイプの思考を進めていきます。私たちの生きている「正常な世界」では、息子と父とは非対称的関係の最たるものですが、無意識は三位一体説を唱えるキリスト教神学のように、息子と父の同質性を強く主張してゆずりません。(p.54)
高次元のなりたちをした流動的知性の活動は、たえまなく三次元的な構成をした通常の論理への「翻訳」がおこなわれていく。次元数を下げて、ふつうの思考にも理解のしやすい形へ「翻訳」されるたびに、そこには圧縮や置き換えの現象がおきることになる。夢はそうやって製造される。(p.75)
私が「本物の知恵」と呼んでいるのは、私たち現生人類の「心」の原初の働きについての正確な知識を人々に伝えるために、巧みに案出され、創造されてきた知識の体系のことです。つまり、「心」の基体である流動的知性=対称性無意識の働きがどいうものであるのかを、人々の前に具体的にあらわにしめしてくれる特別な知識の体系を、私は「知恵」と呼ぼうとしているのです。(p.121)
「男たちは、ああやって貴重な知恵を求めて冒険に出ていきます。ところが、女の人たちは村でそれを待つだけです。なにか不公平ではありませんか。女性はそういう知恵に近づくことを許されていないわけですから、差別があるのではないですか」。これにたいして村の女性が笑いながら、こう答えたそうです。「男たちはかわいそうに、あんなにでもしなければ、知恵に近づくことはできないんだよ。ところが、女は自然のままにそれを知っているのさ」。(p.143)
対称性人類学は「抑圧されていない無意識」の働きを、できるだけ純粋な形で取り出してこようとする試みですが、仏教はすでに二千数百年も前から同じ試みに取り組んで、その思想を哲学や共同体の形として、現実世界の中に表現し、実践しようとしてきました。(p.146)
仏教以外の大宗教はどれも、新石器型の野生の思考を否定することによって、新しい文明型の宗教をつくりだしてきました。とくに一神教の場合、野生の思考にたいする否定は徹底していたために、そこに発達した文明はどれも手のつけられないほどに頑固な「非対称性」と特徴をおびることになりました。ところが仏教だけは、そうした大宗教の中にあってただ一人、野生の思考との共通地盤に立つ対称性の思考の可能性を、最後の帰結にまで発達させるという試みに挑戦してきました。(p.163)
すべてのものが無「自性」で、それら相互の間には「自性」的差異がないのに、しかもそれらが個々別々であるということは、すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、存在は相互関連性そのものなのです。根源的に無「自性」である一切の事物の存在は、相互関連的でしかあり得ない。(p.191)
死の衝動のことを、本質的な部分に組み込んである経済学は、まだつくられたことがありません。世の中で通用している経済学のほとんどすべてのものが、ただ「生の衝動」のあらわれ方を、手を替え、品を替えて理論的に表現しているにすぎないようにも思えます。そういう経済学を土台から「転倒」するものとして、バタイユの「普遍経済学」は構想されました。その意味でも、対称性人類学と普遍経済学とは仲のよい兄弟なのです。(p.238)
数学の不思議さは、それが無意識の領域の出来事まで記号(シニフィアン)にしてしまうことができるところにあります。しかもその記号は厳密な論理の規則にしたがわなければならない、というのが数学のルールです。それによって、対称性の論理で動いている無意識の領域の出来事が、厳密に非対称的な論理で表現されるという、希有のことがおこるわけです。音楽にもそういうところがあります。また、神話的思考もそれとよく似た動作をおこないます。夢もそうです。「超実数」の考え方には、数学の持つそういう特徴がみごとに発揮されています。(p.252)
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2004年 中沢新一
(表紙、アメリカ先住民クワキウトゥル族のトランスフォーム・マスク)
NOTE記録
https://note.com/nabechoo/n/n03f159d256b6
5冊読んできて、分かったような、分からんような、そんなレベルなんだけど、たぶんきっと、この非対称な現代で、古代の思考(対称的・神話的思考)を軽視せず、復活させる必要があるんじゃないか、みたいなこと?
その思考にある「対称性の論理」は、抑圧や操作や組み替えが加え続けられても、人類の心の中で不変であり続けている。この潜在的な能力を、豊かに発達させていく可能性は十分にあるぞーと。
この対称性思考によって、極度な非対称でバランスの崩壊した世界で、今日の人類が陥っている袋小路的な深刻な危機から、脱出することができるようになるんじゃないかと。未知の形而上学革命を実現!
こんな感じなのかな?