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当時のヨーロッパ各国における「宗教改革」の動向とカトリック側の対応を社会とのかかわりのなかで論じています。
手軽に読める本ですが、内容的にはとても充実しており、「宗教改革」の概説として最適の1冊です。
本文の小見出しが示唆的です。
小見出しは、
●民衆は文字を読んではならない
●村のお坊さんはラテン語が読めない
などなど。
宗教改革勃興の理由が当時のカトリック教会の腐敗にあったことはもちろんだが、改革派の側には個人的な理由もあったりしたという(苦笑)。
わが国でも似たようなケースがあったりするが、つまるところは「権威と権力」「経済」など宗教そのものとはちがったところでの対立だったりするということ。
オススメ度 ☆☆☆☆ 4.5です。
・・・・・・・・・・
副題: カトリックとプロテスタントの社会史
新書: 232ページ
出版社: 講談社 (2004/3/21)
[出版社/著者からの内容紹介]
ルターの「論題貼り出し」はウソ!
中世はこのようにリストラされた!
中世の人々は、カトリックへの反逆をなぜ受け入れたのか?ルター伝説の真相から聖画像破壊まで、大転換期の諸相を描ききる。
[目次]
社会史研究の発展
活版印刷術なくして宗教改革なし
書物の増大と識字率
文字をあやつる階層と文字に無縁な階層
素朴で信仰に篤い民衆
聖画像破壊運動
修道士の還俗と聖職者の結婚
都市共同体としての宗教改革導入
教会施設は二宗派共同利用で
宗派が異なる男女の結婚
グレゴリウス暦への改暦紛争
「行列」をめぐる紛争
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[ 内容 ]
中世の人々は、カトリックへの反逆をなぜ受け入れたのか?
ルター伝説の真相から聖画像破壊まで、大転換期の諸相を描ききる。
[ 目次 ]
社会史研究の発展
活版印刷術なくして宗教改革なし
書物の増大と識字率
文字をあやつる階層と文字に無縁な階層
素朴で信仰に篤い民衆
聖画像破壊運動
修道士の還俗と聖職者の結婚
都市共同体としての宗教改革導入
教会施設は二宗派共同利用で
宗派が異なる男女の結婚
グレゴリウス暦への改暦紛争
「行列」をめぐる紛争
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歴史は海のうねりのようにゆっくりと動く。劇的な変化もよく目を凝らして見れば、長期間にわたって圧力や負荷に覆われていることがわかる。小事が積もり積もって大事へ至る。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20101123/p6
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タイトル通り、宗教改革期が題材ですが、普通の人たちの生活と照らし合わせているのが面白い所。
情報伝達、職業、結婚観、年中行事などなど、改革の意図した部分やそうでない所で影響があったことが、具体的な事例を含めてわかりやすく説明されていました。そこから当時の人々の「気持ち」も汲み取ろうという試みも見えました。
印刷や建築の話題も登場するので、美術に興味がある人にもおすすめです。
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宗教改革の当時、現実にはどのようなことが起こっていたかということを歴史的に検証されたことを説明した本。
たとえば、ルターは教会に有名な95カ条は張り出していないとか、その当時の識字率はどの程度だったのか、また、宗教改革当時にどのようなことがおこったかが興味深く書いてあった。
宗教改革というのが、どうもイメージで語られることが多いが、その点をしっかりと検証の結果の真実を教えてくれる本。
その意味では有意義だった。
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「改革」というと、改革する側が善であり、改革される側は「抵抗勢力」で悪だと描かれる。ルターやカルヴァン、フスなどへの弾圧のみが取り上げられるが、実際には、生産力の工場などにより社会が大きく変化していく中で、人々が宗教という「普遍」に対して「外部」を創り出していったものであり、利害関係があり挑発があり動乱があり矛盾があった。
本書では、いくつかのトピックを取り上げ、その「真実」を明らかにしていく。
たとえば、カトリックは「貧者の救済」は宗教の本義、という考えで、広場に浮浪者が寝泊まりすることを受け入れたが、「働かざるもの食うべからず」を地で行こうとする宗教改革派にとっては許せない存在だったため、実際に浮浪者を広場から追放した、など。
一気に読める刺激的な本でした。
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資本主義やナチズムとかかわる「宗教改革」だが、なかなかイメージがつかめない歴史事象である。この本は宗教改革の社会史で、ランケ(1795-1886)に代表される英雄偉人史観を批判し、マルク・ブルック(1886-1994)、リュシアン・ルフェーブル(1878-1956)らが創始し、歴史の変わりにくい「構造」に注目した「アナール学派」の立場から書かれている。したがって、ルターやカルヴァンの生涯や思想については詳しくない(だいたい「思想研究」というものはランケ的歴史学である)。第一章は1517年10月31日(ハローウィン、万聖節の前日)、ヴィッテンベルグ城付属教会の扉に、一介の修道士だったルターが『95ヶ条の論題』を「貼り出した」という説について検討している。この「論題」はローマのサン・ピエトロ大聖堂の改修工事の資金集めに、フッガー家が協力して発行した贖罪状(免罪符)の無効を指摘したものである。結論は、10月31日前後にルターがマインツ主教に手紙で送ったというだけで、掲示板のかわりに使われていた扉に「貼り出した」とは言えないとなる。伝説のもとはルターの右腕とされたメランヒトンの『ルター伝』で、この書物は信憑性に乏しいそうだ。第二章は1450年ごろから組織された印刷術である。活版印刷はグーテンベルクの発明とされるが、産業として組織したのが彼であっただけで、トランプの印刷などに祖型があり、印刷機に応用されたワイン製造用プレス機は裕福な農家には常備していたらしい。オランダでは活版印刷をハールレムのコステルの発明とし、コステルのもとにいた職人のひとりがグーテンベルクだとしている。とにかく印刷術によって書物が増えたのは確かで、これに宗教改革が拍車をかけた。ドイツでは、1515年には年間150種の印刷物しかなかったが、「論題公開」以後、1520年には500種を超え、23年には950種になった。「印刷術なくして宗教改革なし」と言われるそうだ。第三章は、印刷術をつかった宗教改革派のプロパガンダが説明されている。民衆は字がよめないので、新教の聖職者や貧乏な学生が読み上げ役になる「集団読書」を前提として、パンフレットやポスターをつくり、民衆を引き入れた。また、ローマ法王を悪魔や動物の姿で描いたり、ルターの肖像に鳩(聖霊の記し)を描いたり、棍棒をもった「ヘラクレス」ルターが法王を打倒したりという漫画(木版・銅版)が使われた。第四章は文字とくにラテン語による階層分化と印刷術にたいする聖職者の対応である。カトリックでは、民衆に「信仰は耳で聞いて心で知る」という観念が強かった。村の司祭は棒暗記のラテン語のミサを行えるだけで、聞く方の民衆も分からないからそれでよかった。これら無学な聖職者の現状を宗教改革派が公表すると、教会も独自調査した。半数の司祭がキリスト教の基本教義を理解していない地域もあり、「十戒」も言えない司祭もいたそうだ。また、印刷術で書かれた本は美しくないという抵抗もあり、カソリックでは手書きの祈祷書を好む傾向が続いた。メディア革命に対する世代間の態度のちがいについてもふれている。第五章から第七章は、民衆の態度である。基本的に素朴だが信仰に篤いのが民衆で、免罪符の流行には煉獄で苦しむ親への「孝行」があった。免罪符のライバルは聖遺物であり、���ーロッパじゅうの「キリストの骨」を集めると千人分あるそうだ。これらの聖遺物はほとんど偽物だが、民衆はそれを見に遠くまで出かけた。面白いのは、ヴィテンベルグの君主が聖遺物マニアで免罪符を敵視する勢力がルターの周辺にいたことである。素朴な民衆は聖職者の腐敗には敏感で、借金のかたに娘を妾にする聖職者が漫画で批判されている。民衆は教会に宗教画や彫刻などを寄贈したが、宗教改革によってカトリック教会の華麗な装飾が批判されると、同じ民衆がキリスト像を引き倒して「聖像破壊」を行った。ルターはアウグスティヌス会の修道士だったが、聖書の読解を通し修道制が不自然であるとした。この修道制の否定は修道士の還俗や修道女救出(カトリックでは修道女誘拐は死刑)などに発展し、修道士も結婚して家庭をもつのが神の摂理であるされた。ルターもシトー会修道院から救出されたカタリーナ・フォン・ボーラと結婚している。こうした牧師の結婚式は改革派のデモンストレーションとして民衆が盛大に祝った。修道士のなかには階級の上昇をもとめて入会した者もいた。修道女のなかには口減らし的に修道院へ入れられた娘もいて、修道制はこうした人からは呪うべき制度でもあった。カトリックの司祭は生涯独身を貫く(貞潔)のが建前であるが、ある教区では1/3にあたる司祭が「ファムーラ」と呼ばれる召使を抱えており、これは事実上内縁の妻であった。トレント公会議(1545-63)で、カトリックの改革が検討されると、地域の司祭は妻帯が許されるかと期待したが、そうはならなかった。第八章から第十二章までは都市と宗派の関係を扱っている。「論題公開」(1517)の後、ドイツ農民戦争(1524-25)を経て、1555年「アウクスブルグの宗教和議」で、神聖ローマ帝国の領邦ごとに信教が選択されることになる。しかし、これは現代の個人的信教の自由とは異なり、運命共同体である都市ごとに、君主がカトリックかプロテスタントかを選択したのである。帝国自由都市は宗教改革派都市が30、カトリックが10ほどであった。アウクスブルク、ドナウヴェルトなど20都市は両宗派を公認した。この宗派併存は当時の民衆にはストレスだったようである。アウクスブルクでは教会施設の共同利用で対立などがあり、宗派のことなる男女の結婚にも問題があり、偽装改宗が相次いだ。これにはイエズス会の対抗宗教改革による働きかけもあった。アウクスブルクは神聖ローマ帝国の会議が開催される政治都市でもあり、現実的な判断で妥協や配慮などの宗教的寛容を発展させていく。しかし、ドナウヴェルトではカソリックの「行列」(プロテスタントは偽善行為と批判)が、市内で旗を立てて行進したことが原因で衝突に発展した。結果、宗教和議違反でドナウヴェルトは帝国都市から除名され、カトリックの君主に征服された。科学史に関わる部分では、1582年のグレゴリオ暦への改暦が問題となる。ユリウス暦は前46年制定で、一年は365.25日であった。しかし、この太陽年はわずかに長く、1600年の使用で10日あまり現実の季節とずれていた。そこで、グレゴリウス13世の布告により、カトリック諸国では1582年10月4日の翌日が10月15日となった。この改暦にプロテスタントは抵抗した。ルターはコペルニクスを馬鹿者であると批判し、聖書にしたがうとしたが、こうした論争の過程で暦の科学的正確性は問題にされなかった。問題となったのは、復活祭(イースター)など、春分を基準に決められる移動祝祭日である。これがカトリックとプロテスタントで異なることになり、両派併存の都市ではプロテスタントの多かった精肉業者がカトリックのカーニバルに営業せず、免許を停止されたりしている。1583年にドイツ・オランダ・オーストリアのカトリック諸侯が改暦、1700年にドイツとオランダのプロテスタント諸領邦、デンマーク、ノルウェーが改暦、1752年にイギリス、1753年にはスウェーデンが改暦した。宗教改革は、民衆からみれば、「異端者」扱いをされながらも、ミサが分かる言葉になり、パンだけでなくワインが儀式にだされるようになり、聖職者が結婚するようになったという運動である。カトリックからいえば、修道士が還俗し、元修道女が結婚し、民衆が法王を「瀆神の徒」とするようになり、聖像を破壊したという激しい抗議であった。両者は民衆を巻き込みプロパガンダ戦を展開したのである。
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著者:永田諒一(1947-、福岡市)
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宗教改革がもたらした社会の変化と、それでも変わらない一面に着目した良書。
宗教よりも愛欲。宗教の併存は自らを正義と信じるが故に軋轢を生む。