紙の本
「リアルであること」と「クレオール主義」
2004/04/01 00:43
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投稿者:iso - この投稿者のレビュー一覧を見る
書評タイトルにある「リアルであること」と同じタイトルの文献を著している中沢新一氏と深い関係にある網野善彦氏が死去した。その網野氏が中心となり編集された講談社の日本の歴史シリーズ。最初の00巻である「「日本」とは何か」を網野氏が著し、最終巻である「日本はどこへ行くのか」に姜尚中氏が論文を著している。網野氏の死去は私にとっていまだにショックであるが、その思想的なものは、この姜氏の『在日』に受け継がれ、流れているように思われる。そこで問われていることは、単に姜氏自身の出自に関わるようなことだけではないだろう。姜氏も『在日』第六章「日本国民の在日化」の中で述べている。
「こうして社会の光景がこの十年あまり、かなり変わってしまったような印象を受ける。それはひと言で言うと、戦後日本の安定した豊かさを支えていると思われてきた社会の仕組みや人々の生活意識の変容である。企業や組合、地域や各種団体などを中核とする共同体意識がくずれ、同時に社会的なセーフティーネットが、いろいろなところでほころびはじめるようになったのである。それは、誤解を招きやすいが、日本国民の「在日化」と言えるような現象である。」
このことを確認したうえで姜氏は日本のナショナリズムの方向性について危惧しているが、そこで考えなければならないことは、こうした(プチも含めた)ナショナリズムの傾向に対して、どうのような立場、どのようなアイデンティティ、どのような認識論的な地平を確立することができるか、ということだろう。
いみじくも姜氏が歴史認識の問題に触れているように、網野氏が戦後歴史学に対して問い続けた事柄と姜氏の主張が連動するように思われる。それをひと言で言おうとすれば、「海」は諸国を分断するのではなく様々な交流を生み出す、ということになろうか。それは『在日』第八章のタイトルである「東北アジアにともに生きる」という姜氏の希望とのつながりを感じる。
さらに問い続ければ、文化人類学者である今福龍太氏の、彼の著した文献のタイトルにもなっている「クレオール主義」にまで考察を向ける必要を感じる。言語学的な領域でのクレオール語から発展させ、文化人類学的な領域におけるクレオールを通過し、思想的な領域にまで高めたノンエッセンシャリズムな認識論としてのクレオール主義。ある意味での認識論である以上、このクレオール主義を考えるとき、同時に記述の問題、すなわち近代的な科学的合理主義がもたらしたと言ってよい主観性と客観性の問題を含めた現実理解の問題、「リアルであること」に対する記述のあり方が問われてくる気がする。(そしてこの問いは網野史学とも連動するであろう。)
そうすると、客観的な時間を超えて、現在的な地平から記憶を掘り起こし、あるがままの状態で書かれたような『在日』の、記述のあり方に注目せざるをえない。昨年9月に死去したエドワード・サイードの『遠い場所の記憶』に触発されるかたちで出版したようにも思われるこの『在日』という文献は、最も「リアル」なかたちで、私たちが問い続けなければならない課題を提出しているように思われる。
紙の本
アイデンティティから他者性へ
2004/03/31 23:06
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投稿者:野崎泰伸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は1950年、熊本県生まれの「在日」二世。職業は大学教員。専門
は政治学・政治思想史。ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの研
究者として著名、というか、「朝まで生テレビ」の印象が世間的には強
いか?
僕がもっとも印象深かったのは、第6章「社会的発言者へ」である。
この章は、姜氏が「在日」として社会的発言をするということはどうい
うことかの考察にあてられる。
大学での研究を「干物」、メディアでの発言を「生もの」にたとえる
姜氏は、メディアでのアクチュアルな発言を、しかし、大学での研究の
蓄積に支えられたものだと分析する。こうした研究以外の仕事は、確か
に時間を割く。しかしそれは、姜氏をして、「そうしなければならない、
と自分に言い聞かせてきた」と言わしめる。
「在日」として発言するということに関して、「なぜ「在日」は「在
日」問題しか語られないようになっているのか」、「自分が「在日」一
世のことを語るという代理行為について」など、さまざまな興味深い話
題が飛び交うが、特に僕は、次の点において興味を持ち、自分でも深め
ていきたいと思っている。
それは、「在日」というアイデンティティを語ったり、立ち上げたり
することの「可能性」と「限界」のはざまについて、である。
姜氏は、昨年亡くなったエドワード・W・サイードを引きながら、次
のように述べる。「植民地支配という心身に及ぶ深い「精神的外傷」を
こうむった民族が、そのトラウマを必死になって除去しようと格闘して
いるにもかかわらず、その苦渋に満ちた葛藤のドラマに、いささかの痛
みも共感も抱くことのない「加害者」がいるとすれば、その「加害者」
に向けて、新たにナショナリズムの神話を捏造して自分たちを主張した
いという誘惑に駆られることは決して理解できないわけではない」(18
3ページ)
しかし、サイードがこうした態度を決然と否定した(サイードはイギ
リス委任統治期のパレスチナ、エルサレムに生まれ、15歳で渡米、帰化
する)ように、姜氏もまた、幾重にも引き裂かれ、どこにも所属するこ
とができないという。そして、日本に住む「アマチュア」として、発言
しようということになるのである。
心理学者のフロイトを敷衍してサイードは、自分の中にある「他者」
の痕跡を発見せざるを得ないのではないか、という。それは、アイデン
ティティによって世界や自分が二分法的に理解されるということではな
いのである。
だからこそ、生きていく上で、アイデンティティの立ち上げが、それ
自体で抑圧を孕むものになり得る。それが、たとえ社会的に抑圧された
アイデンティティであっても、である。
姜氏のこの著書は、それを踏まえたうえで、姜尚中という人物像を自
ら深くえぐるものだと言えそうだ。文体は平易であり、読みやすい。多
少の政治学的知識は、下欄の豊富な解説によって補えるようになってい
る。
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最近、TVで見かけることのある姜尚中氏。どうしてこんなに厳しい表情をしているのか・・・、と疑問だった。学者は得てして難しい顔をしているものだが、彼の場合には、刻み込まれたような厳しさを感じる。
この本ははじめての自伝だという。結構言葉が難しく、わかりにくいことも多かったのだが、それでも、彼の中には二つに「分断」されて、埋めようのない溝があり、そこに「在日」としての、悲哀と苦しみが詰まっていることを感じざるを得ない。それは私の心にも痛かった。
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在日として日本に生まれ、アイデンティティをかかえながら筆者が、現在の境地にいたった考え方が、素直に私の中に入っていけた。東北アジアにともに生きる−私達が目ざす未来もそこにあると感じた。
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「在日」の新しい存在意義と著者の生きた時代 20代の私には「在日」という存在に対して、まったく特別な感情がない。というよりも、意識して考えなければならないほど、普通の日本人と区別がつけられない。しかし、この本を読んで、著者をはじめとして「在日」のたどってきた歴史を少し知ることが出来たと思う。冒頭に表現される彼の自分の顔への嫌悪感、また、著者の母が経験したであろう苦難の話しは心を揺さぶられる。これで、つかみはオッケーで、感情的に惹かれた読者はその後の少しむずかしい歴史の話しへ興味を引かれることになるだろう。このように、読み物としての書き方もうまい。
内容的には、著者の過去の思いでとその当時の歴史の脈動が重ねられるような形で勧められている。著者は、「オリエンタリズム」で有名なパレスチナ生まれの米国人学者エドワード・サイードを好んで引用するが、この本の最後に彼は、サイードが「人は川の流れの一つのうねり」に似たようなものだといった文を引用する。歴史の激動に翻弄された彼の人生と、「在日」という不安定な存在をうまく表現した言葉だと思う。彼は最後に「在日」という存在をネガティブに捉えるのではなく、「東北アジアを生きる」という考え方にたって、「在日」という言葉に新しい意味を担わせることによって、とてもポジティブな新しい時代を作る存在として自らを再規程している。これは、「視座をかえることによって新しいものを生み出す」という、著者の創造的な魔法のようなすばらしい運動だと思う。
カンサンジュンさんは、本物の学者である。
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朝生でおなじみの姜尚中さんの自叙伝的な本。在日朝鮮人という人たちの感情を理解するのにこの本をお奨めします。
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姜さんの本『在日』(講談社)を読む。姜さんと言えばテレ朝『朝まで生テレビ』でしょうか?厳しい顔をして 且つニヒルなハンサムでカッコイイがちょっとマイナーすぎて難しすぎる話をされる大学教授というイメージだった。名前から見て 韓国の方なんだろうな・・くらいの印象だった。
この人へのそのイメージがアタシの中で大きく変わったのはNHK『ようこそ先輩』に出演され、母校を訪ねる姜さんを見たときだった。いつもの苦虫を噛みつぶしたような表情(m(__)m)はそこには全くなく、苦労人且つ国際人、そして人間的で笑顔が素敵な姜さんに初めて出会った感じだった。
この本には 在日2世として生まれたその出生、日本名『永野鉄男』を捨て『姜尚中』で生きるのを決心されたこと。ドイツ留学、その後マスコミに顔を出すようになった経緯などが書かれている。
政治的なイロイロは難しすぎてアタシにはよくわからないことも多々あるんだけれど、この人の宿命。心の葛藤がカミング・アウトされているところは理解できた。逆境を乗り越えてきたんだね。人って見かけだけじゃ、わからないことが沢山ある。
日本で暮らす在日朝鮮人の人々。又、外国籍の人々。最近はまだ以前よりはよくなったとは言っても、お気楽日本人が想像できないような暮らし難さ 差別がきっと今でもあるんだろうな。(姜という字ひとつとってもすぐに見つからないし(^^ゞ)日本は他民族には 優しくない国家だからね。
国と国、国籍、民族・・その狭間で翻弄され悩み苦しみ その理不尽さを考え抜いた人。だからこそ、その分野でのスペシャリストになれるんだよね。これからもきっと活躍されるだろうな。哀しいかな、世界からは、まだまだ争いや亀裂はなくなりそうにもないからね。
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姜尚中先生の自伝。姜先生も子供のころは普通の貧しい在日だったことを知りました。自分の祖父母、両親と共通するところが多く、重ね合わせて読みました。
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姜尚中の自伝。小説としてもおもしろく読み応えがある。本人はそういう読み方は望んでいないようですが。
===メモ===
記憶は、時間とともに色あせるのではなく、逆に鮮やかに反芻されていくのだ。(pp.30)
もっとも指紋捺印義務などどうでもいいじゃないか。問題はそんなところにあるんじゃない。かつて「日本人」だった在日韓国・朝鮮人を、敗戦後、今度は自分たちの都合で勝手に「外国人」とみなし、出入国管理と外国人管理法など、様々な法律や行政処分の網の目でがんじがらめにしていることが問題だ。(pp.149)
「在日」は、長い間、日本人ならば形式上は平等にその恩恵に浴することができた社会的なセーフティーネットの張られていない状況の下で生きてきた。(中略) この十年余りの間に、一般の国民が、こうした在日的な状況に向かいつつあるのではないか。その趨勢を極論すれば、日本国民の「在日化」と言えるかもしれない。(pp.179)
アマチュアの目で発言できるのだ。エキスパートだけが発言する権利を持つと考えるのは、おかしい。しかもエキスパートも多くの場合過ちを犯したり、権力に逆らったりすることを抑制する場合が多いのだ。(pp.185)
かつて、新渡戸稲造は「我、太平洋の架け橋にならん」と言った。それはもちろん日米友好のことである。しかし、いっぽうで、玄界灘の架け橋ということは真剣に語られてこなかった。(pp.216)
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著者の叔父が、朝鮮半島で帝国憲兵をしていた、というのに驚く。
どんな目で周囲から見られたのか、想像もつかない。
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【在日】 姜尚中さん
1950年、朝鮮戦争の最中、熊本で在日二世として生まれた
姜尚中さん。
幼少の頃は在日集落で共同生活をし、父の仕事が定まった時
から集落を離れ、日本人の中での生活を始めた。
日本人でもなく、かといって韓国人とも言えぬ
時代が生んだ奇胎とも言える「在日」という存在に
疑問や劣等感を抱いていた。
そんな中、彼に薫陶を与えることになる、父親と
義兄弟の契りを交わした「おじさん」や学生時代の仲間
等の邂逅をへて、「在日」というモノや、東北アジアにおける
「在日」が果たすことが出来るかもしれない役割などについて
考えをるようになり、「在日」の歴史を刻みつけておきたいと
思うようになる。
☆
彼の人生の中で「在日」とは終生、彼に付き添っていくものであり、
永遠の研究テーマのような気がする。
時代時代に起きた大きな出来事、「朝鮮戦争」「湾岸戦争」
「イラク戦争」「朴大統領暗殺」「南北首脳会談」
そういうモノを「在日」という立場から見て、感じて
自分が果たせるかも知れない役割というモノを
常に考えている。。
伝記のような本を読むのは久しぶりでした。
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在日朝鮮人の方々の存在について、うっすらと知ってはいたものの、彼らがどのようなメンタリティを持っているかについて深く考えたことのなかった私にとって、この本に共感するのはかなり難しいことであった。
著者は非常にインテリジェンスの高い人である。
それ故、在日朝鮮人の存在とその意義、そして彼らのメンタリティに、よい意味で強烈にスポットライトを当てることができたものと思う。
ただ、難しすぎるのだ。
私も含めて、日本ほど民族意識の低い人々が暮らしている国もなかろうと思う。そういう中で、本書に著されているような内容を説かれても、なかなか胸に響いてきにくいのが現実ではなかろうか。もちろん、私はそれで良いと主張するものではない。むしろ、「戦後」の政策によって我々日本人が忘れさせられてしまった心を、著者は呼び覚ましてくれたのではないだろうか。
本書の趣旨とは反してしまうかもしれないが、私は本書から、むしろ我々日本人が、諸外国の動静にもよく目を向け、自らのアイデンティティ、あるいは立ち位置を再確認する必要を迫られていると感じた。
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一度だけ、姜先生の授業を受けたことがある。
「超ダンディーで授業も面白いし、しかもグレード甘いんだからとにかく一度はとるべし」と友人に勧められて、一般教養の政治学入門か何かをとった。
政治なんてまるで疎い私でも、70分の授業があっという間に感じるほど、面白くて夢中になってノートをとった記憶がある。
既に「朝まで生テレビ」などに出演されていて、学内ではダントツに人気があったけど、「在日」という言葉は当時の先生からは全くと言っていいほど連想しなかった。
むしろ、そういうカテゴライジングはとっくに超越しているのかと思っていた。
だから発売当時、書店でこの本を見たときちょっと驚いた。
そして今読んでみて、本書の中にもあるように、「時がきた」のだったと素直に理解できる。
テレビでのクールな先生の印象しか持たない人には、ぜひ読んで欲しい。
極めてパーソナルな体験とグローバルな視点が折合わさった展開は、姜先生ならでは。
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「日本はひとつの民族だけが暮らす国ではない」と知っていながらも、自分以外の民族の人の考えに深く触れたのはこれがはじめて。
歴史もいまの社会情勢も、私には見えていない部分がたくさんある、と思い知らされた一冊。
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最近作の「母」を先に読んだ これは文字のかけない母親とのたくさんの会話を元につづられた自伝で 在日という境遇がよく理解できた
この「在日」ではさらに深く心のうちを書いている
紆余曲折を経てようやく今に至り 自分の生き方だけでなく「東北アジア」の将来について考えている
EUが出来たのだから 東北アジアでもいがみ合っている国が集まって同じテーブルで話し合える時代が来るはずだ その時 各国とのパイプ役として在日がはたす役割は大きい・・・と
わたしには東北アジアという意識はなかった 東北アジアに住んでいながらほとんどの日本人はアメリカ・ヨーロッパの方を向いているのではないか
155p ・・・わたしは悶々とし、心の平衡を失いかけていた。信仰への目覚めというより、土門先生への尊敬の思いが、わたしを洗礼に導いたと言える。・・・・・わたしは、焦りと悲しみの中で自分を見失って、今の苦境がずっと未来永劫に続きそうな錯覚に陥っていたのだ。大切なことは、必ず時があるに違いないのだから、その為に準備をし、心の平穏を取り戻すことなのだ。そう思うと、いてついた心が少しずつ氷解していくようだった。
225p ・・・・ これまで在日は、日本の境界の中でしか生きられないという閉塞した状況にあった。「在日」であって、「東北アジアに生きる」ということは、決して断絶ではない。国や地域を越えて輪のようにつながっている、そういう生き方が出来るのではないか。残された人生を、この東北アジアにつながって生きるということのために、それを阻んでいる要因をひとつひとつ克服していく作業に費やしていきたいと願っている。