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「だが、民主カンボジアこそ今もなお世界一完成された高潔な国家だ。」
中国やベトナムとは違い、自分たちだけでアメリカに勝利したと宣言し続けたポルポト。世界一の独立国家であるために、すべてを急ぎすぎた。また、無知こそ正しいとし、インテリ階級を虐殺した。無垢な子どもこそ民主カンボジアにふさわしいと考えた。農業こそ国の根幹で、教育は捨てられた。人も家畜も命の価値は同じだ。
権力を握るまでは後ろに隠れていたポルポト。その病的なまでの猜疑心が、裏切りに対して強固な姿勢を作ったのだろう。権力を握るために協力してきた仲間ですら容赦なく殺害した。中国、北朝鮮からの援助も断り、いつまでも独立を掲げた。鉄の水牛などいらないのだ。
家族の絆を恐れたポルポト派、それでも彼らが最後までよりどころにしていたのが自身の家族たちとは。アジアのヒトラーとも言われるが、写真でみるラフな彼らはそこらにいる好々爺と変わらない。
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なんでこんな杜撰な政権が…という感じなんだけど、米ソ中に南北越の政治の隙間で成立してしまったのかね… この人自体、隣国からの取材が中心で、深掘りできてたりはしないけど、深掘りできるような人はもれなく殺す国だし、これ以上の詳しい文献は出てこないのだろうなあ…
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典型的な共産主義者の末路の話である。教員経験、留学経験もある傍から見た知識人たちがどうやって愚かな共産主義の道を進んでいったか。現代資本主義からの視点ではなく、当時世界中で存在したマルクス主義の観点から読みすすめる必要がある。あとがきにもあるように、普通の人間がひとつの方向に直進し続けたら、いくらでもこのような結果になりうると。まさにその通りでしょう。
当時の世界各国の時代年表や情報がもっと並列されているとわかりやすかった。
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いつかしっかり知りたいと思っていたクメールルージュによるカンボジア統治の歴史。
革命とは名ばかりの、虐殺に次ぐ虐殺の統治。
非常にディープな内容でしたが、いまだ本質的な真相は、既に当事者が亡き今となっては、完全に解明されていない様です。
なぜ、フランス留学までして、帰国後に教員経験のある集団が、政権を握ると同時に、都市の知識層を農村へ強制移動させると同時に、虐殺に追い込んだのか。また、内ゲバによる億級幹部クラスの粛清に次ぐ粛清。一体、何を残したかったのでしょうか。
この集団が共産主義を標榜していた以上、とても共産主義社会を容認する訳にはいきません。
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20世紀を振り返ったとき、最も多くの人間を殺したのは誰か?この問いに対するトップ3は、毛沢東(大躍進政策による失敗と文化大革命によって)、スターリン(強制収容所によって)、ヒトラー(アウシュビッツ等における民族浄化において)であるが、次点として名が上がるのが、カンボジアにおける大虐殺を引き起こしたポル・ポトである。
殺害されたとされる人数は推計で100-150万人とされ、トップ3に比べれば桁が1つ落ちるわけだが、重要なのは自国の人口における割合である。当時のカンボジアの人口は800万人足らずだということを考えれば、殺されたのは約2割弱という恐ろしい割合に達する。本書は読売新聞の東南アジア地域駐在員として活躍した著者が、虐殺と破壊の4年間とその前後の歴史を通説的にまとめた一冊である。
ポル・ポトらが率いた社会運動クメール・ルージュがここまでの大惨劇を招いた理由は多岐に渡る。知識というものを極めて軽視するその社会観、健全な社会援助であっても拒否する狂気的なまでの独立心、中国・ベトナム・アメリカらの関係国の対立における間隙の利用、など。ただし、それでも、やはりなぜこのような惨劇が起こったのか、という謎は残るように見える。それは、ポル・ポトという独裁者が、他の独裁者とは異なり、表舞台には全く登場せず、影武者のような独裁を好んだ、という点とも関係があるのかもしれないし、ないのかもしれない。
とっかかりとしてまず虐殺の歴史を知るための一冊であり、もう少し自己の中で理解をするには深堀りが必要、という印象。
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まったく気の重くなる内容の本です。
しかし、45年くらい前に実際にあった出来事をしっかり事実認識しておくことは、とても重要な事でしょう。こんな事が起きてしまった原因、因果関係、責任をきっちりと認識し、多くの人々が共有すること、が大切でしょう。
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ポル・ポト革命は理念、人権不在の革命といわれ、ベトナム戦争が終結し米軍撤退後の混乱の中で起こった政治動乱と虐殺である。
75年4月から79年1月までの約四年間にわたり、カンボジア人口800万のうち150万が死亡した。簡単な年表を書いておく。
50年代ポル・ポト留学とシアヌーク翼賛体制(52-70)
60年代ベトナム戦争激化、共産主義弾圧
70-75年ロンノル政権独裁
75-79年ポル・ポト独裁
79年民主化とポル・ポト残党の潜伏難民キャンプ開始
87年内戦集結
98年4月ポル・ポト死去(死因は心臓発作か服毒、翌日には火葬)
キーワードは、
ベトナム中国米との関係、シャム、ベトナムによる侵略の過去、日帝時代、五十万トン爆撃、少数民族、華僑虐殺
こんなところ。
以下のメモはポル・ポト独裁に至るまでの前史について覚え書き。ベトナム戦争についてよくわかっていなかったのでこんなメモになってしまった。肝心のポル・ポト独裁については要再読。
ポル・ポトらの留学と共産主義への傾倒、シアヌーク独裁と共産主義弾圧により地下活動へ、ロンノルのクーデタ、ベトナム軍のカンボジア侵入と爆撃、内戦集結、ポルポト独裁と虐殺、失脚と最期
○留学と共産主義の出会い
サル(ポル・ポト)はじめ、のちの党幹部は裕福な家の出ばかり。ベトナムでフランスとのインドシナ戦争が始まるが、カンボジアは立憲民主制を許され、亡命先から帰国したシソワット家は民主党を立ち上げ選挙活動を始めた。サルはこれを手伝い始め政治活動をスタート。技術専門学校で学んだ後、三年間フランスに留学。勉強を全くしないので奨学金をうちきられている。スターリン主義の共産党へ傾倒し、フランス共産党にはいる。
51年、ベトナムでつくられたインドシナ共産党を前身として、カンボジアにクメール人民革命党が結成される(サルも帰国後入党)。規約はベトナム語からの翻訳で党員もベトナム人のほうが多かった。(のちポルポト時代には共産党史から削除される)
留学中の52年、カンボジアで国王シアヌークが議会を解散、独裁を確立すると、サルは「王政か民主主義か」論文を発表し、革命を礼賛する。
54年インドシナ戦争が休戦し、シアヌークは独立を獲得。選挙を前に人民革命党も合法組織・人民派を発足させるが、シアヌークは翼賛政治組織サンクムを結成し、他の政党を弾圧。選挙はサンクムの一党独裁となる。のち民主党や人民派も解散に追い込まれ60年代後半まで翼賛体制が続く。
その間サルは表向き仏文学教師として働きながら、党内で地位を固める。その要因として、
1農村部の活動に対して都市部での活動が優位にはたらいた
2ジュネーブ協定に基づく公的役割を与えられたものは秘密政党活動が難しかった
3地方を担当していたシウヘンが失態を重ねて、都市委員会の地位を向上させた(シウヘンはのちロンノルと通じていたとして粛清される)
4早めに帰国して他の留学生より優位にたった
○党内序列とシアヌークによる弾圧
60年の党大会(鉄道駅で行われた21人の秘密会議。51年以来第二回だが、のち党史では��一回)で南ベトナム解放戦線に共鳴しカンボジア労働党と改名。サルは序列第三位、イエンサリ、ヌオンチェアも幹部となる。62年、一位のサムートが失踪(サルの暗殺か不明)、63年党大会でついにサルは序列一位となる。
63年高校生のデモをきっかけに、シアヌークは左翼の扇動だと誤認し締付けを強化、サル、サリらは東部ベトナム国境付近の森に潜伏開始、
65年北爆が始まりカンボジアは中立から左寄りへと旋回する。中国と不可侵条約をむすび、ベトナム共産軍のカンボジア内駐留移動を許可、米国と断交、銀行の国有化を発表する。サルらはベトナムとの関係にずれを感じ始める。
65年サルはケオメアスとホーチミンルートを歩いてハノイに半年滞在、ついで中国、北朝鮮に旅行。中国では鄧小平、情報機関のボス康生と接触。計画経済、文革や毛沢東崇拝、など影響をうける。帰国後党名をカンボジア共産党と改名、本拠地を北東辺境コンポントム州に移動。
ベトナム軍はカンボジアにはいりこみ、闇で米を買い付けるやうになる。するとロンノルは政府が強制的に安く買い集めるキャンペーンをはじめ、67年これに反発した農民200人が反乱。シアヌークはまたしても反乱のうしろに共産主義者がいると誤認し、締付けを強化。69年には国内のベトナム共産軍基地への米軍秘密爆撃を黙認する。左派の支持は完全になくなり、また一方で南ベトナム解放戦線の臨時政府を承認するなど政策が一貫せず、ロンノルら右派も幻滅させる。経済は低下を続ける。
○ロンノルのクーデタ成功、シアヌークとの共闘
70年春シアヌークがフランス休暇中、ロンノル首相の無血クーデタ成功。これは米国情報機関の支援をうけたシソワット王家出身のシリクマタク副首相が共謀したもの。シアヌークは周恩来首相の支援でロンノル打倒戦線をよびかけ、放逐されていた共産主義者キューサムファンら(三人の亡霊)がこれに共鳴し、これに北ベトナム、ラオス愛国戦線が協力し、北京に臨時政府樹立。クメールルージュとシアヌークの共闘がはじまり、この内戦は5年続く。
ロンノルは共和国宣言するも独断専行を増し、ベトナム系住民の虐殺や強制収容が行われる。占い師に頼って軍事作戦が左右された。71年脳卒中でたおれ右半身不自由となる。
この頃ニクソンはカンボジアに逃げ込んだ北ベトナム解放軍を追ってサイゴン政府軍4万と米軍3万の進行作戦を敢行。米軍は一ヶ月で成果を喧伝し撤退するも、政府軍は2年近く残った。解放軍はカンボジア全土に逃げ、政府軍は略奪など行い規律の低さを露呈させベトナムへの反感を煽る。
ロンノル政府はベトナム共産軍のまえに圧倒され、幹線道路を制圧され、メコン川輸送も遮断され、首都は大混乱に陥る。71年には国内の六割が解放勢力支配下に入った。
一方のロンノル打倒戦線は共産党の真の実力者サルを隠し続けた。表にでてきたのはキューサムファン、フーユオン、フーニムら三人で、シアヌーク時代若者に人気があった。彼らは共産党の序列で平の委員にすぎないが、北東部コンポントムの森の司令部から指示をうけていた。サルは解放区の知識人91人の声明の中に初めて名前を表すが人々の注意を引かなかず、シアヌークが解放区を訪問し歓待をうけた時も、先導したサムファンら三人の亡霊こそ最高指���者と信じていた。
72年後半に入ると、ベトナム戦争は和平交渉路線がではじめ、ベトナム共産軍もカンボジア解放勢力に対して懐柔をはじめ、ロンノルとの停戦を打診し始める。解放勢力はこれを拒否し、ベトナム帰りの古い革命家たちは粛清され、一方で少年兵を組織し始める。解放区では強制移住、仏教徒弾圧がおきはじめる。
ロンノル側の頼りは米軍の爆撃だった。69から73年までの間に54万トン、うち半分は最後の半年に集中。解放軍死者は1万人とされる。爆撃の問題は
1村の破壊。誤爆も多く、これにより村人が解放勢力に加った。
2爆撃を逃れた農民が都市に流入、200万以上。
3爆撃を生き延びたことで、解放軍の士気を高めた。
4爆撃のせいで、強硬派が主流となり穏健派の地位が弱まった。爆撃がなければ強硬派の暴走を防げたかも
73年キッシンジャー大統領補佐官が北京でシアヌークと会談し政権復帰を認める譲歩案を提案するが、シアヌークはもう遅い、と回答。11月、北京の臨時政府がカンボジア国内に移される。ロンノルは和平提案をだしたが拒否される。インフレが300%になり各地で暴動。徴兵拒否もあいまって、暴動の主体は学生だった。75年初頭解放軍は3万を動員して最終攻撃に入り、水路空路を制圧、4月ロンノルがハワイに亡命し内戦集結。
解放軍は首都に入城すると、ただちに住民300万の強制移住にとりかかる。
○ポルポトと統治時代
戦略として表に出ない、移動を続ける、
鎖国、北朝鮮に習った国民の分断(党幹部、きかんみん、新人民)とクロマー、でたらめ農本主義と武器の購入、教育・家族・宗教(9割仏教徒)の否定、拷問施設、子供兵士と子供医師
○ポルポトの失脚
77年12月ベトナムの戦車部隊が東部地区にあっさりせめこむと、幹部への粛清が激化、古参ソーピムの自殺。東部ベトナム国境警備をつとめたヘンサムリン、フンセンらがポルポト打倒をかかげベトナムの支援をとりつける。カンボジアが大晦日に国交断絶発表。年明けからベトナムによる記者を招いたキャンペーンがはじまり、ポルポト軍の虐殺を公表。平和的解決を訴えるがカンボジアは拒否、中国が仲立ちを拒否するとホーチミン市で弾圧がはじまり三十万の華僑が脱出。78年12月ベトナム軍15万の大攻撃がはじまり、北のラオスからも侵攻、10日間で行政地区まで完全占拠79年1月7日プノンペン攻略。
シアヌークやポルポトは飛行機、ヘリで脱出し、幹部、役人は、列車で逃亡。ツールスレン所長ドッチは歩いて消えた。再び西部の森のなかへ、
79年1月11カンボジア人民共和国樹立、ヘンサムリン議長を中心に、ベトナム共産主義らも入閣。10から20万のベトナム軍が駐留。信仰、教育自由など民主化を宣言。一方ポルポト派の難民キャンプはあちこちに100万規模つくられ、巨大スラムの様。wfpの食料援助を頼り、相変わらず虐殺も行われた(79年後半にはやんだ)。一方対外PRのため記者を招いた会見をひらく。8月にはシアヌーク、ポルポト、ソンサンによる三派連合政府樹立がきまる。同時に、80年に入ると、ポルポトは再び姿を消し、肩書を小さくしていき、キューサムファンに首相をゆずる。
87年三派のシアヌーク大統領とフンセンが会談、翌年、翌々年三派とプノンペン政権の非公式協議。��いで17カ国によるパリ和平会議、東京会議が開かれ内戦集結。
ベルリン崩壊2ヶ月前ベトナムが撤兵完了。91年ベトナムとの国交正常化。ポルポト派は4派連合を要求しつづけ、武装解除拒否、総選挙ボイコットしたが、投降者がふえていった。97年帰順推進派のソンセンを一族14人ごと皆殺しにすると、タモク元参謀総長が寝返ってポルポトを逮捕。ポル・ポトは即席人民裁判で終身刑を宣告され軟禁されていたところ、98年4月急死。
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読売新聞の東南アジア担当の記者による、カンボジアのポル・ポト政権による「革命」実践についての歴史書。1930年10月のコミンテルン支部インドシナ共産党結成から2004年3月のキュー・サムファン(ポル・ポト派のマルクス主義経済学者)の自伝刊行についてまで、隣国でのベトナム戦争の進展と中ソ対立に揺れる1960年代以降のカンボジアで、如何にポル・ポト派が革命に勝利し、そして失脚し、失脚後の革命家達がどのような余生を送ったのかを描き出している。学者ではなくジャーナリストによる作品だが、著者が保守反動の応援団でも進歩的知識人でもないという立場であることもあり、インドシナ半島の共産主義運動についてほとんど無知であった私にも読みやすい本だった。
著者はポル・ポト派の執政中の犠牲者数を、「結局直接の犠牲者数は一五〇万人前後と見るのが妥当かもしれない。政権にあった間、毎日約一一〇〇人ずつを死に追いやっていたことになる。」(本書155頁より引用)。ポル・ポト派の暴虐については多くの書物で述べられているので、ここでは簡単に触れるにとどめるが、宗教も家族も否定し、教育も否定し、信じられるのは革命前の旧社会を知らない子供たちだけというポル・ポト派の内政面での基本方針と、アメリカ合衆国やベトナム・ソ連の侵略・干渉を恐れ、些細なことでもスパイのレッテルを貼って粛清を繰り返し、友好国である中国や朝鮮や国際社会からの人道援助でさえカンボジア民族の自主独立路線を理由に断るという、強烈なナショナリズムと外国への猜疑心に駆られた外交方針、そして「革命指導部に法律や行政を学んだ人間がほとんど一人もいなかった」(本書87頁)ことから来る手続きの軽視、そして農業や経済政策に無知な年のマルクス主義知識人による観念的な経済政策。加えて、小国カンボジアの自主独立路線を追求する中で生じた強すぎる民族主義により、非カンボジア(クメール)民族である少数民族のベトナム人や宗教的少数派であるイスラーム教徒のチャム族への民族浄化と迫害(本書137-139頁)。これらが複合的に影響し合った結果、世界の革命史上でも稀にみる、専ら破壊と虐殺だらけで何も産み出さなかった革命政権になってしまったということらしい(本書64-76頁、86-97頁、154-160頁)。そういえばレーニンもフィデル・カストロもネルソン・マンデラも弁護士であった。ポル・ポトやイエン・サリが法律を学んでいたら、もう少しカンボジア革命も違う展開があったのだろうか。
著者が強調するのは、ポル・ポト派の出身階級の高さと、一見農本主義的でありながらも農民から遊離した観念的な姿である。たとえばポル・ポトは富農の出身で、姉は国王の夫人の一人となり、兄も宮廷に関わる一家で、ポル・ポト自身はカトリック系の学校で宗主国フランスの言葉であるフランス語教育を受けていた(本書17頁)。フー・ニム、フー・ユオンといった貧農出身の幹部も存在したが、粛清されてしまったとのこと(本書18頁)。
“ 「二〇〇〇年に及ぶ歴史の中で本当に初めて、底辺の人民が国家権力を手中にした。」
一九七五年四月に誕生したポル・ポト政権の歴史的意義について、��にポル・ポト自身が誇り高くもこう強調した。だが、自分たちは底辺どころではない。イエン・サリをはじめ当時のカンボジアの最高学府、シソワット高校の卒業生が目立ち、ポル・ポトを筆頭に元フランス留学生がそろっていた。さらに、元教員だらけだった(表1)。
後述するように、ポル・ポト革命は、観念的で現実から遊離した革命だった。超農本主義のようで、農業や農民の実情を無視した生活や生産を押しつけた。農民との一体感が希薄だった。それは指導者たちのこうした経歴が影響しているのは間違いない。”(本書18頁より引用)
本書には、これさえなければポル・ポト派の誕生を未然に防げたかもしれない転換点として、二つの事件が挙げられている。一つは1955年のシアヌーク国王による選挙干渉を背景にした自らの与党の勝利(本書25頁)。もう一つは、1970年のCIAが背後にいた親米反共主義者のロン・ノル将軍によるクーデター/共和制革命(本書38頁)。前者でシアヌーク国王の個人統治が確立したことで複数政党制議会制民主主義が定着しなかったことが、反体制派を地下に追いやることになり、後者のクーデターでそのようなシアヌーク国王の翼賛体制が崩壊したことにより、シアヌークとポル・ポト派が手を結ぶ前提が出来上がり、シアヌーク国王が付いているという安心感から、ロン・ノル将軍とその背後にいてカンボジアに空爆を加えるアメリカ軍を支持しないカンボジアの農民達をポル・ポト派へと導くことになった(本書42-45頁)。著者はこの時期の1973年8月~9月ごろにカンボジアを取材に訪れ、ポル・ポト派の「解放区」に潜入した際に、ポル・ポト派の大隊長だったサルーン司令官の機転で命を救われたことについて書いている(本書49-58頁)。著者がこのエピソードで強調する通り、この時期には恐らく本当に革命の理想――小国カンボジアの民族解放と親米傀儡政権打倒、ベトナムに影響力の打破――に導かれてポル・ポト派に参じた青年が多く存在したのだろう。ただ、ポル・ポト政権崩壊後の1981年に著者がプノンペンを訪れた際に、著者を助けたサルーン司令官が粛清されたことを知ったとのことである(本書81頁)。
“ 八一年、ポル・ポト政権崩壊後にプノンペンを再訪した時、サルーンの噂を耳にした。粛清されたということだった。私を処刑しなかったほど優しく話が分かる人間だったから、いずれ虐殺と粛清のポル・ポト革命からははじき出される運命だったに違いない。たった一日のつき合いだったが、少なくともこの青年司令官は、住民と信頼の絆で結ばれていると思った。この内戦期の「解放勢力」には、おそらく彼がそうだったように、真の独立と民衆の幸福の両方を純粋に希求していた地方幹部も少なくなかったのだろう。私にとってこの「解放区」行きは、政府側と「解放勢力」側の間の奇妙な相互交流、「解放」側の自身、強い民族独立心、ベトナム共産勢力とのずれ、地方司令官の人間味、シアヌーク地盤完全沈下、米軍爆撃の傷などいろいろなことを駆け足で知る旅となった。”(本書58-59頁より引用)
ポル・ポト政権が崩壊した後に、アメリカ合衆国、中国、タイの三国が、東南アジアにおけるベトナムとソ連の勢力拡大の防波堤としてポル・ポト派を支援し始めると、虐殺を止めた後のポル・ポト派の軍規の高さはタイ軍の司令官も認めるほどになったらしい(本書166頁)。著者はこのことについて、
“ 個人が組織に完全に従属する全体主義の「規律の高さ」は、もちろん大いに問題ありだが、それと「愛国心の強さ」は、他の反共ゲリラ各派のだらしなさを見ている者には、一種の爽快感すら感じさせる。ポル・ポト派の美徳を無理やり何か探すとなると、これぐらいだろう。”(本書166-167頁より引用)
と述べているが、ポル・ポトという最高指導者さえ抱かなければ、きっと普通の社会でも大いにやっていけるモラルの高いカンボジアの人々が、インドシナの戦乱の中で一番自らの望みを叶えてくれそうだと思って参じたのがポル・ポト派だったのだろう。そう考えると、そのような人間を使い捨てにして全く何も有益な点もない虐殺統治を行わせた、ポル・ポトという人間の愚劣さには怒りを禁じえない。
「外国人の研究者たちがポル・ポト=サロト・サルだと最終確認できたのは、やっと翌七七年九月である」(本書99頁より引用)とあるように、ポル・ポトはシアヌーク国王やカンボジアの代表的な左翼知識人であるキュー・サムファンの陰に隠れて表に出てきたがらない性格であった。「自分は身を隠したまま、すべての相手を見つめる。いわば片面素通しのマジック・ミラーの裏にいるような状態は、ポル・ポトがもっとも好むものだった。」(本書100頁より引用)。「ポル・ポトは臆病な人間だったのだろう。自分と革命を敵から守るという脅迫観念にとりつかれていたら、とにかく秘密が一番だ。」(本書108頁より引用)
“ ポル・ポトは一般国民に対しては、最後までかくれんぼを続けた。七八年後半のポル・ポト式「開放」で、国内でも学校教育などが部分的に再開され、彼の肖像写真が村の共同体の食堂に掲げられたりするようになったと伝えられている。ツールスレン監獄で彫像が作られもした。ポル・ポト自身が自分の露出を命令した、という記録は見つからない。外国や下からの助言を受け入れたのかもしれない。だが、その程度で時間切れとなった。国中に何千もの銅像や記念碑を建て、個人崇拝に走る独裁者もいるが、ポル・ポトはそうはならなかった。どだい、マジック・ミラーの反対側で、(相手からは)見つめられるが(こちらからは見つめられない)状態は、ポル・ポトの性向には合わなかった。”(本書109-110頁より引用)
個人崇拝を問題視する意見が多いことを承知の上で言うが、スターリンや毛沢東や金日成やホー・チミンといったよその共産圏の革命指導者が人民の前に自らの姿を見せ続けたことを考えるに、ポル・ポトのような自らが表に出たがらない人間は革命家として失格なのかもしれないと、本書を読んで感じた次第である。
1978年12月25日に中ソ対立の文脈の中で親ソ連派のベトナムが親中国派のカンボジアに侵攻したことにより、1979年1月7日にプノンペンは陥落し、ポル・ポト派は下野してジャングルに逃れ、親ソ親越のヘン・サムリン政権が成立した(本書150-154頁、162頁)。結果的にはこのベトナムのカンボジア侵略により、多くのカンボジアの人々の生命が助かっていることには何とも言えないとしか言いようがない。また、それまでポル・ポト派を持て余しながらも後見していた中国は、このベトナムの侵略を契機にベトナムを「懲罰」すべく1979年2月17日に軍事侵攻しているが、ベトナムに返り討ちにされている(本書162頁)。中国はシアヌーク王にポル・ポト派との連合を「助言」したり(本書77-78頁)ポル・ポトに殺されかねなったシアヌーク王を脱出させたり(86頁)、ユニセフやWFP(世界食糧計画)からの人道援助さえ自主独立路線の下で断るカンボジアを援助したり(95頁)と、ポル・ポト派には手を焼いていたが、最後の最後でベトナムを「懲罰」するという形で、中国のインドシナ外交の破綻を暴露してしまった感がある。
その後、ソ連と冷戦構造の崩壊の中で、ポル・ポト派を支えていたアメリカ合衆国もタイも中国も、ポル・ポト派には関心を寄せなくなり、ポル・ポト自身は1998年4月15日に死去した。1998年12月はナンバー2のヌオン・チェアとキュー・サムファンが政府軍に投降している(本書182頁)。
本書では、政府軍に帰順した後のポル・ポト派の革命家達の姿が描かれており、あれだけ家族と宗教(上座部佛教)を敵視し、暴力的にその解体を試みていた革命家たちが、晩年は家族に対しては自らの行った大虐殺を詫び、家族や親族の成佛を願って佛塔まで建てるに至ったことについて述べられている(本書198-213頁)。著者は本書を以下のように締めくくっている。
“ もちろん、政権を握っている時と失った後の違いは大きい。だが、革命の確信犯と思われた彼らが、結局「家族」も「宗教」も乗り越えられなかった。彼らの革命は「家族」よりも「宗教」よりも弱かった。「『革命組織』一神教」は仏教に負けた。
最後にもう一度、ポル・ポト革命とは何だったのだ、と思わずにはいられない。”(本書213頁より引用)
本書からカンボジアを荒廃させたポル・ポト革命から学べることがあるとすれば、人民から姿を隠そうとする指導者を決して信用してはいけないということと、家族も宗教も理不尽で不合理だが、だからといって政治によって消滅させることはできないということ、そして、革命家は法律を学ばなければならない、ということになるだろうか。久々に読んでて気が重くなる読書体験だった。
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カンボジアを訪れた時、とにかく若い人の国だという印象を受けた。他の国ならある程度歳のいった人が出てきそうな管理職的立場の人さえも若い。とにかく、老人と呼べるような人が少ない。それが一定以上の年齢層の大多数がクメール・ルージュに命を奪われたせいだと気づくまで、少し時間がかかった。
首謀者であるポル・ポトはびっくりするほど普通の男だ。誰よりも切れる頭脳とか、見た目の華やかさとか、一切ない。自分でもその自覚があったからあまり政権の顔として表に出ず、あくまで影から物事を動かしていたのだろう。
しかし、そういう普通の人間が歴史上に残るような大虐殺をやってのけたことこそ、カンボジアが特殊だったのではなく「どこの国でも起こりうる」と思わされ、恐ろしく感じる。実際、クメール・ルージュが政権を握ることになるまでには様々な偶然があった。何か一つでも欠けていたらあのような惨事は起こらなかったかもしれない。
もちろんよく言われるように、歴史にタラレバはないのだが。
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ポル・ポト政権が行った事について学びたくてこちらの本を手に取る。
1970年代に時の権力者が独裁的な政治を行なった、という簡単な話ではなく、1930年代の抗仏民族運動・インドシナ共産党の興り・米国など資本主義国への反発・カンボジア内戦など当時の複雑な情勢のなか、いくつかの偶然が重なり起こったものだった。
カンボジアがたどった複雑な歴史、隣国との関係、仏教・イスラム教の存在が思想に影響を及ぼすことなど、当時の事を幅広く知ることができた。
そして今、中国共産党がカンボジアを大規模支援し一帯一路の推進と中国化を推し進めている。
首相フン・ソンはポル・ポト政権打倒後から現在もその座についているカンボジアのいく先はどうなるのか。
こんな稚拙な言葉でしか感想を書けない自分を恥じる...