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紙の本
生きることも、殺すことも理由なんてない
2006/08/02 21:20
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:永遠のかけら - この投稿者のレビュー一覧を見る
カンナミは、戦闘機に乗り、敵に遭遇すれば相手を殺す。
理由なんてない。誰かが憎いわけでも、誰かを守りたいわけでも。
それが仕事だから。殺すために存在しているキル・ドレだから…。
誰かに撃ち落されるその日まで、戦うだけ。
カンナミも、草薙水素も…。
淡々と描かれるカンナミの日常と感情と草薙水素の無言の憤りが
透明で、すごく痛々しい。
理由のないことの身軽さと、理由のないことの空しさは、
紙一重のような気がする。
章ごとに挟まれるサリンジャーの引用も印象的だった。
紙の本
気持ちよく流れていく、透明で冷たく乾いた空気。音楽や映像など他ジャンルとの相性が良さそうな小説だけに、押井守監督によるアニメ化に大いに期待。
2008/07/27 21:50
3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
うちの愚息がお世話になった少年サッカーのチームには多士済々、ファンキーなチャラ男系から理論派のインテリ系までさまざまなタイプのコーチがいた。そのなかに、武道の指導者を彷彿させる、男気あふれるびしっとした硬派な人がいて、たまたまそのコーチが試合監督をする1つ上の学年チームにヘタっぴの息子が合流したとき、彼が発する指示でとても印象に残った言葉があったそうだ。
――感じろよ!
「感性を働かせなさい」という指導ではあるのだが、感性ではなく頭を使わないと、この指示の意図は十分に汲み取れない。
サッカーの試合であるから、攻撃の局面で言われたならば、「どのスペースに走り込めばチャンスが作れるか」「相手のどの裏をかいてパスを出せば、点をたたき出せるか」を感じ取ることであろうし、守備の局面で言われたならば、「どの選手がゴール前に飛び出そうとしているのか」「どこで相手の攻撃の流れをぶった切らなくてはならないか」を感じ取ることであろう。
もしかすると、「もたもたやっているお前たちを見てイライラしている自分やこうるさい保護者たちの身にもなってみろ」という意味なのではあるまいね。
それはそれとして、この不思議な小説を読んでいると、視界の悪い霧のなか、どこがゴールか分からないまま、やみくもにドリブルで走り続けていて、「感じろよ!」を連発されている気分になるのであった。いや、それは決して気分の悪い経験ではなく、かといって逆に爽快かと言えば、そうでもなく、やはり不思議としか表現のしようがない。
この小説には、コクトー『恐るべき子供たち』ゴールディング『蝿の王』ヒューズ『ジャマイカの烈風』、そしてカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』などの「モンスター系」子どもたちの文学の香りをかぎつけることができる。
そういった小説に限らず、一個の作品として立つものは、ごちゃごちゃした言い訳めいた表現で自らの正当性を説明するような真似はしない。作者が構築した人間観・世界観が「感じろよ!」とばかりに系を閉じてしまっていても、「それで上等じゃねぇか」と思える者だけが作品鑑賞者としてついて行けば良いだけの話なのである。
とある時代のとある場所に、これこれこういう設定の人たちが暮していて――『スカイ・クロラ』シリーズはどうもそのような親切で分かりやすい説明を省いたところに展開するシューティング・ゲームじみた物語だ。解釈の多義が許される「ゆるい」とも言える設定に、シリーズ累計1000万部と言われるファンがついていることを、何百万通りの「感じ方」があったとして素直に受け止めて良いのかどうかは疑問である。
なぜならば、私には「何かいいんじゃない」という感じはあったものの、そう受け止めている自分の感覚に、どうも自信が持てないまま読み終わり、そして読後もその状態がつづいているからだ。
感じはするさ。
戦闘機で人を殺すのが仕事だという主人公が、舞台となる基地に赴任してくる前の記憶がなかったり、なぞめいた女性上司と不器用なコミュニケーションを交わしたり、戦闘機乗りたちが死んでいっても、それが淡白に語られたり、終盤で、そういう状況を納得させる設定がようやくにつまびらかにされたりするのだから……。
つまり、物語の解体までは行われておらず、破綻だってなく(でも、生まれて20年ほどにしかならないキルドレが子どもを生んでいるというような設定には、キルドレにどういう生物的特徴を与えているのかと思わず考え込んでしまった)、そういう意味では、小説としての体裁は十分に取られているのだから……。
けれども、透明で冷たく乾いた空気を肌に感じ取っても、情を交わし合えないようなキャラクターたちの孤独感めいたものを理解しても、彼らが口にする冴えた言葉のいくつかにはっとさせられても、そうした部分部分が一体となって、何か大きなものを気(け)取らせようとする感じはないんだな。
「上等じゃねぇか」と言わせしめるためには「核」がほしい。その核は小説解体のような「実験」、つまり大いなるたくらみであろうと構わない。
ところが、どうもこの『スカイ・クロラ』は環境音楽的で、気持ちよく流れていくだけだ。読者に「読める」「読めない」という差異をもたらさないことが、小説的なるものへの挑戦なのかもしれないとも推測するが……。
流れているだけ。だからこそ音楽や映像との相性がとても良いのだろうと想像がつく。
あるいは、そういった他ジャンルとの融合で完成されていくスタイルというものもまた、小説的なるものへの挑戦なのだとも推測できなくはない。
とまあ、五里霧中の状態のまま、いろいろ考えてはみたけれども、このシリーズ1巻めでは「感じること」だけが求められていて、5巻が完結したとき、もしくは番外篇のなかで、霧がさあーっと晴れてきて、突如私のような読者が「読める人」の仲間入りを果たすことができるようになるのかもしれないという期待もある。霧の向こうに、「核」と呼ぶべき、大きなものが鎮座している可能性だってある。
「なかなか面白いよ」という中坊の息子の続篇の感想を聞きながら、機会あれば続きも読んでみることになるかもしれない。
それにしても、キルドレは「キリシタン」みたいなもので、childrenを和風に発音しながら、killを掛けた造語なのだろうか。そんなことも気になるし、恒久的な平和が実現した世界なんて、絶対にあり得ない設定がけろっとされているのが面白いし、イケてるカンナミくんのことも、もうちっと知りたい気もするし、ね。