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毎日のようにニュースで扱われている犯罪に関する「悪」の本だと思ってネットで買ったけどそうではなかった。カントの倫理学を読み解きながらもっと身近な悪を取り扱っている本だった。とにかく難しい。
・適法的行為が道徳的に善い行為というわけではない
・定言的命法によって起きる行動が道徳的に善い行為である。つまり自己愛による適法的行為は道徳的行為ではない。本人もこれを自覚できないことが多い。
・道徳的な人間とは答えが出る出ない関係なく自分で考える人である
この3点は少しわかった気がする。哲学と無縁の生活を送ってきた自分にはとにかく難しかった。
また、本編とは関係ないが夏目漱石の「こころ」の先生と妻の関係に関する解釈は眼からウロコだった。
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冒頭からあまりにおもしろくて一気読みした1冊。
うわこれ私もずっと思ってた嬉しい…!と感動しながら読み進めてくといきなり身体をものすごい勢いでえぐられる感覚が。自分が中途半端な人間なのを突きつけられるのだ。天秤でいえばただゆらゆらと揺れてる感じ。だからこの際どっちにもズドンズドンと振り切ってやろうと思った。それで中庸を保ちたい
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すべての人間は、道徳的には悪にならざるを得ない。
善人ほど悪である…!
どんなに善であろうと欲しても、動機においても行為においても、人は義とされない。
誠実であろうとすればするほど、人は自分自身に絶望する。
しかし、人はどこまでも道徳法則の尊敬に従って行為しなければならない格率が定められている限り、履行不可能な義務が人間には科せられている!!
人間の持つ原罪を哲学の点から暴き出している。
やはり、自分のエゴイズムを穴が空くほど見つめつつ、他人や善人の持つエゴイズムやごまかしを徹底的に追及する中島氏の原点はやはり、カントにある。
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私はよく、いい人そうと言われる。穿った見方をするといい人というのは、どうでもいい人とも聞こえる。さらに、~そうということは表面的には少なくともそう感じるということだ。ただ、多くの人にそう言われるので、気にしないわけにもいかない。私自身自分のことはいい人とはそれほど思わない。わがままで利己的だし、他人を憎いともよく感じる。昔はそうではなかったのかもしれないが、社会に出て世の中にすれていくにつれ、どうも自分が悪い人間になっているような気がする、むしろ自分はもともと悪い人間だったのではないかと思い、本書を手に取った。
冒頭から筆者の弁は痛快だ。「私は自分のうちに膨大な悪が渦巻いているのを知っているのだ」「悪にまつわる私の唯一の関心は、善人であることを自認している人の心に住まう悪である」どきっとさせられる言葉だ。誰の心のうちにも悪があると看破している。これを読んで思い出したのはカラマーゾフの兄弟のアリョーシャの言葉だ。正確には忘れたが、世間的に善人と思われているアリョーシャが、悪人と呼ばれている人達と自分は同じだと述べるシーンがある。そこで、同じ階段を上っているというようなことを言っていた。位置の高い低いはあるが、同じなのだと。
誰の心の中にも悪が存在するということがわかって、どこか安心した部分がある。これで心置きなく自分と向き合える。悪いことが存在していると認めたうえで、それとどう付き合っていくかが人間としての条件という気がする。一線を越えてしまった人達についての言及が本書であるが、そこで悪が露わになると筆者は言っている。だが、日常にはもっと小さな悪もあるし、表に出さずとも心の中に潜む悪もある。それを見つめるということが自分を理解するということだ。
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カント倫理学における「道徳的善」を裏側から抉りだす傑作。「根本悪と最高善」に引きちぎられる人間の姿を綴ったくだりは荘厳な宗教画のような迫力とドラマを感じた。
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ところどころ解釈が難しいところがあったけど大筋は理解できたし、予てから自分が考えていた事と重なる部分が多々あった。一切の誤魔化しを許さずに「自己愛」を摘発する姿勢には震えるほど共感できる。
道徳的な人の例の中に私の大好きな「彼岸過迄」の市蔵君が挙げられてたのが嬉しかった
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カント倫理学における「悪」とは何かを解説する内容.分かりやすく説明するというコンセプトではないようで私には理解しきらないところがちらほらあった.
実態は自己愛であるにも関わらず,それを自己愛でないものであるかのように振る舞う行為を悪と見なすということが,論証の対象ではなく公理として存在しており,よってそれについての裏付けを求めだすと,話が繋がらなくなる.
殺人者から友人を匿う話に代表されるように,教条主義的に,命法の指すところに従おうとすることが,人としてよりよいあり方に繋がるとは必ずしも言えないが,それぞれの行為が何かしらの形で,道徳法則からの義務に反する可能性があることに頭を巡らせ,また何かしらの義務を侵犯せざるを得ない選択の場面で居直らないというのは,道徳を考える上で留意すべきことかもしれない.
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『道徳的センスは常に善いことしようと身構えることでもなく、自己批判に余念がないことでもなく、善とは何か悪とは何かを問い割り切ろうとしないこと』
『道徳的に良い行為はなにか誰もが知っている。でも、それは道徳的に良い行為へと向かう指針を与えられるだけで、行為を実現できる訳では無い。』
『道徳的人間とは、常に善い行為をする人間のことではない。自分の信念を貫くことが他人を不幸にするという構造のただ中で、信念をたやすくも捨てることも出来ず、とはいえ自分の信念ゆえに、他人の不幸のうちに見捨てることも出来ずに、迷い続け、揺らぎ続ける者のことである。』
哲学初心者としては難しい内容でもあった(カントのこともよく知らない)が、哲学の面白さにも触れることが出来る本。
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タイトルだけを見ると、なんだか犯罪心理分析のような本かと思ったが、本書は「カント哲学」の「根本悪」をわかりやすく解説している本だった。
カントというとわかりにくいイメージがあり、またこの「根本悪」という言葉も性悪説?なのかとやや批判的に思っていたのだが、筆者の言葉をかりると、カントがいうところの「悪」は、キリスト教の原罪よりも、より”人間的”なのだ。
筆者は、カント哲学をわかりやすく解説しつつ、我々に考えるヒントを与えてくれているようだ。
「善く生きること」を求めるがゆえ、悪に陥るという矛盾した構造に悩むことを、筆者は力強く肯定的に問いかけている。
この本はカント哲学の入門書として最適な一冊だと思う。