紙の本
これはカント入門書のひとつ
2005/12/21 19:40
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:脱帽男爵 - この投稿者のレビュー一覧を見る
これは著者の中嶋義道がカント哲学を元に悪とは何かを説いている本ですが、正直わたしにはよくわからないところが多々あり、途中読むのをやめようかとも思ったりもしたのですが、とりあえず読み進めていき理解できるところをつまんでいくと、これはカント哲学の入門書であるという事がじわじわと伝わってきます。
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「はじめに」の部分を本屋で立ち読みして、共感する部分があり、
読んでみたくなった一冊です。
そこで、著者は、次のようなことを述べます。
※※残虐な事件が起こると、歌手やタレントやスポーツ選手までがわがもの顔に「対策」を論ずるが、「きわめて不愉快」である。
残酷な事件について語るレポーターなどが異常事態に驚き呆れたという顔をし、
沈痛な面持ちで現代日本人の「心の退廃」を嘆き、
どうにかせねばと提言するのには、「はなはだしい違和感を覚える」。
あたかも「自分はこういう悪とはまったく無縁の安全地帯にいるかのよう」であり、
自らの言葉に「何の後ろめたいものも感じないとすれば、
自分を棚に上げたしらじらしい発言に対しあとで激しい自己嫌悪に陥らないとすれば、
彼らは私とは異世界の住民である」。
著者は、むろん、ジャーナリズムを批判したいというわけではなく、
「彼らの言葉は、ある社会的な役割を自覚してのもの」と評価しています。
著者は、この「違和感」から「善い人」なんているのかという疑問を呈した上で、
「悪」について検討していくのです。
その手法としては、本書では、ドイツの哲学者・カントの考え方を紹介しています。
カント倫理学を「悪」という側面から丁寧にたどった文章は、
わかりやすく好感がもてます。
もし「はしがき」部分に興味を引かれるようであれば、ぜひご一読をお勧めいたします。
本書の内容に踏み込んだレビューは、amazonの本書のページで丁寧になされています。
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「不倫はダメに決まってる」も「不倫こそ最高の恋愛だ」も間違っている。何が掟に沿っていて、何が掟に反しているのか、“正解”を決めてはいけない。“正解”に従って、何も考えずに行動するとき、傲慢さが顔を出す。どうにもならないくらい、醜悪な顔をして。
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中島義道氏の本業、カントについての本です。
主にカント倫理学について平易に書かれていて、哲学を学ぶ人はもちろん、倫理や道徳に興味のある人ならぜひ読むべき本だと思います。
厳格主義で知られるカントですが、彼の定言命法は常に頭の隅に置いておく必要があるように思えます。
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カント倫理学の立場から「善」とはなにかを検討し、「悪」とはそこからはみだした「その他」的なものとする。タイトルに期待して「悪」と断罪された存在をこそもっと考察して欲しかったのだが、とりあえずは自分で考察するための材料がいくつも示唆されており、それなりに得るものはある。論理的な構成だがわかりやすく高水準。
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半年くらい前に読んだときは途中で読むのをやめてしまった本だが、今回は最後まで引き込まれて読んだ。
また半年くらいしてからもう一度読んでみたい。
この本に書かれている『道徳的な善さ』の良さは分かるが、そこに意識を向けて生きると人生が重く苦しく気が狂いそうだ。
『道徳的な善さ』を注視しながら生きる著者は強い。
【2010年10月23日追記】
再読したが、前より理解しやすくなっていた。
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本書は、カント倫理学の真髄をわかりやすく説き、現代のわれわれの生き方へと架橋する、落ち着いた哲学書である。難解な「哲学研究」でなく、生身の人間の実感から哲学を語るのは、著者のもう一つの持ち味だろう。
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厳格な倫理思想として知られるカントの倫理学を、「悪について」という観点から解き明かしている。
カントの問題は、何が適法的な行為であるかを規定することではなく、道徳的に善い行為を、単なる適法的な行為から鋭く区別することだった。著者はこうしたカントの問題意識の中に深く沈潜することで、カントの「形式主義」といわれる道徳法則についての議論が、一見道徳的に見える行為の中にびっしりとはびこっている「自己愛」をえぐり出す鋭い刃として機能していることを読み取っていく。ここでの著者の議論は、上に述べた論理的明晰さと繊細さが類まれな統一を見せており、まさに圧巻である。
カントの倫理学の中には何が適法的行為であるかを教えてくれるような規準は存在しない。そのために、自分が正しいと信じることとこの世の掟との相克に身を置く者は、どのように行為するべきなのか悩むことになる。それどころか、みずからの信念とこの世の掟のどちらにしたがったとしても、彼(彼女)は、みずからのとった行為が、はたして善かったのだろうかと悩み続けなければならない。悩み続けることによって、彼(彼女)は、自分が道徳的でありたかったということを、さらには、自分が幸福になりたかったということを、知ることになると著者は言う。このように展開される議論にも、この著者らしい繊細さが細部にまで行き渡っていて読者を魅了する。
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[ 内容 ]
残虐な事件が起こるたび、その“悪”をめぐる評論が喧しい。
しかし、“悪”を指弾する人々自身は、“悪”とはまったく無縁なのだろうか。
そもそも人間にとって“悪”とは何なのか。
人間の欲望をとことん見据え、この問題に取り組んだのがカントだった。
本書では、さまざまな文学作品や宗教書の事例を引きつつ、カント倫理学を“悪”の側面から読み解く。
[ 目次 ]
第1章 「道徳的善さ」とは何か
第2章 自己愛
第3章 嘘
第4章 この世の掟との闘争
第5章 意志の自律と悪への自由
第6章 文化の悪徳
第7章 根本悪
[ POP ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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まずカントが言うところの道徳とは内容ではなくて「形式」である。なので、これこれが道徳だとは言えず、定言命法に従うことこそが道徳である。そして、それに従おうとして苦悶することこそが道徳的である。換言すれば、定言命法に従えればいいのだが、従えずに悶え苦しむ姿こそが道徳的であり、真なる道徳=最高善を人間は果たしえない以上、悶え苦しまなければそれは非道徳的となってしまうのである。ちなみに、ここで適法行為と非適法行為がある。これは法にかなっているかどうかとも換言できるもので、いわゆる道徳的行為はこの適法行為の内に含まれている。とはいえ、カントが規定しているのは道徳的行為の形式だけなのであり、適法行為、非適法行為の区別はつけられないことになる。その理由としては、両者の区別は時代や文化で異なってしまうためにその点に関しては真理たる性質を持ちうるものはありえないからである。よって人々は常に適法行為と非適法行為の間で揺られなければならなくなる。ここで完全義務と不完全義務とがあるが、前者は絶対的に果たされなければならないもので、後者は必ずしも果たされる必要はないものである。これらは定言命法の中で更に形式をわける概念と言える。さて、悪の潜む場所がどこにあるのかと言えば、それは欺瞞である。外形的には適法でありながらも、道徳的でない行為からは誰しもが逃れらない一方で非情に巧妙な欺瞞がそこには介在している。その欺瞞には必ずと言ってよいほど、「自己愛」や「嘘」が付随している。自己愛による幸福追求原理内に人間がある以上、人間は幸福追求のためには嘘をつくことは免れず、外形的に適法と思しき行為を一見道徳的だとも見える形でしかし実は自己愛に突き動かされて行うのである。とはいえ、人間が道徳的行為を外れる原因は自己愛だけではなくて、そこには他律も含まれる。それに対して人間は自律=定言命法に従うべきであるのだが、予め機械的に決定される他律=神の教えなどに従うのはただの思考停止と言えよう。
では、ここで終論が見えてくる。ここで悪の素質なるものを三段階に分けてみると、「人間心情の弱さ=動物性の素質」「人間心情の不純=人間性の素質≒文化の悪性」「人格性の素質=人間心情の悪性≒悪性の性癖≒道徳的価値の転倒=根本悪」という三つの構図が成り立つ。これは人間心情の弱さというのは、ある種の動物性である。動物ならばそこに理性が含まれないから悪とはなりえないが理性を持ちうる人間がひたすら動物的に行動=強姦することによる罪でありこれは心情の弱さが原因であり、不適法行為ともなりえるので外形的なごまかしはないとされる=根本悪ではない。人間心情の不純に関して言えば、他者と自己とを比較するような働きでありそれによって社会が成立し文化も発展していくという面もありあながち否定できるものではない。とはいえ、根本悪が外形的に見られるならばこの文化の悪性という形においてであろう。最後に人間心情の悪性がありこれこそが根本悪であると考えられる。これはすなわち性癖であり、人格性でもある。よって、その人間が自由の中で獲得してきたものであり、選択しているものであり、そうして選択することができるという一種の「��由」なのである。この性癖を人間が持ちうる以上、人間は常に道徳的悪という可能性を離すことができず、そして、幸福追求が第一義とされることによって道徳法則が転倒されてしまうのである。つまり、幸福追求が第一義でありその下で道徳が達成されるべきであるという外形としては適法行為であり続けながらも根本において転倒がなされる。我々は選択の自由を持ちながらも、その選択の自由において根本悪=欺瞞を選択してしまうのである。この欺瞞は誰からも追及されることがなく、本人は自分は道徳的行為に従っているのだという欺瞞をますます深めてしまうという意味において、そして人間なら誰しもがそこから完全には逃れられないという点で根本悪であり、唯一人間がとれる対抗策は絶えずそのことを意識し悩み苦しみ、道徳=幸福追求となりうる「最高善」ないと知りながらも最高善を求めつつ、社会において無意識的な暗黙の了解となりつつある公然の欺瞞に対して軽蔑を抱きながら、ひたすら悶え苦しむことによって道徳的であるしかないのであろう。
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カント倫理学に基づいた善悪の分析。
善なる行為だけをなして生きる、つまり善であることはできない。
自分のなすべき行為が善なる動機から出ているのか悩み、そうあろうと心がけることが善である状態なのだろう。
思考停止してはいけない。
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「道徳的善さ」とは何か
自己愛
嘘
この世の掟との闘争
意志の自律と悪への自由
文化の悪徳
根本悪
著者:中島義道(1946-、北九州市、哲学)
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タイトルを見て今はまっているまんがのキャラクターを思い出して借りた。
カント倫理学の本。
悪とは自己愛が動機だということを隠して、あるいは気づかずに道徳的行為をするこち。
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善と悪は紙一重。価値観や立場が違えば捉え方も変わってくるが、人間の本質と倫理に照らし合わせるてどう解釈するか・・という哲学の話。
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タイトルの「悪について」の悪は悪一般についてを語ったものではない。カントの言説を通して中島先生の考える根源悪について語ったものである。こういう原罪に近いような悪って、きっと現代倫理学で扱うような対象ではないんだろうなと思った。
道徳的な生き方とは何かと考えるとき、それは行為そのものではないことに気付く。では行為を漂白したときに何が残るかといえば行為と関係した意志である。たぶん今時の倫理学ではその意思が自己愛と深い絆で結ばれていることを前提として様々話が組み立てられていくのだろうけど、カントや中島先生はそれを許さない。厳格主義というだけのことはある。カントは適法的行為とは何かを主題に挙げなかったということだが、挙げる必要が無いという以前に挙げられなかったのではないだろうか。中島先生も挙げられないように見える。強いて挙げてしまうと、アイヒマンの持つ定言命法の格率と、グリーンフェルト氏のぎりぎりの所で持ち続けた定言命法の格率に決定的な違いを見出しづらいことが露呈する。
定言命法による確率を最優先すべきだとカントは言うが、中島先生はそうは言っていない。ただ悩めと。自己の選択が善だと正当化することは言わずもがな、善悪が無いと達観することも不道徳極まりない。
生きづらい生き方を選ぶ人もきっと多いんでしょうね……としか言えない自分がいる。