紙の本
数の比率と平均律の響き
2006/01/31 14:23
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:gorge - この投稿者のレビュー一覧を見る
数の比率と平均律の響きの不思議を調律師が語るエッセイ。単なる平均律の歴史ではないし、自由なスタイルが面白いんだけど、楽理についてなにも知らないおかげで、「正調音」(純正律)、「中全音」(ミーントーン)などの用語がはっきりしないところが残ってしまい(組版の細部とか、邦題とか、編集がもうひとつの印象もある)、なので『響きの考古学』藤枝守 音楽之友社(1998)を補助的に再読する。これでちょっとすっきりした。でも音程を比率で表現するのは一向に慣れない。
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ただの調律の専門的な説明書ではなく音と接することに対する愛情と、なにか物語がちりばめられているようなその語り口にどきどきした。
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平均律とその他の律を知っており、その意味を知っていたからこそ読めたが、そうでない人にはチンプンカンプンだろう。またその考察も決して面白いものではない。
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昔テレビで観た科学番組を思い出す。ある中世の哲学者が惑星の軌道の法則を見出そうとする話である。神の作り給ふた宇宙には数学的な美がある筈だとという話である。彼は軌道の中心の周りを正多面体で囲っていくことを思いつく。それぞれの正多面体の頂点が内接する球を一つの惑星の軌道とすることを思いつくのである。ところで正多面体は正三角形を一つの面とする正四面体(三角錐)から始めて、4、6、8、12、20の五つしかないことがその当時は既に知られていた。一方、惑星(火星~土星、月は惑星ではない)は六つが知られていた。つまり、五つの正多面体のどれかは二度使わなければならなかったので、既にある意味純粋な美しさは損なわれているようにも思うのだが、彼はそのアイデアを捨てられなかった。コペルニクスのデータをつぶさに検証し、天動説のみならず後に惑星の軌道が楕円であることに論理的証明を与えたケプラーが、である。
神は宇宙を数学を使って創造したと物理学者は表現したりするけれど、神があてにした数学は明らかに整数論だけではなかったのである。プラトン的な宇宙ではなかったのだ。
合唱ということをやったことがある人ならば、自分たちが再現する音が決してピアノの鍵盤から出てくる音そのものでないことを感覚的に知っているだろう。合唱は本書のなかでいうところの純正律を追い求め易い(というか自然にそこへ響きを求めてしまう)タイプの楽器、あるいは、音楽表現形態で、その時その時に求められている純正律的ハーモニーを支える音の振動数へ、自分たちの出す音を微妙にチューニングし直していく。最近では、そういう純正律をどの調性でもすぐに鍵盤で再現できる機械もあり、練習に使ったりするところもあると思うが、そんな高級な機器がなくても歌い手は身体でその調整をすることを心得ている。歌い手が求めるのは、倍音と呼ばれる共鳴された音で、出していない筈の音が、上方へ正五度で伸びて上がっていくのである。その倍音の豊かさを歌い手は純正律に従った音が出ていることの判定に用いているのである。
しかし純正律が決して音楽の連続性、すくなくとも現代人である我々が慣れ親しんでしまっている旋律のパターンを担保しないことは、メロディーパートではない、いわゆる内声を担当していると感覚的にもよく解る。そのパートの旋律(のようなもの)を取り出して歌ったとしても、その純正律的な音の高低調整感は失われ、あくまで平均律的な滑らかさを頼りとせざるを得ないのだ。純正律に基づく和音の中の音は、和音のなかにしか存在しないのである。
著者は純正律の持つピュアな音の響きのことを充分に理解しつつ、純正と純正でないものとの間に存在するはずの、あるいは存在せざるを得なくなったものについて掘り下げる。そのどこでもないような世界へ向かっていく感覚が面白い。その結果生まれる、どこにも純正な響きがなく、けれどもどの和音にも大きな破綻のないという平均律が立ち上がる。数学的な純粋さはプラトン的な意味では失われているけれど、イデアではないこの現世における美的表現としては、平均律は理想的なのである。
そういえば純正律��合わせた鍵盤から聞こえてくる五度と三度を重ねた和音(いわゆるドミソ)はビブラートを付けないヴァイオリンの響きのようで、シンプルでどことなく頼りないと、現代人の我々の耳には思えてしまう一方、平均律のピアノの音には、小さなうなりはあるものの、何故か、そちらの方が華やかに感じられてしまうのだったことを思い出した。
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菊地成孔の本で音楽の三大革命、十二音階平均律、バークリー・メソッド、MIDIについて学んだのだが、それ以前にピュタゴラスの数学的純正音程があったことを知り改めてギリシャ人にびっくり。
「音程はいついかなる場合にも『なる』ものであって、けっして『ある』ものではない」
「音律というものは、音楽のひとつの相にすぎない」
ピアノの調律という職人芸のなかに詩心と哲学があふれた稀有な音楽本だ。
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調律という観点から、平均律の意味について、興味深い内容になっている。
これから、調律師になろうとしている人だけでなく、ピアノを弾き、ピアノを聴くすべての人に知っていて欲しいことが書かれている。
音楽が何故、数学と仲良くできていないかの根源的な問題を浮き彫りにしようとしている。
平均律は、倍(2)音を、オクターブ(8)、12音でどうやって区分するかという、一面では非常に数学的な問題に取り組んでいる。
それは、波という物理的な現象に関係し、共鳴、共振という現象と、うなりという現象に着目している。
原書は、The Seventh Dragonというタイトルで、7番目の龍が音を好むことから命名されていると推測できる。
原著者が、これを日本の「南総里見八犬伝」から取ったとされている。
これについては、訳者は、著者から詳細な情報収集をしている。
訳者は音楽、中国文学の専門家でないためか、用語、解説がやや物足りなく、原書を読んで、もう少し、詳しく知りたいと思った。
龍の話は、もとは中国の民話であり、龍生九子という話である。
興味深いのは、数と音楽についての本で、2、3、5、8、12という数字がでてきて、その本のタイトルが7であり、それは8にまつわる日本の文学で引用している中国の9にまつわる伝説によるものであることである。
整数と音楽の幅広いかかわりが、アメリカ、日本、中国から新たに始まることを期待する。
ps.
この本に興味を持った人には、T.E. カーハート著「パリ左岸のピアノ工房」という小説が、いろいろなピアノについて知ることができるのでお勧めしたい。
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新装版、と言う事で以前に読んだかどうか記憶にない…図書館に有るみたいだから、とりあえず次回借りて見よう。
実際に借りて読んでみた。
僕はとても興味深く、哲学的、芸術的に読めたように思うのだけど、ある程度はピアノの構造や調律作業の実際、平均律、平均律以外の律の幾つかについて、簡単な知識を持ってから読んだ方が良いように思う。
特に、それらの専門的な本を読む程ではないと思うが、少なくとも、純正律、平均律、調律法、五度圏などのキーワードでググってみると良いかも知れない。
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アメリカで調律師として活躍する女性の手になる本。
調律師の世界をあまり知らないので、今や「女性」と強調するのは不適切かもしれないが、珍しいのではないか、という先入観がある。
腕力もそれなりに要るのかなあ、なんて思うから。
ピアノの調律をするときは、どの調で弾いてもそこそこの響きになるように、純正律をわずかに調整する。
そんな話は以前にもどこかで読んだことがある。
実際は何を、どう調整しているのか。
ピアノの音のどこに注意しているのか。
そんなことが知りたくて本書を読んだ。
平均律が考案されていくプロセスが説明される。
そこはよくわかる。
類書で読んだことがあったせいかもしれない。
調律師がうなりを聴いている、というところは、そうだよな、と思う。
琴を調弦するとき、自分もそうだったから。
(もちろん、それを88本の弦でやるというのは、自分にとっては信じられない世界である。)
チューナーなども使うのかなあ、とも思うけれど、最後は一台一台のピアノの個性に合わせた調整が必要となる。
そこをどうしているのか。
この域まで行くと多分に感覚的な職人芸の世界だろうから、それをどう文章化するかと思っていたのだが。
あるいはほんのわずかな調整のためにどういうものを使っているのかとかも知りたい。
が、そういう方向に本書は向かっていかない。
何が不満かというと、科学的に厳密に書こうとしているのか、科学的なものはレトリックなのかがよくわからないということだ。
たとえば、こんなフレーズ。
一方で平均律音階は、…特異なもののひとつである。…このやりかたでは、音楽の全体像を完全に理解することはできないのかもしれない。解剖や測定から自動的に理解が得られない理由のひとつは、物理的なものとも考えられる。ある一定のレベルでは、けっして全体にはならずつねに部分にとどまるものがある。その一方で、つねに全体であってけっして部分にはならないものもある。物理学者たちによれば、原子より小さい粒子のあるものは組織化されていないそうだ。そうした粒子はどこまでいっても、同じひとつの永久に分割できない全体のくり返しという見方がある。その証拠に物理学でいうクオークは、絶対的な部分性という考えかたを具現しているといえる。クオークは部分的な形でしか存在しえない。おそらくクオークは部分抽出できるような単体ではなく、たんなる様相(傍点あり)にすぎないのではないか。(p116)
平均律により音楽にある種のフィルターがかかるということは理解できる。
ある地域の、平均律によらない音律で奏される音楽が、平均律に変えられたら、同じようには聞こえないということも想像がつく。
部分を寄せ集めたら全体になるかという疑問も、わかるのだが…。
どうしたらいいのかねえ、この本。