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期待した内容とはやや異なったものの、学ぶところ多かった。
★いかなる対象ももはや映すことのない像★
→これ書きたいのは間違いない。無限としての、顕現しないもの。裂開。痕跡に応答する物語りとしての書。ということ。そこに顔や、一の動きが刻印されるし、伝統もおそらくそこにこそある。
書が、こうした痕跡=顕現しないものを、刻印する行為であることはおそらく間違いない。従って、自分の臨書がそうであるように、その達成は、痕跡に触れたかどうか、つまり、裂開としての、ことばの到来があったかどうかというところが重要なのだ思う。この観点から考えた時に、今に生きる自分が目指すべき書作品においての達成は、あくまで痕跡の分有、裂開の場にともにいるような、その次元を作れたか否かという点ではかるべきなのだろう。こういう観点で見た時に、書作品モチーフのその多様さに目がいく。歴史記述、占いの記録、出来事の報告、詩歌、手紙、一字書、禅語、、。つまりやはり思うのは、モチーフの問題ではないのだということだ。つまり、詩を書けば良い、禅語をかけばいいわけではなく、あくまで裂開を還元することこそが重要であり、また書作品の達成は、そこでのみはかられるべき。外的な形式、題材、モチーフの問題ではない。
だから、決して詩を題材にしないと、書にならないわけではなく、禅語を書いてだめなわけでもない。重要なのは、目に見えない次元での、顕現しないものを刻印すること。顔に対する応答が、おそらくそれを実現するのではないかと思う。少し頭が柔らかくなるというか。詩でなければいけないわけでもないし、一字書だけが可能性というわけでもない。あくまで顔がそこに刻印されるかどうか、痕跡=裂開に対して応答し、その出来事の還元としての制作がされているかということこそが重要。つまり結局は、文字を使いつつ、文字性を超える、いかなる意味に文節されないような、そうした体験が創出できれば良い。とにかくも、顔を刻印することなのかなと。既存の語を使って別に良いのではないか。それにおいても、痕跡=裂開は、刻印できる。要点は、謎そのものをそこに還元し切るというところに尽きるのだと思う。書道史の課題は本来、この謎自体を、痕跡それ自体を継承していくことにあり、その意味でこそ書道は伝統たり得るのだと思う。今日において、いかにこの謎そのものを、書において継承化することできるのか。そこに今の自分の興味はある。形式の問題ではない。そ出来事をいかに出現させることができるのかということ。
自分が誰なのかという問いに答えるとことは、人生を物語ることになるのだとして、物語りは、こうした痕跡や顔への応答として捉えられる。つまり既存の定型的な生き方が通用しない場に曝け出され、それに応答することが物語りなのすれば、裂開を描く、書作品はまさに、物語りということになるだろう。
以下引用
現代絵画におけ模写なき呈示
現象学は還元を唯一の方法として事象そのものへ接近する試み
何らかの像ではない、像そのものを作ることに焦点が移っていった
顕現しないと��現象しないことではなく、あくまでも志向性に支配された現象野には現れないということ
顕現しないものは、現出しないもの、もしくは見えないもの
顕現しないものとは、現象に対立する概念ではない
顕現しなものが世界地平のうちに現れることはない
★★顕現していないもの、現れていないものを、志向性のまなざしのもとに暴き出すのではなく、それ自身の方から顕になるがままに、それ自身の方から見えるようにする
→まさにこういう制作がやりたいんだよな
原印象は、そのものとして現象する力を持っている。ただ、この現象性はいかなる志向性に媒介されないから空虚で実在性のない地平に囲まれなければ世界の内部には何も意味として現れなかったのと同様、目立たない=顕現しないにである。
世界には顕現しない次元を開示するという意味で、逆還元、反還元
志向性と相関関係にある還元は、すでに成立している現象性を手引きに、それを構成した志向性を遡行的に暴いてゆくものであり、そこに新たなもの、未知のものを現象性として発見することはない
予定調和な還元では、それにより開かれる現象性がいかなるもにであるかはわかっていて、還元する自己が還元の遂行により開かれる事象そのものに巻き込まれて変容するなどということもない。それほどに法外な事象を開示する力はこの還元にはない
反還元が開示すべき唯一の事象そのものは世界ではなく、絶対者。事象の志向的な像を顕にする従来の還元とは異なり、志向的相関性、均衡関係を破って、事象そのもの=絶対者も内部に踏み込むことで、未知なるものの到来を開く
★自己は、事象そのものたる絶対者の内部に参入するために、還元の実践以前の自己とはまったく変容してしまう。それ応じて還元によって開かれるのも、まったく新たな、未知の湧出
志向性は、事象そのものの直観的な贈与に先立って、贈与の条件を設定しておくことで、世界を現象させる
贈与葉、志向的に現れることがない
時間に亀裂をいれる出来事こそが、贈与
イコンによって現前させられても、見えないものあいかわえあず見えないものとどまる
テキスト無意味な次元で眺める
意味の地平を無意味すよる読むこと
シニフィエなきシニフィアン
文字は通常、何らかの意味を担う記号として機能する。それは志向性により活性化されて一定の意味を持つ。だが、文字を純粋な意味から切り離されたものとして見ることもできる
何も意味することのない不可解な形として文字
意味以前の純粋文字テキストこそ形に還元された文字
顕現しないものとして飽和した現象
★まなざしが見て把握した限りに像ではない。ぶれの集積のよう。存在の裂開においての、見え(光景)とそこに内的契機として含み込まれた限りでのまなざしとが、原初的に生まれる。その瞬間を捉え、像として留めたもの。それがセザンヌの絵画。
まなざしはあくまでも原出来事から始めて生まれる。すでに弛緩し、見えるものの世界との間に距離をとってしまったまなざしそこにある物を惰性的に写しとっただけの像からはこのような体験は生まれ得ない
→断絶的時間それ自体を描いている
私が森を見ているのではなく、樹木がわたしを見ているような
存在の劣開も出来事に参入し、そこから新たに変容して生まれる。それはいわば、見るー見られるの区別はもちろん、見えるー見えないに間に差異のない可視制の出来事。この存在の裂開こそ、真の顕現しないもの。
★セザンヌの山を描く行為において、見せようとするのはこの山の形態ではなく、それを見えるものがらしめている真の見えないもに=顕現しないものに他ならない。
→まさにこういうことを文字でやりたいな。間隔、断絶それ自体文字という像であらわにすること。裂開それ自体を、描くこと。井筒の無文節→文節を思い出す。
還元により物そのもの近づき、その見えの生成のなかんj入り込んで、その像化の一契機と化す。実在そのものの動きに内部から立ち会おうとす試み。