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特にメディアが信じられなくなる本。情報の裏付けとは非常に労力を伴うものであり、一般の人は政治問題や様々な事件について本や新聞でしかその情報を仕入れることはできない。その裏にどのような意図が隠されていようと、我々は提示された情報でしか判断できない。その情報が改竄はされていなくとも、判断の為の重要なセンテンスが隠されていたとしたら、もうどうすることもできない。誰のためのメディアなのか、今一度考えさせられる本。
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本書を読むと、現在のメディアを巡る問題状況-いやメディア自身だけに留まらず、それが関わる森羅万象を巡る問題状況と言ったほうがより適切か-が一つの揺ぎ無い構造の上に成立していることがいやが上にも痛感させられる。メディアが文字通り「媒介者」でしかない以上、その入力を掌握するもの=公権力がいかようにも動かすことができるというのは、あまりにも自明な、そして磐石な構図である。逆にそのような構図にも関わらずメディアが反権力であるという妄想が許された時代が牧歌的であったという気さえするほどだ。哀しいかな、権力の世襲を批判しようにも、今や政治記者の身分が三代に渡って世襲されるご時世なのだ。
言論統制といえば今だに北朝鮮が例に挙がることが多いが、かの国のように「言論統制する事」を半ば公とするような仕組みは、メディアへの入力としての「情報」は統制できても、言論の基盤となる人々の意識を制御することはできない。比較してわが国は言論の自由がタテマエとなっているために、情報を統制することが意識=言論を制御することに直結する。 何でも言えるはずのメディアが黙っているということは、そこに何か言うべき事実が存在しないと見なされる。少なくとも国民はそう見るように馴らされている。
魚住氏は元記者であり、かつての同僚たちの一片の良心に期待しているようだが、その点については異議がある。大企業の広告と公的機関の発表情報に牛耳られたメディア空間で、高額所得を保障された記者が垂れ流す記事が真実を伝えると考える方がどうかしているのだ。この簡単な事実に全ての人が気付くことからしか、突破口は開けない。
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メディアが組織の論理で、自然と権力におもねる様子が具体的に描かれている。
NHKの番組改変問題、裁判員制度での最高裁と電通のやり口などは、職業倫理に欠けると言わざるを得ない。
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官僚とメディアのなれ合いをテーマに、共同通信の記事配信見送り問題から始まる。時代の空気のようなものに、知らないうちにメディアが気を使うようになっているのではないか。
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前半は筆者自身の共同通信でのメディアという組織の体験記。自身のジャーナリストとしての矜持と会社組織のせめぎあいはそれはそれで面白い。
後半になると、官僚の情報操作に踊らされる報道の数々に、暗澹たる気分にさせられる。特に、耐震偽造事件での、自身の責任を葬った国交省の情報操作は犯罪的だ。当時を振り返ると、自分もマスコミ報道通り「建設会社ぐるみの偽装」を信じてしまっていた。
このところ、情報操作するまでもなく政官べったりのメディアも多く、状況は益々厳しくなったが、記者の皆さんには是非とも踏ん張ってもらいたい。
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久しぶりに読み応えのあるメディア論。どれだけメディアが体制側と癒着しているのかよくわかる。世論誘導と言われても仕方がない。
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2006年、共同通信の「安倍晋三関係施設の火炎瓶放火事件スキャンダル」のスクープ記事をもみ消したのは当時の編集局長、後藤謙次であった。詳しいことが知りたい方はお読みください。以上。
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マスコミ人が、情報を取るために努力するあまり、みずから情報を操作するようになってしまう、という部分は納得。